18話『ファムファタール』
敗北の二文字は脳にこびりついて離れなかった。当然敗北という言葉自体は知っていた。だがこんなに辛いものだなんて知らなかった。心臓に錘をくくりつけられ、胃を、腸をマグマに握られているような感覚の名前が失恋ではなく敗北だったなんて。
ここで一つの疑問が湧く。
【俺は愛、恋を知っているのだろうか?】
酷く抽象的な問いに頭を悩ませ、結論に至る。
いや、好きだった。愛してた。彼女のためなら何だってできた。この気持ちに嘘なんてない……!だから…俺は…
浴室内が蒸気で満たされ、水滴が天井から滴るころに何かを思いついたかのように浴槽から飛び出る。
俺はなんて馬鹿なんだ。わからないなら聞けばいいじゃないか。生憎、それをするには最高の環境が今整っているのだから。謎の焦燥感に駆られ、髪から水を滴らせながら洞窟まで走った。
洞窟の奥で、四肢と口を縛られた上田は横たわっていた。子供がプレゼントの包み紙を取るように口の拘束を解くと上田は数回、口をパクパクさせてから泣き叫ぶ。
「もう……なんなの……」
数年ぶりに聴く元彼女の声は脳の隅を鈍く突くような嫌な音だった。
「久しぶり、夏葉。早速で悪いんだけど教えてよ。何であんな男と浮気した?」
「…っ!ほんっと気持ち悪い!」
「は?」
「だってそうでしょ?私のことなんてどうでもいいくせにこんな所まで追いかけてきて監禁してさ!」
上田は顔を歪ませこちらを睨みつける。
「どうでもよくなんてない!だから手を繋いだ!キスもした!ファーストキスだ!そんで旅行にも誘った!今だってこうして……こうして!」
「じゃあ私の誕生日、今覚えてる?」
「……」
思い出せない。確実に祝った記憶がある。だが思い出せない。砂漠で針を探すような絶望感に覆われる。俺は愛していたはずの人の誕生日すら思い出せない。もしかしたら本当に……
「ほらね!やっぱり健君は私のことなんて見てない!健君は”彼女”が欲しかっただけなんだよ……!本当に気持ち悪い!私に執着してるフリして本当は自分が好きなだけで!私のことなんて一回も見てないくせに!」
初めての上田の真正面からの意見に心臓がストンと落ちてしまう。表情筋も完全に落ち切った俺の顔にはおそらく縋り付くような無様な笑顔が張り付いているだろう。まるで生きる気力を失った者の顔であったろう。
「だからって浮気していいわけないでしょ」
俺が膝をつくと洞窟の入り口から声が飛んできた。その鈴のような音は俺を正気に戻すのに、今度は数秒もかからなかった。
「朝比奈……?」
「そーだよ!アンドウ君!大丈夫?」
朝比奈はニッと口角を上げながら一歩ずつ近づいてくる。
「あなたは健君のなんなの?!」
上田が金切り声でヒステリックに叫ぶ。
「アンドウ君、立てる?」
朝比奈はそんな上田を無視して俺に手を差し伸べるが俺はその手を取れない。
「もういいんだ……俺は今まで失恋したから落ち込んでるんだと思ってた。だから上田を殺せば、愛する対象がいなくなればまた立ち直って真っ当に生きていけると思ってた。だけどさ、やっぱ俺、負けたから怒ってたんだ。馬鹿みたいだよな!負けて悔しいから殺したんだ。負けた度に誰かを殺すんじゃキリがないよな…だから俺…死ぬよ。」
気づけば俺の体はゆっくりと透けていっている。これが幻覚なのかはわからないがこのまま空気に溶けてしまいた――
突然強い衝撃が側頭部に走る。
「馬鹿!私言ったよね?アンドウ君が死ぬくらいなら生きててほしいって!アンドウ君が死んじゃったら私はどうやって生きればいいの?!」
明らかな告白にその場の全員が唖然とする。俺は朝比奈の気持ちに気づいていた。だがここまでストレートに告白されたのは初めてで困惑する。困惑して、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。やがてそれはタバコの先端のように俺の胸を焼き焦がした。だが、心地よい。
「えっ!」
この感覚をどうしていいのかわからず朝比奈を強く抱きしめた。この熱が伝わるように強く。ただ、強く。
――
――――
どれほどこうしていたかわからない。俺と朝比奈の境目はもうわからない。上田が絶えず何かを叫んでいるが耳に入らない。
こうしているうちに一つの決意が固まる。
『朝比奈だけは幸せにしよう』と。
それ以外はもうどうだっていい。朝比奈にあの国を渡して、いい人を見つけて幸せにしたら俺は消える。そう決めた。今は俺がいいと言ってくれるかもしれないが、こんなイかれた人間はこの子のそばにいてはいけない。
ログハウスのドアを開ければ桐原が双子ちゃんに手を引かれて遊ばれていた。きっと寂しかったのだろう。その微笑ましい光景に再び胸が熱くなる。
「安堂君、吹っ切れた顔をしてるね。何かあったのかい?」
桐原は下世話な笑みを向けてくるが想像してるようなことは何もなかったと告げると「青いねぇ」とだけ呟いて外へ行ってしまった。
この後は双子ちゃんに留守中の話を聞いた。コピー朝比奈が朝比奈の人格まではコピーしていないと気づいた双子ちゃんがコピー朝比奈の機能を停止したこと以外は特に何もなかったらしい。朝比奈は双子ちゃんの食事バランスを気にかけていた。自分のコピーが機能停止されているのに何で冷静なんだろうと思ったが何も言わなかった。
「あっ!アンドウ君!ちょっと……」
一通りの状況確認が終わったあと素っ頓狂な声を上げた朝比奈に外へ連れ出される。
「アンドウ君、あのね……言い忘れてたんだけど」
朝比奈は言いにくそうに頬をかく。
やっぱり上田の口に土を詰めたことが引っかかっているのだろうか。それも仕方ない。そんな異常者俺でも追い出す。今日は風呂の脱衣所で寝るか……
「ユウとマオ……私の義妹なの!」
「は?」
1ミリも予想していない言葉が飛び出た。
あいやー!やけに入れ込んでいるなと思っていましたが、まさか血縁関係でしたか…いやはや、世間は狭い!なんて言いますけども異世界含めてまで狭いとは……いやはや、いやはや。
頭の中で雑魚の落語家が軽妙に喋り始めたので止める。
「……本当に?」
「うん、多分本当。観音寺なんて苗字そんなにいないし、あの子達のお父さん”も”缶詰集めが趣味だからほぼ……確実に」
「まじか。」
「あー!スッキリした!ねぇ、アンドウ君!聞きたいんでだけどさ、あれは何?洞窟で消えかかってたのとかお城で私みたいな動きしてたのとか。ううん、私よりもすごかった。」
伸びをしたかと思えば突然朝比奈の話が変わる。
俺はまだ義妹の話を飲み込めていないのに。
「あぁ、わかんないけど多分……」
俺は自分の考察と神官長の話をした。
おそらく日本の時のストレスですでに魔法を獲得していて、こっちの世界に来る時に再び魔法を獲得したというトンデモ考察を披露した。トンデモ考察とは言っても案外的を射ていると思う。トラックに轢かれる時は捨て忘れたライトのことを考えていたし、桐原曰く俺は世界記録並みのスピードで死体遺棄を遂行したらしい。流石にありえない。この時には無意識に魔法を行使していたと考えるのが妥当だろう。
一通り聞いた朝比奈は何かを深く考え一言
「アンドウ君の魔法って――じゃない?」
俺は突拍子もない考察に深く頷いてしまう。あぁ、間違いない。そうとしか考えられない。城の時も、洞窟の時もそうだった。俺の魔法は――
『なりたいものに成れる魔法。』
頭の悪い子供の魔法だ。