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歌子さんが日常的な行動をするところを、僕は見たことがなかった。
たとえば、何かを食べるところ。飲むところ。顔を洗うところ。お風呂に入るところ。眠るところ。それから、トイレに行くところも。
彼女はこれらの行動を全て、僕が寝ているときや出かけているときに行っているらしかった。その証拠に、朝起きると食パンが一枚減っていたり、たっぷりあったはずのペットボトルのミネラルウォーターが残り少なくなっていたりした。あの日以来シャワーの音で目が覚めることはなかったが、おそらくシャワーもきちんと浴びているのだろう。歌子さんの身体からは、いつも香水のように、淡く雨の香りが漂っていた。外が雨でも雨でなくても、彼女の周りだけでは、いつもほんのりと湿ったどこか懐かしい香りがした。
大学もバイトもなくて僕が家にいるとき、彼女はずっと絵を描き続けていた。最初は蜜柑の絵。それを全部僕が食べてしまうと、次は蜜柑の入っていたかごの絵。それも片付けてしまうと、今度はインクの無くなったボールペンの絵……。目の前に置いてあるものを、彼女は描き続けた。絵と向き合う歌子さんは真剣で、どの絵もとても精巧だった。けれど、完成した数秒後には、それらは全て歌子さんの手によって真っ黒く塗り潰されていた。強く、強く、黒く。そのときだけ、いつも無表情な歌子さんの顔が少し歪んだ。歯を食いしばる。鼻のところにほんの少しだけしわを寄せる。そうして、ボールペンの匂いが雨の香りを凌ぐほどになった頃、ようやく彼女はそれを止める。あとはくしゃくしゃに丸めて、そこらへんにぽい。そして、僕が買ってきた子供用の落書き帳をぺり、と小気味良い音と共に一枚ちぎって、また新たな写生を始める。その一連の動作は既に流れ作業化しているようで、歌子さんはなんの躊躇いもなくそれを行った。描く、眺める、塗り潰す、捨てる、ちぎる、また描く。ある種の無限ループ。僕がいる限り、彼女は永遠にそれを続けた。
歌子さんはまた、邪魔をされたり決めたルールを破られたりすることを何より嫌った。彼女は一人静かなところで絵を描き続けるのが好きなようで、当然テレビも駄目、ラジオも駄目、その上一時間に一度くらいは僕に向かって「どっか行けば」と言った。また、彼女を取り巻く紙屑たちを捨てるのはいつの間にか僕の仕事になっていたのだが、あるとき捨てる前に紙を開いて絵を見ようとしたら、何故だかひどく怒られてしまった。同じ部屋にいても、怒られるばかりなのだ。おかげで僕は、休みの日には寝室に篭もってウォークマンで静かに音楽を聴いたり、あるいは用事もないのに一人ぶらぶらとどこかに出かけたりすることが、次第に多くなっていった。




