黒葛陸視点(9)
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チャイムを鳴らす。数分間の沈黙の後、ドアが開かれる。
「黒葛くんじゃないか、これはまた久しぶりだなあ。今日は学校じゃないのかい?」
詩織のおじさんは、スーツ姿で俺を迎えてくれた。こけた頬と、伸ばしっぱなしの無精髭。頼りにならなそうな顔だが、俺や詩織に優しかった。
父親に叱られて落ち込み、家の庭先でふてくされた時。詩織のおじさんは、そんな俺を見つけて、いつも慰めてくれる。たまに秘密だよ、と笑いながら、お菓子をくれたりする。
俺は詩織のおじさんを、まるで年の離れた兄のように慕っていた。
そう、慕っていた――。
「実は今日、学校に行ってみたら休みだったんです。なんて言うんですか、たしか創立記念日? とかいうやつだったんです。それで、学校が休みみたいだったんですよ。学校に行っても、誰もいなかったので、驚きましたよ」
わざとらしい明るさ。
自分でも寒気がする。
「そうだったのかい? それは、黒葛くんも災難だったね。あれ? だったら詩織も、今日は間違えて登校していったんだなあ。詩織はどうしたんだい? 一緒に帰ったんじゃないのかい?」
詩織のおじさんは、俺の後ろを確認するが、そこには誰もいないはずだ。
「ああ、詩織のやつ、教室に忘れ物しちゃっていて、俺だけ先に帰ることになったんですよ。あと、これは詩織からの伝言なんですけど、今日は学校が休みで給食ないから、お昼ご飯よろしくお願いします、って言っていましたよ」
「ああ、まったく詩織は相変わらずドジだなあ。分かったよ。わざわざ伝えに来てくれてありがとう、黒葛くん」
詩織のおじさんは、髪を掻き毟る。
「あー、冷蔵庫には何があったかな? たしか冷凍食品は切らしたとか家内が今朝話してたような……。よーし、久しぶりに、僕の料理を振る舞おうかなっ!」
詩織のおじさんは袖をまくる。そして俺にじゃあねと手を振り、ドアを閉める。
瞬間。
閉められようとしたドアに、足を挟む。
「ど、どうしたんだい? 黒葛くん。もしかして、何かまだ用事があるのかい?」
「……どうしてそんなに急いでいるんですか?」
俺は、感情の抜け落ちた声音で、淡々と告げる。ここでなあなあな態度をとってしまったら、俺達の計画が台無しになってしまう。詩織が勇気を出して、俺に全てを告白してくれたことも、露と消えてしまう。
詩織のおじさんは、目に見えて狼狽していた。
「それは……詩織に昼飯を、急いで作ってやらないといけないからさ」
「じゃあ、どうしてそんなに、冷や汗かいているんですか?」
「……冷や汗って」
詩織のおじさんは苦笑する。
「これはただの汗だよ。僕って汗っかきだからね。いつも、滝のように汗をかいちゃうんだよ。そのせいで、詩織には煙たがられてしまうんだが……。どうしたんだい、黒葛くん? 今日はちょっとおかしいよ?」
「じゃあ、その女物の靴はなんですか? どこかで、見たことがある気がするんですけど」
ドアの隙間から俺は、玄関に置かれている一足の靴を指さす。その俺の指と、声は震えていた。
静まれ。
俺はもう一方の手で抑え込むが、その手も震えている。
目を逸らすな。
「そ、それは……」
「答えられないんですね」
「それは、家内のやつだよ。あいつ、いつも朝は靴選びをするんだ。何種類も、靴を靴箱から取り出して選ぶんだよ。それで出しっぱなしに――」
俺は強引に、部屋の中に入る。
「待ちなさい、黒葛くん!」
詩織のおじさんに肩をつかまれるが、俺はしゃがみこんで、その手の拘束から逃げ出す。
嘘だよな。詩織の勘違いだよな。俺の目の錯覚だよな。
か細いうめき声をあげる。
「ねえ母さん、何しているの?」
「……陸」
こんなにも近くにいるのに、声は遠くから聞こえる。
俺の母さんは、バスタオル一枚を身体に巻きつけているだけで、それを引っぺがしてしまえば、真っ裸状態だった。
乾かしきれていない髪の毛から、滴が落ちる。
二人の間に、気まずいなんて言葉じゃ生ぬるい、生き地獄のような空気が流れる。
詩織のおじさんは、俺の前に立ちふさがって、曖昧な笑みを浮かべる。
「黒葛くん、君のお母さんには、家のことについて相談があったんだよ。彼女が風呂に入りたいからって、入らせただけなんだ。そっ、相談事っていうのは、ほら、僕はからっきし家事ができないから――」
「誤魔化さないで下さい!」
詩織のおじさんが、未だにはっきりした態度をとらないことに、俺の母さんが、俯いたまま何も話そうとしないことに、誰にぶつけていいか分からない、この激情に、頭が沸騰して正常な考えができない。
「もうっ、もう……全部知っているんですよ。……俺達は」
表情の抜け落ちた詩織が、部屋に入ってくる。
「……詩織」
詩織のおじさんが呻く。
「私この前見ちゃったの。お父さんと、黒葛くんのおばさんが、裸で抱き合っていたところ」
詩織は高台で、すべてを赤裸々に語ってくれた。学校を早退して、自分が目撃した家族の裏切りの全てを。
辛そうに話す詩織を、それ以上話さなくていいから。と俺が何度も言い聞かせたんだが、途中で止めることはなかった。多分、全部吐き出してしまわない、自分がどうにかなりそうだったんだ。
「お父さんたちは……お父さんたちは汚い!」
止めどない涙と鼻水を振り払いながら、詩織は叫んだ。
そんな自分の娘を見て、おじさんは、気まずげに視線を逸らした。
それから詩織のおじさんと、俺の母親は、少しだけ時間をくれないかと懇願してきた。親同士で話し会わなければいけないらしい。
俺と詩織は、二人の言い分を信じて、とりあえず詩織の家からでた。俺も詩織もあれ以上、あの場にいたくなかったんだ。それに、信じたかった。俺たちの親を。一度裏切られても、最後の最後は信じたかったんんだ……。
俺の両親は愛し合って結婚した。そして、俺が生まれた。どんなにすれ違いや、間違いを起こしても、愛し合う二人は分かり合えるんだ。
何事もなかったかのように、俺達はそれぞれの家に帰った。
俺の母親は、さすがにいつもの元気がなかった。
目も合わせたくなかった。
俺は気を使って、すぐに自分の部屋に籠った。
きっと俺が寝静まってから、親同士で話し合うのだろうな。
俺がベッドに寝転がりながら天井を睨んでいると、母親が陸、起きてる? と部屋をノックしてきたが、俺は無視した。
どうせ俺も交えて、今後の話し合いでもする気だろう……。
冗談じゃない。
俺は今日、自分の人生を揺るがすほどの衝撃を受けたんだ。悲しかったんだ。これ以上、あんたらに振り回されたくない。
母さんはドアノブを何回か回し、鍵がかかっていることが分かると、諦めたのか、俺の部屋から離れる足音が聞こえてくる。
俺は下の階から何も聞こえないようにと、毛布を頭から被る。寝ていればいつかは、感情の嵐は過ぎ去る。閉じた瞳が熱くなる。情けない声が漏れないように、枕を顔にくっつける。
そしていつの間にか、俺は寝てしまっていた。
朝起きて、ダイニングルームに行くと父親が蒼白な顔をして、一枚の紙を持ったまま、立ち尽くしていた。
まさか。
そんな、嘘だろ。
膝がガクガク揺れて、尻餅をつく。
俺は父親の言葉を信じられずに立ち上がり、紙を父親の手から奪い取って、母親の筆跡である文章を上から読んでいく。
長い文章を読んでわかったことは、俺の母親と詩織のおじさんは、昨夜のうちに、二人で夜逃げしたってことだ。
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