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先に立って歩き出してみると後ろからは人の気配というものが全く感じられず、僕はそれからアパートに着くまでの三分足らずの道のりの間に、五、六回は振り返って歌子さんが付いてきていることを確認した。歌子さんはその度に俯かせている顔をあげ、何よとでも言いたげに僕を真っ向から睨みつけた。どうしてこんなひと泊めなくちゃいけないんだと、僕はその度になんだか不貞腐れたいような気分に陥った。
アパートに着いて入り口で僕が傘を畳んでいるあいだ、歌子さんは自分の髪や服を絞っていた。バケツをひとつ引っくり返したみたいな大きな水溜りが、蛍光灯の光を反射してその存在を見せ付ける。そうしてここに来て初めて、僕は彼女の服装を把握することが出来た。
小花模様の散ったロングスカートに、歩きづらそうなヒールの高いサンダル。上は長袖の灰色のパーカーで、今は水を吸って黒に近い色になっている。お洒落をしているんだか、していないんだか。ロングスカートの上に味気の無いパーカーを着るのが流行っているのかもしれない、そうでないかもしれない。そういうものに疎い僕はよく分からないが、こんなにびしょ濡れではどうしようもないだろうことはさすがに分かった。
「あ、君の、名前」
居心地が悪くなって彼女から目を逸らし、一度畳んだビニール傘をもう一度畳みなおしていると、歌子さんがそう訊いた。振り返ると、ポストに書かれた名前を眺めていたらしい彼女は、ちらりと僕を見てまたポストに目を戻す。僕は一瞬悩んだが、結局正直に本名を明かすことにした。
「高井春斗っていいます。その奥のポストですよ」
「ふうん。タカイくん」
歌子さんはそう返すと、僕の指したポストの中を覗いた。何も入っていなかったのかつまらなそうに蓋をする。それから僕を振り返り、またまたつまらなそうにこう訊いた。
「じゃあ、タカイくん、君の部屋はどれ」




