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東京帝国女学院 四季の情話

春はあけぼの

作者: 真野真名

【東京帝国女学院 四季の情話】二作目






 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは──。


 清少納言が書いたのは、おそらく入学式の朝の情景である。


 少なくとも、藤己澄子ふじき すみこの辞書にはそう書いてあった。

 いや、書いてはいなかったが、彼女の脳内ではそう決まっていた。


 藤己澄子、東京帝国女学院一年。


 新しい制服に袖を通したとき、人目を気にしつつも、鏡の前で三回まわって「文学的!」と呟いた。誰に言うでもないが、言わずにはいられない性質たちだった。


 もっともその光景は、しっかり妹の藤子に見られていたが。


 彼女にとって「春」は、恋と文章とがごちゃ混ぜになる季節である。


 桜を見れば恋をし、恋をすれば書きたくなる。

 そして書いてみると、決まって誰かが困る。


 朝、校門に立つ壮麗な桜並木を見上げながら、澄子は思った。

 ──入学式。新しい人生。新しい恋。

 そして、できれば新しい万年筆。


「澄子さん、それ、頭の中でまたポエム書いてる顔ね」

 隣で幼なじみの愛子が冷ややかに言った。


「違いますわ、決意を詩的に表現しているだけですの」


「つまりポエム」

「違います」

「どこが?」

「リズムが違いますの」


 そんな調子で、藤己澄子の学園生活が始まった。

 春の光はやわらかく、彼女の脳内もだいたいやわらかかった。



 入学して三日。

 澄子はすでに三人に恋していた。


 一人目、古文の先生。白髪まじりで、板書が達筆。

 二人目、廊下ですれ違った上級生。端正な横顔。

 三人目、図書館の棚にいた漱石の『草枕』。


「澄子、三人って……一人は人間ですらないじゃない」

「ええ、でも恋の対象に国籍や種族は関係ありませんの」

「あると思う」


 澄子は恋を“発見”するたびに、ノートを開いて感想文を書く。


 タイトルはたいてい「春の感情|(その一)」とか「やうやう胸が熱くなりゆく心について」など、どこかで聞いたようなもの。


 内容はたいてい「先生のチョークの持ち方が文学的」など、本人しかわからない。


 そんな澄子を、クラスメイトたちは“文学少女”と呼び始めた。


 しかしその響きには、微妙に「面倒くさい子」というニュアンスも混じっていた。


 澄子は気づかない。いや、気づいても気づかないふりをする。

 文学少女とは、孤独を愛し、時々それを自慢する生きものである。


「今日の授業、何がいちばん印象に残った?」

「先生の靴音です」

「……え、内容じゃなくて?」

「いいえ。靴音にも文学は宿りますの」


 こうして、藤己澄子は“観察と妄想”の名手として、着実に地位を築いていった。



 四月の終わり、澄子は寮のポストをじっと見つめていた。

 なぜなら、まだ誰からも手紙が来ていなかったからだ。


“文学少女たるもの、手紙をもらってこそ一人前”


 そう勝手に思い込んでいた。


 そこで、彼女は画期的なアイデアを思いつく。

 ──来ないなら、自分で書けばいい。


「でも、宛名は誰にするの?」と愛子。

「そうね……まだ出会っていない誰か、にしましょう」

「……それ、出す意味ある?」

「ありますわ。“未来の読者”への挨拶状ですもの」


 こうして、澄子は「未来のあなたへ」と題した手紙を毎晩書き始めた。


 相手のいない手紙は、彼女の机の引き出しにどんどん溜まっていく。

 日付とともに、“今日も誰かに書きたい気分”というメモが添えられていた。


 この習慣はのちに、彼女の代名詞となる。

 そして二年半後、「慰問文騒動」へとつながるのだが、それはまだ先の話である。



 ある日、寄宿舎の食堂で、上級生の千代子先輩が澄子に声をかけた。


「あなた、手紙たくさん書いてる子ね?」


「ええ……ご覧になっていたのですか?」


「だって封筒に“未来”って書いてあるんだもの。気になるでしょ」


 千代子は、紅茶を飲みながら笑った。

 その笑顔が、あまりに“文学的”で、澄子は一瞬で恋をした。


「千代子先輩……その微笑、まるでチェーホフの登場人物のようです」


「誰それ?」

「ロシアの作家です!」

「そう。私は日本の女学生よ」


 以降、澄子は毎晩“千代子先輩観察日記”を書くようになった。


 内容は「今日の先輩の紅茶の香りは少し哲学的」など、もはや意味不明。


 そして、ある夕暮れ。


 廊下の角で、千代子が上級生の男子学生(講師の手伝いらしい)と話しているのを見てしまう。


 澄子の胸に、稲妻が走った。


 ──恋のライバル、出現。


 その夜、澄子は“失恋文学”を書いた。


 題名:「恋は落葉よりも早く散る」

 内容:三分の二が泣き言、残りが比喩。


 愛子が読んで言った。

「ねえ、これ、ほとんどギャグ小説よ」


「そんな……わたくし、泣きながら書いたのに」


「泣きながら笑ってたわよ」



 五月、授業の課題で「私の春」という作文が出た。

 澄子は全力で書いた。題名はもちろん「春はあけぼの(実感編)」。



 ──春はあけぼの。恋するには少し眠い季節である。

 桜は咲き、人は浮かれ、私は書く。

 恋は芽吹くが、すぐに散る。けれど散ってもまた書ける。──



 提出した翌日、国語教師に呼び出された。

「藤己さん、これは……何科の作文ですか?」


「えっ、国語ですけれど」


「哲学小論文かと思いましたよ」

「文学とは、哲学と恋文の中間にございますの」


「……返す言葉が見つからない」


 結局その作文は、先生に“個性的すぎる”と評された。

 澄子はその言葉を、ほめ言葉と信じてやまなかった。



 梅雨が来た。

 窓の外でしとしと降る雨を眺めながら、澄子は思った。

 ──春が終わる。恋も、いくつか終わった。


 千代子先輩は卒業していなくなった。


 古文の先生は転勤になった。


 そして、漱石の『草枕』は返却日を過ぎて図書室から消えた。


 それでも澄子の胸は、なんだかあたたかかった。


「ねえ愛子、恋って、なくなっても残るものなのね」


「どっちが?」


「わからないけれど、書く気持ちは残るの」


「つまりまたポエム?」

「違います。人生です」


 澄子はその夜、最後の“春の手紙”を書いた。




 ──未来のあなたへ。

 今日、わたしは少し大人になった気がします。

 恋をしたり、失恋したり、作文で怒られたり。

 でもどれも、ぜんぶ書いて残したい。

 だからわたし、やっぱり“書く人”になります。




 封をして、ポストに入れた。


 宛名は相変わらず“未来のあなた”。


 だが、その「あなた」がいつか本当に現れるかもしれない。

 そんな予感を、澄子はどこかで感じていた。



 夏の足音が聞こえる頃。

 校庭の桜はすっかり緑になり、あの日の入学式が遠い昔のようだった。


「藤己さん、最近ずいぶん落ち着いたわね」

「ええ、文学的に成熟しましたの。おほほ」


 笑いながら、澄子はノートを閉じた。

 机の引き出しには、まだ出していない手紙が山のように詰まっている。


 けれどそれは、未来へと続く“予告状”みたいなものだった。



 ──春はあけぼの。

 恋も手紙も、やうやう白くなりゆく心の中に、

 すこしずつ、言葉という朝がのぼっていく。



 のちに“手紙文学の女王”と呼ばれる彼女の、すべては、この春から始まった。


 藤己澄子、十五歳。





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