*
歌子さんがいない。
まず思ったのはそれだった。電気の付いていない薄暗い部屋の中で反射的に確認した彼女の定位置に、歌子さんの姿は無かった。あの明け方の出来事以来歌子さんがその場所から動くのを見たことがなかった僕にとって、それは歌子さんがいない、ということを意味した。じゃあ、何処に。この音は。思考を巡らそうとしたそのとき、
かんかんかん。
またその音が響いて、僕ははっと顔を上げた。ベランダに続く淡い緑色のカーテンが開け放たれている。その奥にあるドアも。雨風が降り込んで、カーテンを大きく靡かせている。
そしてその向こうに、歌子さんはいた。
薄暗くて玄関からはあまりよく見えなかったが、彼女は何か細長いものを持っていて、それをベランダの手すりに打ち付けていた。両手で、かなり力を込めて。かんかんかんかん、かんかん。僕はしばし唖然とした。一体、何を。足元で何かが落ちるような音がして、下を見る。いつの間にかビニール袋が僕の右手から離れていた。袋から飛び出しかけた、空のペットボトル。途端に僕は我に帰って、靴を履いたまま部屋を駆け抜けた。白いカーペットに足を取られる。茶色いフローリングに足が滑る。
「歌子さん!」
叫び声が届いたのか、彼女は手を止めて振り返った。
表情は見えなかった。彼女も見えなかったのかもしれない。彼女らしくない可愛らしい仕草で、歌子さんは首を傾げた。
「歌子さん、僕です、高井です、止めて下さ」
「みーんな、濡れちゃえ!」
僕だと分からなかったのかもしれない。そう思って言った言葉の語尾は、歌子さんのその声によって掻き消された。まるで僕の声など聞こえていないかのようだ。僕はベランダに出ようとしていた足を、思わず止めた。声は確かに歌子さんの声だった。女性にしては低音の、いつもは平べったいその声。けれど今は――
「歌子さん?」
僕は歌子さんの目を捉えて、もう一度、言った。彼女は首を傾げるばかり。近くに来てみるとその目はガラス玉のように何も映してはいなかった。彼女は僕を分かっていない。歌子さんは僕を分かっていない。歌子さんは、歌子さんは、歌子さんは。
と。
歌子さんは唐突に、また手すりに向き直った。
「傘なんて要らない! みーんな、みんな、濡れちゃえ!」
歌子さんと出逢ったあの日に僕がコンビニで買ったビニール傘。それを彼女は、再び力いっぱい手すりに打ちつけ始めた。かんかんかん、かんかん。
「歌子さん!」
嗄れかけた声でまたそう叫んでみたが、既に歌子さんの耳は音声を受け付けていないようだった。僕はベランダへの敷居を越える。歌子さん、歌子さん、歌子さん! 何度もそう呼びながら、僕より背の高いその身体を、後ろから羽交い絞めにした。




