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いつもの三倍近くかけてゆっくり入浴したのだが、上がってみても歌子さんは先ほどと変わらない姿勢で相変わらず何かを書き続けていた。丸められた広告が幾つか、彼女を取り巻いている。覗いてみるとどうやら、丸テーブルに置いていた、先日実家から送られてきた蜜柑の絵を描いているらしかった。ひとつの蜜柑の輪郭が、皮の斑点や影の具合が、広告の裏の狭い平面世界にボールペンで驚くほど忠実に再現されている。あんまり上手いので掛ける言葉もなくただ呆然と手元を見ていたら、絵が完成したのかその手が暫く止まった。ずっしりと重い沈黙。と、次の瞬間、歌子さんはその蜜柑を真っ黒く塗りつぶしていた。広告が破れるくらいの勢いで、強く、強く。それをしながら、彼女は無機質な声でこう言った。
「君、お金持ちなんだね」
「え」
「だってさ、まず蜜柑買う余裕があるでしょう。それにここ、部屋も二つあるし、トイレもお風呂もちゃんと個別に付いてるし。もっと切羽詰ってる人はこんなにいい部屋借りれないから」
ああ、親が仕送りをしてくれてるんですと僕は答えた。バイトはしているけど、大学もあってそれほど給料があるわけではないので、と。
すると歌子さんは視線を上げ、僕を見つめてふうんと言った。その目には明らかに何処か僕を蔑むような色が浮かんでいる。このひとの中では親からお金を貰う方が、見ず知らずの人間の家に勝手に泊まりこむよりもより蔑みの対象にあるらしい。まったく、よく分からない。とりあえず水を飲もうと台所に立つ。「水、要りますか」「要らない」あ、そうですか。コップに半分ほど注いだ天然水で喉を潤して、歌子さんのいる部屋に戻る。
「テレビ、付けても大丈夫ですか」
「駄目」
「えっと、じゃあラジオは」
「駄目。邪魔しないでよ」
先ほどの紙はぐしゃぐしゃに丸められて歌子さんを取り巻く紙屑のひとつと化し、テーブルには新しい広告が出ていて、彼女はまた真剣に蜜柑を写生している。邪魔をしないでといわれても、何をすれば邪魔になるのかはもちろんまず歌子さんが何をしたいのかもよく分からない。僕は完全に自由を奪われた小鳥のような心境で、しばらく突っ立ったままその迷いのない手の動きをぼうっと目で追っていたがやがてそれにも厭きてしまって、いつもより随分早いがもう寝ることにした。その旨を簡単に伝えると、あっそうと軽い返事。
「あの、毛布、要りますか」
「要らない」
そうですかと僕は呟く。最後の足掻きもほんの一瞬で玉砕し、僕は隣の部屋に布団を敷いておとなしくその中に潜り込んだ。おれ、一体何やってんだろう。そんなあまりにも素朴すぎる疑問は、疲労のせいかすぐに遠のいていく意識の中で、薄闇にぼんやりと溶けていつの間にか消えていってしまった。




