石徹白神護双面宿儺調伏記~戦国の退魔士の戦いwith木下藤吉郎&竹中半兵衛~
ざあざあと降り頻る雨の中、甲冑武者の一団が馬を駆っていた。深い森の中で彼らが足を止めた。ぴかりと光った閃光が、深い森には似合わぬ真新しく見える家の土壁を白く染めた。
「頼もう、頼もう。我こそは織田家臣木下藤吉郎秀吉と申すものなり。石徹白正七位退魔博士、戸をあけられたし」
猿面の小男が呼びかけると、分厚い戸が音もなく開いた。下馬した武者たちが恐る恐る足を踏み入れる。白玉敷きの庭はそこだけ晴れた日のように明るかった。恐る恐る足を踏み込んだ武者たちの前、庭の奥の縁側に二十歳に届くかどうかといった年の青年が現れた。世捨て人のような恰好をした彼は生気のない目で武者たちを眺めていた。
「石徹白卿にお引き合わせ願いたい」
我に返った木下の言葉に、青年ははっと意識を呼び覚ますと答えた。
「…あんたらが捜しているのは石徹白霊逝か?」
「そうだが…」
「ならあんたの主君に彼は死んだと伝えろ。双面宿儺を封じ込めたのち、ツチグモと相打ちになった、と」
「すまぬが、そなたの言っていることが解らぬ」
「…ち、左近大夫殿、どうしてかような事情を知らぬものを使者に立てた!」
「左近大夫、というと、斎藤美濃守義龍のことか?」
「いや、山城守道三殿だ」
「斎藤山城守は今から十一年前の弘治二年、息子義龍に弑された」
「弘治…?」
「天文二十五年に相当する。その後義龍は早逝しその子治部大輔龍興が後を継いだが、つい先日我等織田家がこの美濃国を奪取した。儂はその織田家の家臣、木下藤吉郎秀吉じゃ」
「…なんと、ハハハ、俺はそんなに長く屋敷に籠っていたのか。俺を目覚めさせてくれたことに感謝する。親父…石徹白霊逝は死んだ、そう伝えてくれ」
「そういうわけにはいかぬ。今美濃一帯を怪物が荒らしている、その対処を石徹白卿にお願いすべく、儂はここにまで参った。そなたも石徹白卿のご子息であるのなら術師なのだろう?どうか、儂らにお力添えを頼む」
木下以下二十名近い武者たちが膝をつき頼み込む。
「…中に入れ」
戸がひとりでに音もなく開き、青年が薄暗い室内へと消えた。慌てて武者たちも後を追う。
「座れ。話を聞こう」
寸刻姿を眩ました青年は先程とは別人の如く整った身成で現れ、木下たちに席を勧めた。畳敷きの間に床を境に左側に青年が、右側に武者たちが座る。
「名乗りが遅れたな。石徹白霊逝が息子、石徹白神護だ。最後にこの社から外に出て十五年は経った。外の暦で言えば…三十にはなるのか? まあ、術師としては未熟者だ」
「というと、霊逝殿が亡くなられてからは…」
「そうだな。もう十五年前だ。」
「はあ…霞を食っていると年を取らなくなるものなのか」
「食い物は普通のものだが、術を使っているだけだ。…あんた、軍配者だな? 血染めの術の匂いがする」
「ほう…私は名を竹中半兵衛重治と申す。木下殿の配下だ。いくらか術も嗜んでおるが相当弱いゆえ、よもや他人に気づかれるとは…」
神護に声をかけられた、静謐とした瘦身の若者が答えた。
「さて、本題に入ると致そう。儂らは石徹白殿、そなたらのことは何も知らぬ。儂らが怪物退治の助っ人を探して居る時にな、村人が唄を教えてくれたんじゃ」
「唄?」
「〝高沢山にゃあ宿儺の般若 四つの山筋雨に雷 社へ社馬駆け回れ でっかいお屋敷現れる 悪鬼は退散 お天道燦燦〟儂ら…というか半兵衛が、この唄の意味を解釈してな。高沢には、今も宿儺を退治した天照大神すなわち朝廷の関係者がいるのではないか、と言ってな。古い資料を紐解いて、八十年前の叙任の記録から美濃に派遣された陰陽寮退魔博士の石徹白霊逝、その名を見つけ出したんじゃ」
「なるほど…というと、あんたらは百を優に超えた人間を頼ってこんな山奥まで来たのか?」
「はい。私は現在は織田家臣団の一員ですが、出身は美濃です。以前『高沢山には仙人が住む』と伝え聞いたことがあり、仙人ならば長命なのではないか、と望みを懸けました。正直危険な賭けではありましたが…」
「はあ…あんた、ひ弱そうに見えて案外なあ。だがさっきから疑問に思っていたが、なぜわざわざ回りくどい非常の口を使った?」
畳の上をひとりでに滑ってきた茶を木下たちに勧めつつ神護が問い、恐る恐る茶に口を付けた竹中が返した。
「非常の口、と申されると常の口がある、とのことですかな?」
「っ、そうか、山城守道三殿の死後の混乱で、鍵が喪われたのか…」
「鍵、ですか」
「ああ。遥かな古より美濃の国司や守護に伝わってきたこの社に通じる道への鍵、だ。山城守道三殿の頃までは美濃の国主に継承されていたが、その後の騒乱で逸失したのだろうな」
「失われたものを嘆いても仕方がない。さて、本題に入るとするかの」
「はい。我々は此度、濃尾一帯を荒らす魔物の調伏をお願いすべく参りました」
「魔物、か? 神代ならともかく、今世にはなかなか珍しいな」
「これが、その図です」
絵を見るなり、神護の顔色が変わった。双つの顔と四本の腕を持つ、異形の怪物。それは、神護の記憶に深く刻み込まれた姿であった。
「こ、これは…双面宿儺…」
「と、いいますと、美濃飛騨に伝わる…」
「ああ。そして、こいつは、親父の仇、だ。」
「戦に私情を持ち込むでない。石徹白神護、そなたならば、その宿儺とやらをどうにかできるのか?」
「正直、俺はまだまだ未熟者だ。けれども、ずっと修行をしてきた。この日の為に。断られても戦いに押しかけてやる、そのつもりだ」
「素晴らしい。よろしく頼むぞ」
にかと笑った木下が神護の肩を叩いた。
「荷物をまとめて付いて来い、魔物退治へ」
神護が懐から幾枚かの札を取り出し小さく囁くと、それらは滑る様に宙を割いていった。
「それは…」
「式神だ。家のことを任せてある。留守の用意と荷物の準備をする間、宿儺の状態について教えてくれ」
「半兵衛、頼む」
「はい。高沢山の西側山腹から現れた宿儺は、辺りの村を手あたり次第襲いながら稲葉山…今は、『岐阜』と改称されていますが…の城下に迫りました。一帯の兵を手あたり次第にかき集めて足止めを試み、一度はその首のうち一つを打ち落としその動きを止めましたが、数刻を待たずしてその動きは再開しました」
「なるほど…十五年前よりも再生能力は落ちているようだが、それでも凶暴性は下がるどころか高くなっているようだな、ここに聞いた限りでは」
「既に消耗戦となってから一月になり、兵にも疲労が色濃く見えています。そういったわけで、我々は協力者を頼み駆けずり回っていたというわけです」
「という事は、俺は一刻も早く宿儺の退治に回る必要があるのだな?」
「さあて、準備もできたようじゃな?」
「ああ、馬で半日駆ける必要は無いぞ。親父の代に作られた稲葉山城への転移陣がある。確か、城内の庭園に出口があったはずだ」
「ふむ、木下殿、如何致しますかな?」
「よかろう、使うぞ。警護に怪しまれることの無いよう、儂が始めに行こう」
一行は、文字が複雑に絡み合った淡く光る紋様へと足を踏み入れた。
「ほう、地面が光るというから見に来てみれば、これは驚き、猿が化けて出てくるとは」
転移陣を覗き込んでいた男が吠えた。
「は、信長様、怪物退治を出来る、と申すものをお連れしました」
「苦労だった、藤吉郎、半兵衛。して、ヌシがその怪物退治屋、か?」
当世具足に南蛮マントという奇妙な出で立ちをした、常人ならば気圧されてしまうであろうギラギラとした目の武者が、嘗め回すように神護を見た。
「ああ、儂は尾張美濃の領主、織田上総介信長じゃ」
「退魔士、石徹白神護だ。宿儺の退治に来た。さて、早速だがどちらに行けばいいか?」
「ほう…儂にタメで返すとは、面白い奴じゃな。その豪気、気に入った。儂に仕えぬか?」
「俺は人間同士の殺し合いに参加するつもりはない、人に仇名す怪物を調伏するだけだ」
「ハハハ、そうか、よし、宿儺とは激しく戦っているからの、ここからでも声が聞こえる。それに付いて行けばよいだけじゃ。よし、藤吉郎、お前とあと若衆幾らかでこ奴を怪物の居場所にまで連れて行け」
「了解いたしました、信長様」
木下の後に続いた神護は、稲葉山の頂上に位置する城から、濃尾平野を見下ろした。雨は弱まり、視界ははっきりとしていた。稲葉山のすぐ北には長良川が流れ、その対岸では戦いが続いていた。織田方の弱弱しい鬨の声が聞こえたかと思うと、もう一つの声に搔き消される。一帯を震わせる、宿儺の喊びである。
その姿はまさに、悍ましい怪物そのものであった。辛うじて人の輪郭は見て取れるがそれだけである。双頭には血走った四つの目、人血滴る口らしき裂目が見て取れる。その胴の四本の腕は人ひとり分はあろうかという長さの鐵の棍棒を抱えている。そして、その全身は、蓑の様にざらざらとした黒褐色の肌と厚く塗り固められた返り血に覆われていた。それは直前に二十名はいようかという足軽の一団を棍棒の一振りで過去形にせしめたばかりであった。恐慌に駆られた足軽たちに宿儺が迫る。その時であった。
「待て、双面宿儺‼」
高々と跳び上がった神護は、宿儺にそう叫ぶ。
「我こそは、正七位退魔博士石徹白霊逝が息子、退魔士石徹白神護。双面宿儺、貴様の首今度こそ俺がもらい受ける。積年の恨み、ここに受けよ!」
宿儺の眼前に着地した神護の足元から濛々と舞う土煙から、逃げ遅れた足軽が弾き出される。光が、閃く。
「魔鎧、着装。封魔斬凶、神装滅敵! 皇威鎧イトシロ、降臨!」
土煙が晴れたその時、純白に煌く鎧が姿を顕した。神々しいまでの美しさと威厳を併せ持つ、その鎧が。鎧、と雖も通常の甲冑と異なり全身が完全に覆われ露出はない。そして何より、修羅の如き面がその力強さを物語っていた。稲葉山からその様を見ていた信長たちにも、それが神護であることは顕かであった。
「ほう、豪語するだけのことはあるようじゃな、あの男」
宿儺の空ろな目に、一瞬光が閃いた。
「イトシロォォォッ」
一、二、三度振り回されブンと棍棒が放り投げられる。ひらりとかわしたイトシロ(=神護)の脇をすり抜けた棍棒は後方の鉄砲隊を薙ぎ倒し、火薬に火が付き巨大な爆発が起こった。
高々と昇る焔を背に、イトシロが太刀を抜く。対する宿儺は両腰に下げた双刀を抜き取ると打ち鳴らし、金属音を響き渡らせた。どこからともなく現れたツチグモたちが、織田軍に襲い掛かる。ツチグモ、と雖も蟲の化け物ではない。宿儺が一回り小さく、そして頭腕の数がそれぞれ二分の一になったような人型の怪物である。数百はいるであろうその大群を木下や竹中の指揮のもと態勢を立て直した兵たちが迎え撃つ。
刀と刀が撃ち合い、火花を散らす。宿儺の背丈は八尺半。イトシロを遥かに見下ろしている。しかし素早さはイトシロに分がある。力強く振られた宿儺の双刀は、宙を切る衝撃波を発し、武功を上げんと迫る織田兵の首を宙に浮かせる。一方のイトシロは芸術的なまでの刀捌きでツチグモを翻弄する。そうしながらも二者の刀は打ち合わされる。一進一退の戦いの中、宿儺の目に再び光が宿った。
「アソンイトシロ…ミノノオオキミハ、イズコダ」
「先代は朝臣だったが、俺は違う。自分が誰を殺したのかも忘れたか、この怪物‼」
「ミノノオオキミハ…タケフルクマハ…イズコゾ…」
いつの間にか、宿儺の目は煌々と輝いていた。
「美濃王と武振熊命…まさか、」
「儂ら誇り高き宿儺族を滅ぼした、大和の猛者じゃ」
「宿儺族⁉ それは、まるで、人間のような…」
雨足が強まった。イトシロ、いや、神護の眼前には、双面宿儺しか存在しなかった。
「お前は、お前たちは、邪悪にして暴虐な怪物ではなかったのか」
「つい先程までは、な。そなたのその姿が儂の目を覚ました。儂は宿儺の民のオサ、誇り高き王トゥプサパメじゃ」
二つの口から放たれるその声は絶妙に溶け合い、聞く者の耳を掴んだ。
「今から千歳と幾らかの前。儂らはその頃力を増していた大和に膝を屈することを迫られ、それを拒んだ。そして、和珥氏の祖たる大和の豪族、武振熊に攻められた」
「和珥…蘇我氏の勃興以前の大豪族か」
「儂は神々に祈りを捧げ、武振熊と戦った。儂が斯様な姿となったのも、その時じゃ。儂の力は、そなたも見たろう。人が持てる力ではない。儂は、日ごとに心を失っていった。儂の仲間たちと共に。そうして儂は、武振熊に打ち取られた。その時に、あ奴は大和の神に力を祈った。そしてあ奴が手に入れたのが、その鎧じゃ。あの頃は、そう、ただ〝いと白き〟、とだけ呼ばれておった」
「この鎧が…」
「そう、いと白き鎧じゃ。儂は、この力を得た罰か、死ぬことは出来なかった。この美濃に多くの血が流れた時、儂は甦る。甦って、しまう。初めに甦ったのは、大海人皇子が大友皇子と戦い、多くの血が流れた戦の後だった。儂らの征西は功を成し、大和…その頃にはもうあって当たり前の大王だったわけだが…に大きな打撃を与えた。儂らと大和の戦は一年にも及んだ。天皇となった大海人は戦人を多く集め、それとともに儂ら大和に屈しなかった者たちの神を取り入れた。そうしてはじめ儂らに手を貸した豪族たちは大和に屈した。丁度その頃、和珥氏が力を失うと共に忘れ去られたいと白き鎧を、その血を引く皇族、美濃王が手にした」
「その名を俺は、誰よりも知っている。石徹白家初代当主、石徹白朝臣三野だ」
「ああ。儂は美濃王に敗れ、再び永い眠りについた。その後も儂は幾度か甦っては、美濃王の後継である石徹白一族に敗れてきた。彼らは皆、儂が何者であるのか知っていた。しかし、十と五年前の石徹白霊逝、彼は儂の正体を知らぬようだった。自らの罪を知った時の彼の驚きよう、儂のほうが驚かされた」
神護の脳裏に、在りし日の霊逝の姿が浮かぶ。自らが宿儺をはじめとした怪物たちから人々を守るのだ、との彼の覚悟は何よりも固かった。しかし、霊逝の前に存在した石徹白の名を持つ人々の手記を読んだことはあっても、彼から直接話を聞いたことは無い、と思い出した。
「石徹白霊逝が語った事には、彼の先々代の当主である石徹白雨雷には二人の息子がいたそうだ。夷聖と生武。慣習に倣い長子である夷聖が大沢山で家督を継ぎ、生武は京で下級貴族として生きることとなった。中央は内裏の外壁を整備できぬほど金がなかったらしい。稲葉山など捨て置いて京へ攻め入っておれば、恨みを晴らせていたやもしれぬなあ。ともあれ、それで一度はすべて無事に決まったはずだった。しかし、夷聖は雨雷の死後に家督を継いでから程なくして黄泉へと下った。美濃守護代の使者が年賀の挨拶に訪れた際に死体で見つかり、京の生武は家督を継ぐよう要請されたそうだ。しかしその時すでに生武もまたこの世になく、石徹白の本家は生武の子霊逝ただ一人となっていた。そうして八十年前、石徹白霊逝はなんの引継ぎもなくいきなり儂を監視する羽目になったわけだ」
「……何故、お前は親父を…殺したんだ?」
「……、儂がそれまでの石徹白の者たちに聞いたことによれば、儂の正体は秘中の秘、石徹白の当主のみが知ることを許され家中の記録にもそうと知らねば気づけぬほどしか記さぬほど隠され、大和の者たちの間でも美濃王の臣籍降下の後百年ほどで知る者はいなくなったそうだ。石徹白霊逝は儂をただの魔の物だと思っておった。儂の正体を知った時の彼の眼、そう、そなたの今の眼の如き」
気が付いた時には、神護の脚はガタガタと震えていた。彼にとって宿儺は邪悪な怪物であり、復讐の対象であり、そして自らでも意識せぬ、彼の人生の、生きるための、ほぼ唯一の意味であった。彼の人生はこれまで「魔物」から善良な人々を守るためにあった。しかし、宿儺はむしろ被害者であった。石徹白夷聖は、それ以前の先祖たちは、きっと長い年月を費やして自らの罪に向き合い覚悟を固め、何も知らない人々を守るために宿儺を斬ったのであろう。それは、戦国の世の人の定めでもある。しかし、自らの人生が覆される恐怖を、すぐに受け入れることのできる人間など存在はしない。双面宿儺の語りは続く。
「彼は、暫し迷ったのち、それでも儂を斬る、と告げた。そうして彼は、イトシロの鎧で儂を斬った。腕を斬りつけられた痛みに、儂の中の人の心は容易く消え去り、ただそこには巨大な怪物のみが残った。石徹白霊逝、彼は強かった。唯一人師もなかったというのに、だ。ああ、そうか。その時か、そなたと初めて出会ったのは」
神護の脳裏にあの日のことが浮かぶ。双面宿儺と戦う父を援護しようとし、ツチグモに襲われた。窮地を霊逝に救われた。そうして…
「そなたを守るために式神を向かわせ隙が出来た石徹白霊逝に儂は攻撃し、彼は死にかけの傷を負った。そうして彼は、イトシロと誰よりも数多戦った儂ですらそれまで見たことの無かった奥の手を使った。」
そうだ、親父は、俺のせいで…悲鳴に似た叫びが戦場に響いた。神護には未だ周囲で続く闘いも、目の前の宿儺すらも見えていなかった。
『神護。もう大丈夫だ、宿儺は倒した』
『親父、喋るな、早く治療を…』
『大丈夫だ。…神護、いいか、お前は、誰もを守り切る、天下に平和をもたらす、強い人間になるんだ…』
そう、その時、霞と消えようとするツチグモの槍が、霊逝の胴を貫いたのだ。それが、霊逝の最期だった。それから…そう、ツチグモたちは宿儺の後を追うように消え、魂の抜け殻となった神護は社に戻り、十五年もの間廃人同然の様態だった。今朝、木下藤吉郎秀吉を名乗る男に出会うまでは。
「さて、考えは纏まったか?」
再び周囲の喧騒が色を取り戻す。神護、いや、イトシロが答える。
「俺は…誰もが生きられる平和な世界を創りたい。それが、親父が、俺が、望む世界だから」
「そうか、しかし、如何にして其れを成す? 儂は未だ大和への恨みを忘れてはおらぬぞ」
「あんたがさっき自分で言ったじゃないか。あんたらのことを覚えている人間はもうどこにもいない。忘れろ、とは言わないが、今更復讐を成したところで誰もあんたを称えたりはしない」
「解っておる、そんなことは。儂は未だ、大和と闘って死んでいった仲間たちに、何もできていない。大和の政権を滅ぼし、恨みを晴らすまでは、儂は死なぬ。いや、死に得ぬ。古き神との契りが、永遠の眠りへ逃ぐるを許さぬ。この乱世で流れた血は、儂を僅か十と五年で甦らせた。そなたが儂を殺せば、儂は暫しの眠りを明かし再びそなたと相対すだろう。そなたの心が固まらねば、儂はすぐにでも大和の都を攻め落とす。さあ、心を決めよ」
「…なあ、神との契約というのは、本当に絶対なのか?呪いから解き放たれるための方法は、存在しないのか?」
「ハハハ、面白いことを言う。」
その時だった。
「我こそは木下公配下、堀尾茂助。我が友を殺した怪物め、覚悟ォォォッ」
並の人間なら反射的に動いた宿儺に殺されていたであろうが、彼はそうならなかった。宿儺に傷を負わせ更に次なる攻撃を加えようとする堀尾を、イトシロが制止した。
「こいつは普通に殺しても死なない。たとえ双頭を打ち落としたうえで心臓を貫いても、数日で甦る。俺がこのイトシロ刀で奴を百八つに切り刻んで初めて封印される。下がっていろ、俺に任せておけ」
「…いいだろう」
堀尾が引き下がる。
「分かったか、宿儺。お前を恨む者は多くいる。それだけお前の罪が重い、ということだ」
「そうだろうな、人は皆解っていても憎しみの連なりから抜け出せない。儂とて、その理の外ではない。儂はそなたに勝ち大和を滅ぼす」
「そうはさせない。あんたの復讐の為に、多くの善良な人々を殺すわけにはいかない」
「ほう、儂を殺すのか?」
「俺は…あんたには、償ってほしい。あんたのせいで死んだ人々の分を」
「言ったじゃろう、古の神との契り、そして友の声が、儂を縛っている」
「だから、何のためにあんたはそんな昔のことにいつまでも拘泥しているんだよ! 新しい人生を、償いの為に生きる、そんな選択肢はないのか?」
「後戻り出来るわけが無いだろう! 儂はもう、宿儺族の仲間たちと共に、戦い続けることしか出来ない。解ってくれ」
イトシロが何か叫びながら突然宿儺に飛び掛かり、首根っこを掴んだ。光が周囲の戦場を包み込んだかと思うと、次の瞬間宿儺とツチグモ、そしてイトシロの姿は消えていた。
「ほう、あ奴、遂に宿儺を滅したようじゃな。何やらあの怪物と話し込んでおったから、裏切りようたかと思うたが…」
雨は静かに止み、西方の空から眩い夕陽が平野を照らした。
琉球に、こんな伝説がある。
『万暦元年(千五百七十三年)秋、東方の言葉を話す二人の異形が倭寇に襲われた村を救った。一人は茶色い毛に覆われ、また一人は白い鎧のようであった。村人の礼を断り小舟を借りた彼らは、東へと漕ぎ出していった』
類似の伝説は琉球のほか、日本各地や太平洋島嶼部、ヨーロッパ船に伝わっている。
『六十五年、飛騨國有一人、曰宿儺。其爲人、壹體有兩面、面各相背、頂合無項、各有手足、其有膝而無膕踵。力多以輕捷、左右佩劒、四手並用弓矢。是以、不隨皇命、掠略人民爲樂。於是、遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之。』(日本書紀巻第十一大鷦鷯天皇 仁德天皇より抜粋)
『四年十月、美濃国大沢山宿儺現。暴国殺民一年間。帝使美濃王討宿儺。美濃王之討。帝慶。任美濃王退魔博士』(日本書紀遺失箇所)