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短編集

車内放送

作者: 囘囘靑

 十年近くも前ですが、二〇一五年当時、大手広告代理店の女性新入社員が、社員寮から飛び降りて自殺したというニュースは話題になりました。このニュースが皮切りというわけではないでしょうが、以降、当該広告代理店の世間の評判はあまり思わしくなく、特に二〇二〇年の東京オリンピックにおいて、入札に当たって与党と癒着があったのではとの報道は、記憶に新しい人もいるかと思います。


 自殺のニュースが取り沙汰されるようになったとき、「()()()()()()()()出ても止むを得ないだろうな」というのが、私の率直な感想でした。広告業界の中でも、業界一位、二位に君臨するような広告代理店には、華やかなイメージを持つ人も多いと思います。実際、代理店の社員には、いわゆる“チャラい”人も多いです。


 ただ、他の業界と比較したとき、広告代理店は“政治的に弱い”ところがあります。よりあけすけに言ってしまえば、社内で過労自殺があったとしても、広告代理店はその情報をもみ消すだけの政治力(マスメディアに取り上げられないようにするための資源)がないのです。


 実際のところ、自動車業界や、重工業業界、鉄鋼業界の大手企業――では、割と少なくない頻度で人が死んでいます。状況から言えば、それらの死は自殺にほかならないのですが、古くからわが国の基幹産業を構築しているようなモノづくりの企業の場合は、自企業のネガティブ情報が公にならないような()()をメディアに対してすることができます。メディアが取り扱う情報の供給先がモノづくり企業である以上、モノづくり企業の側はメディア側に対して一定の影響力を行使することができるためです。


 とはいえ、いかに情報をもみ消したにしても、モノづくりの企業は、当然にモノを作るための拠点(営業所や工場)がなければ事業ができません。このため、拠点の近隣住民は、自殺が発生しているということを、それとはなしに知っているのがほとんどです。正門から施設に入るまでの敷地の一角が、ある日、なぜかブルーシートで覆われている。そのブルーシートが取り払われてみれば、アスファルトが水浸しになっている――「これってもしかして……」、「ああ、またか……」、のような話が、近隣には出回るのです。


 長々と語りましたが、本題に入りましょう。Q県を通る鉄道の沿線には、今話したような状況に当てはまる企業の工場があります。当該企業は、重化学の分野では押しも押されもしない大企業で、CSRや、ESGや、SDGs――といった横文字の取組にも熱心な、世間的にはクリーンなイメージでいっぱいの会社です(もっとも、クリーンなイメージ()()()大企業を探すことの方が難しいでしょうが)。インターネットの情報をいくら渉猟しても、過労死や、社内のいじめによる自殺などといった情報は出てこないでしょうが、近隣住民の間では、その工場と、最寄り駅の付近で、心霊現象がしばしば発生するという話で有名でした。最寄り駅は、各駅停車のみが停まる駅という事情も相まって、駅周辺も日中は閑散としており、周囲は開けた地形であるにもかかわらず、妙に空気が重い、よどんでいる――という話も、私はよく耳にしていました。


 コロナにより、最初の緊急事態宣言が発出された頃の話であるため、二〇二〇年の四月頃の話になります。職業柄、私はどうしてもリモートワークができなかった上、まさに繁忙期を迎えつつある頃合いであったため、当該鉄道を利用して、私は出社していました。


 あの頃は通勤者が少なく、その意味で電車通勤は快適だったのですが、ひとつ困ったこととして、緊急事態宣言を受け、ダイヤが変更されたという点がありました。利用者が少ない中で、ラッシュアワー時に多くの電車を走らせることは、費用対効果に見合わないと判断したのでしょう。通勤快速や急行――などの区分により、停止駅が複雑に異なっているために、沿線の住民から「あみだくじ」と揶揄されることもあった当該鉄道ですが、緊急事態宣言下の一か月、二か月の間は、各駅停車のみの運行となりました。普段急行を利用していたために、私は早く起きなければなりませんでしたが、夜型人間である自分にとっては、これは堪えました。


 ある夜、ぎりぎり終電で帰れる時間帯だった私は、その鉄道の最終電車に乗って帰宅することになりました。都心からベットタウンへと繋がる路線であるために、終電であれば人は多めですが、緊急事態宣言下という事情もあるためか、人はまばらで、座席一列が丸ごと貸し切り、寝そべっても文句は言われないだろう――といった有様でした。


 急行であれば三駅ですが、各駅停車であるために十一駅分を過ごさなければなりませんでした。電車の中では眠れない性質の私は、座席に深く背をうずめながら、窓の向こうを流れる町並みを、面白くもない気持ちで眺めていました。


 川を渡る高架に、列車が差し掛かりました。次の駅が、その工場の最寄り駅となります。ただ、心霊現象は噂にしか聞いていなかったため、そのときの私はほとんど意識していませんでした。


 電車が高架を過ぎました。「間もなく」と、次の駅名を告げるアナウンスが流れようとします。ところがその瞬間「急停車します」というアナウンスによって、「間もなく」の声は塗りつぶされました。


 車内は静まり返っていました。次のアナウンスが流れるまで、妙に時間があったような気がします。


 それから、音声が入りました。初めは、人の息遣いのようなものが聞こえてきました。


 車掌が何かを言おうとして、しかし言うのをためらっているのでは。――そんなことを考えた矢先、息遣いは突然、すすり泣きに変わりました。


()いちゃった」


 涙声になった男性の声が、静かな車内に響きました。


「人を()いちゃった」


 まばらとはいえ、私の乗る号車には、確かに人がいました。声を上げた人はいませんでしたが、皆が皆、アナウンスに息を呑んでいたと思います。結論はただひとつ。線路には人がいた。列車はその人を()いてしまった。動転した運転手が、列車後方にいる車掌に連絡を入れようとして、誤って車内放送を流してしまっている――。


 すすり泣きの声が、依然として車内に響きます。このままどうなるのだろうかと、私は思いました。運転手が精神的にショックを受けていることは明らかです。よしんば立ち直れたとしても、人身事故である以上、すぐに復旧はできないでしょう。薄情な話ですが、私は死んでしまった人や、運転手のことよりも、自分の帰宅時間の方が気にかかっていました。


 そのとき、すすり泣きの声が途切れました。無線が中断されたようでした。ほどなくして、再び音声が入りました。えー、ただ今……と、男性の声が響きます。先ほどの声とは異なっていたため、車掌の声なのだと、私は思いました。


「えー、ただ今、○○駅(工場の最寄り駅とは別の駅です)において非常停止ボタンが押されたとの信号を受信しましたので、この列車は運転を見合わせております。お急ぎのところ、列車が遅れ誠に申し訳ございません」


 あのときの車内の異様な雰囲気を、私は今でも覚えています。どういうことなんだ。今「人を()いちゃった」という音声が流れなかったか。――車内にいたわずかばかりの人たちは、口には出さずとも、みな一様に同じことを考えていたと思います。


 次のアナウンスは、すぐに流れました。


「お待たせしました。安全確認が取れましたので、信号が変わり次第、この列車は運転を再開します」


 それから間もなく、列車は何事もなかったかのように動き始めました。列車に居合わせた人たちは怪訝そうな顔をしていましたが、みな列車が動いたことに安堵し、それ以上は深く考えていないようでした。


 ただ、列車が次の駅に降り立って、それから発車するまでの間、私の心はずっと騒いでいました。付近に建つ工場の噂を、ちょうど思い出したためです。列車の急停車、「人を()いちゃった」というすすり泣きの声、車掌からのアナウンス、何事もなかったかのように再発進する列車――何かがおかしいとすれば、すすり泣きの声だけです。


 あのすすり泣きは運転手の声だと、私も含めた皆が思っていました。


 ただ、もしそうでなかったとすれば?


 そう仮定すれば、矛盾の糸はほどけるでしょう。では、誰の声だったのでしょうか? ――それまで、心霊現象を信じたことなかった私ですが、あのときのすすり泣きの声だけは、今でも耳に残り続けています。

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