雛原詩織視点(12)
水族館の中で強烈に網膜を焼き付けたのは、トンネル型の巨大な水槽だった。あれには普段大人しい私が、思いっきり興奮した。
視界いっぱいに多種多少な魚達が優雅に泳ぐ姿に囲まれ、まるで自分自身が海に潜っているかのような錯覚を覚えた。
……こんなに楽しんでしまっていいのだろうか。
家のドアに手をかけている所を黒葛くんに見られてしまい、どこか行くのかと訊かれ、咄嗟に麻美とウインドウショッピングに行く。……という嘘を私はついてしまった。それが今の今まで心に棘が刺さったように気がかりだった。
幸い、嘘はばれなかったようだけど、罪悪感に苛まれる。何もやましいことなんてするつもりなんてない。したとしても、黒葛くんは関係ない。それなのに、どうして咄嗟に嘘をついてしまったんだろう。
水槽を中腰で眺めたままでいると、橋下くんが私の心配をしてくる。
「どうした? つまんない?」
「えっ? ううん、すっごく楽しいよ。水族館って、本当に久しぶりだけどやっぱり面白いね」
紹介文によると、深海の生き物らしい。普通では考えられないぐらい小さな蟹から、私は目を離す。
「……だったらよかった。俺の妹に外で遊ぶならどこがいいかって訊いたら、水族館って言われたからここにしたんだ。 雛原が面白いって言ってくれるなら、やっぱり水族館にしといてよかったよ」
「えっ、橋下くん妹さんいたの? 初耳かも」
「ああ。年下のくせに生意気で、年がら年中口うるさい奴だけどな。昔はあんなに懐いていたのに、中学校に上がったぐらいから俺のことを毛嫌いするようになったんだよなあ、あいつ。ったく、あんな喧しいだけの妹よりは、一緒に遊べるような男の兄弟が欲しかったぜ」
橋下くんの言葉をそのまま受け取ると、妹さんのことが嫌いだ。けれど、嫌いな相手をここまで饒舌に語れるってことは、好きっていう感情の裏返しなんじゃないだろうか。
「橋下くん、妹さんのこと好きなんだね?」
橋下くんはいきなり吹き出し、何秒間か腹を抱えながら咽かえる。それからようやく平静さを取り戻すと私に向き直る。
「どぉ、どうして、雛原がそんな意味不明な発想に至ったのか俺にはわからねぇよ」
「そうかな? 結構分かりやすいと思うけど。……それより私があのチケット使って良かったのかな? 妹さんと行ったら、喜んでくれると思うよ」
橋下くんは苦笑しながら肩をすくめる。
「いいや、妹と水族館なんて想像しただけでも勘弁だ。絶対に無言のプレッシャーに耐えられなくなって、俺、妹置いてどっかに行っちまうよ」
「無言? さっき、妹さんうるさいって言っていたよね。それに橋下くんと妹さんって仲悪いの?」
「仲悪いっていうか普通だよ、普通。妹がうるさいっていうのも時と場合にもよるな。まあ、なんだか知らないけど俺に 色々不満が募っているみたいだぜ、あいつ。あっちがこっちのことを一方的に嫌っていて、俺と顔を合わせるたびにいろいろ言ってくるんだよ。ったく、あいつの相手するのもいい加減面倒くせえ」
「……一方的ってことを別の角度から考えると橋下くんは妹さんのこと好きってことでしょ? だったら橋下くんは、妹さんともっと話し合った方がいいよ。橋下くんから話してかけてあげないと、妹さんだってどうやって橋下くんと接していいのかも分からないだろうし……。それに、妹さんは橋下くんのこと好きだと思うよ。好きだからこそ、橋下くんのことが色々気になって、橋下くんの一挙手一投足に口出ししちゃうんだと思う」
二人して適当に歩いていると水槽のある場所から出てしまう。そして橋下くんはかぶりを振る。
「そんなわけ――いや、そうかも知れないな。ああ、少なくとも俺は妹のことそこまで嫌とは思ってねぇよ。……だけどあいつが、俺のことをどう思っているかまでは分からないけどな」
私は立ち止まる。そして、同じく立ち止まってこっちを振り向いた橋下くんを、真正面に捉えて見つめる。
「きっと大丈夫だよ。妹さんと話し合いすれば絶対に分かり合える。……多分だけど」
そうでないと私が困る。兄と妹は家族だ。家族が仲良くないのは例え他人事であったとしても無視することはできない。
だって、私の家族はもうバラバラになってしまったから。
あの頃に戻れたらって思うことは少なくない。
あの頃のように家族みんなで仲良く過ごせたならどれだけ現在、私は幸せだって実感できていたんだろうって、やっぱり考えてしまう。それはきっといけないことなんだ。現実は理想に押しつぶされてはいけないものなんだ。
私がいま生きているのはこの現実なんだから。
だから、気持ちに区切りをつけないといけない。想いを捨てなければいけない。
私はこれから変わらなければならない。
過去をいつまでも追いかけるのではなく、自分自身がこれからどうやって生きていけばいいかってことを。
橋下くんがまた歩き出す。
「俺も変わってるなあってゆー、自覚はあったんだけどよ、お前って、実は俺なんかよりもよっぽど変わってるのかもな」
「そ、そんなことないよ。私だって最近しっかりしてきたっていう自覚があるから!」
「ないない、絶対ない」
「ちょっと、橋下くん!」
私は日々変わろうと一生懸命努力しているつもりだ。関わりの少なかった橋下くんとだって、こんな風に話し合えるようになったし、ふざけながら軽口を叩けるようにもなった。
黒葛くんとだって前よりは距離が近くなった気がする。家では全く話さないが、学校では結構話すようになった。
……でもそれは全部麻美のお蔭だ。私は彼女の恋を応援するって誓った。だから黒葛くんとの距離が近くなったからって嬉しがっても意味がないことなのに、黒葛くんのこと考えちゃいけなのに、私は――。
「なぁ、ここに来た記念にプリクラでもとらない?」
「いい……けど」
「なんだよ、その微妙に嫌そうな返事は?」
「ち、違うの。ちょっと驚いただけ」
私は慌てて誤魔化すように両手を胸の前で振る。
「あっ、そういえば橋下くんの相談事ってなんなの?」
「それなら、プリクラ撮った後に昼飯食いながらでいいだろ」
それから私達は水族館に設置してあったプリクラでプリクラを撮った。
昔より料金が高くなったような気がするが、機能が増えていて結構楽しめた。携帯に写真のデータを取得して、橋下くんにメールでデータを送った。
外からの太陽の光が降りそそぐ開放感があるカフェレストランで舌鼓を打った。
メニューは豊富だったけれど私は普通に日替わり定食を頼んで、橋下くんはあなご天丼を頬張っていた。
「このアナゴ上手いけど、この水族館で鑑賞したあのアナゴじゃねぇだろうな?」
と無神経な冗談を飛ばしてくる橋下くんを、詰りながらもそれ以外の会話は楽しめた。
その時間はあっという間に過ぎ去っていった。だから私は忘れてしまっていた。
橋下くんの相談事のことを。