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濡れ惑う、  作者: 梨音
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13/16

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 何よ、やめてよ、離してよ! そう叫びながら僕を振り払おうともがく歌子さんに、僕はすがるようにしてしがみついた。止めて下さい、歌子さん、落ち着いて、止めて下さい。そう念仏のように唱え続けるが、しかし彼女に聞いている様子はない。やめて、離して、こわすの、こわすの、傘をこわして、もう誰も傘には入らないの、みんなでぬれるの、ぬれるの! 僕同様嗄れかけた声でそう叫びながら、歌子さんはもがき続けた。そんな僕らを、先ほどから更に勢いを増した雨と風が容赦なく叩く。寒いとは感じない。今はもうそんな余裕すらない。とにかく歌子さんを何とかしなければという一心で、五感がすっかり機能しなくなっているかのようだ。歌子さん、歌子さん、落ち着いて、ほら、部屋に入りましょう、止めて! 声はいつの間にかすっかり掠れてしまっている。ああ、喉が痛い。今やもう呟くように制止の言葉を繰り返す僕に対して、歌子さんはまだ気丈に叫び続けていた。やめてよ、ぬれるの、離して、傘を、傘を! 時々大きく咳き込みながら、それでも叫んで、もがいて、叫んで。まるでそうするのが自分の使命だといわんばかりに、彼女は叫び続けた。けれどもその声もだんたんと弱くなっていく。ぬれるの、ぬれるの、みんなでぬれちゃえばいいの。叫びはいつしか呟きに変わり、そして更にすすり泣きへと。突然傘を手放してしゃがみこみ、手で顔を覆って泣き出した彼女の肩を、僕はおそるおそる抱いた。びくん、とひとつ震える歌子さんの身体。僕より年上であろう彼女の肩はしかし思っていたよりとても華奢で、僕はそれだけで泣きそうになる。大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ。何が大丈夫なのかは分からない、けれどもとにかく繰り返す。彼女に、自分に言い聞かせるためにとにかく大丈夫、大丈夫、大丈夫。歌子さんは涙に塗れた赤い顔を僕に向けた。ほんとに、だいじょうぶ? 嗚咽交じりの質問に、半泣きの笑顔で。うん、大丈夫。ぜったい? 絶対。ほら、雨もずいぶん小降りだし。彼女も僕と同じように空を見上げる。ほんとだ。……大丈夫だね。乱暴に涙を拭う彼女の背中を優しく叩いて、そう、大丈夫、だから部屋に入ろう。あのね、あたし眠い。うん、うん、寝たらいいよ、だから入ろう。促して部屋に入る。一時間近く風雨に当たった部屋の有様は散々だった。あまりカーペットを踏まないように注意して、歌子さんを寝室へ連れて行く。パーカーだけ脱いでもらう間に、手早く布団を敷いた。本当は全身着替えたほうがいいのだろうけどあいにく着替えがない。「これ、脱いだよ」「あ、そこ置いといて下さい」あの日のように黒く変色したパーカーをぽとり、とフローリングに落とすと、ふらり。歌子さんはよろめいた。慌てて身体を支える。ほら、そこに布団敷きましたから。うん。……寝ていいの? もちろん。ゆっくり、おやすみなさい。布団に身体を埋めると、歌子さんは掛け布団から覗かせている口元を、ほんの少し歪めた。笑っているのだと気が付くまでに、しばらくの時間を要した。

 ありがとう。

 歌子さんは一言そう呟いて、それからことんと糸が切れたように眠りにつく。僕はその寝顔をしばらく見つめていたが、やがてはっと思いついて彼女の額に触れた。あれだけ雨に当たれば、発熱しているかもしれない、と。思ったとおりだった。

 歌子さんの額は、ひどく、ひどく熱を持っていた。





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