71.「愛してる」
その日の夜、リーテアは目が覚めてしまった。
少し肌寒く感じ、ショールを羽織ってそっとベッドから降りる。
ロゼはぐっすりと眠っていた。すっかり白くなってしまった毛並みを見て、リーテアは自然と笑みが零れる。
(……ふふ。黒いロゼも可愛かったけど、白いロゼも可愛いわね。こんなこと言ったら怒られるから、言わないけど)
バルコニーの扉を静かに開ければ、心地よい風が金色の髪を攫う。
月の光を受けて輝くその色を見ると、リーテアはまだ不思議な気分を隠せなくなる。
《愛の魔女》にピッタリだと思っていた赤い髪の自分の姿は、もう見ることができないのだ。
それを少しだけ寂しいと思いながら、リーテアはバルコニーに出る。
城下街にはまだ明かりが灯っていた。風に煽られる髪を耳に掛けながら、ぼんやりと眼下の景色を眺めていると、隣の部屋のバルコニーの扉が開く。
(……隣の部屋って、誰か住んでいたかしら…?)
眉をひそめながら、少しだけ警戒していたリーテアは、バルコニーに現れた人物を見て大声を上げそうになってしまった。
「ディッ……、」
バッと両手で口元を押さえると、眠そうに細められた新緑の瞳がリーテアに向く。
数秒の沈黙のあと、ディランは驚いたように目を丸くした。
「………リーテア?どうした?」
「そ、それはこっちのセリフよ。どうして隣の部屋に…?」
深夜という時間を考慮して、リーテアは声を潜めて問い掛ける。すると、ディランがバルコニーに身を乗り出してきた。
「……ディラン?危な…」
「よっ、と」
手すりに足を掛け、ディランがリーテアのいるバルコニーへと飛び移ってきた。
あまりの衝撃的な行動に、リーテアは言葉が出ずに口をパクパクとする。そんなリーテアを、ディランは面白そうに見ていた。
「リーテアを見たら、眠気が飛んだな」
「……そ、それも私のセリフよ…!」
「大丈夫、バルコニーはしょっちゅう飛び移ってるから」
「それは大丈夫なの!?」
リーテアはディランの腕を掴み、どこかぶつけていないかと全身を観察してしまう。
くすりと笑ったディランは、蕩けるような優しい瞳をリーテアに向けていた。その視線に気付き、リーテアの心臓がドクンと大きな音を立てる。
「あ……、本当に、ディランが無事で良かったわ。今も……私を、庇ってくれたときも」
視線を逸らしたリーテアの頬に、ディランの手が触れる。ピクッと反応してしまい、リーテアは顔が熱くなるのが分かった。
(あああ…ドキドキしすぎて、ディランの顔が見れないのよ…。助けてロゼ…!)
助けを求めたところで、ロゼはぐっすりと眠っている。あまり強く祈ると契約の腕輪が反応してしまうため、リーテアは必死に心を落ち着かせた。
ディランは静かに口を開き、落ち着く声で話し始める。
「……リーテア。君が俺を、助けてくれた力だけど…」
「え、あ、うん、《愛の魔女》の真の力のことね?」
「そう。……愛する人にしか、使えない力のことだけど」
リーテアは勢い良くディランに視線を戻す。
思いきり悪戯な笑顔を浮かべるディランを見た瞬間、やられた、とリーテアは思った。
「〜〜〜っ、」
「あれ、違った?ロゼの説明だと、《愛の魔女》が愛する人にしか使えない治癒の力が、真の力って言ってたと思うんだけど」
違わないし、全くその通りだった。けれど認めてしまえば、リーテアがディランを愛していると認めるようなものだ。
実際力を使えているので、もう確定していることなのだが、それでも素直に頷くことができない。
「そ、そ、それはっ…」
「それは?」
「………意地悪っ…」
つい睨みつけるようにそう言ってしまったリーテアに、ディランは笑う。そして優しく抱きしめられた。
「ごめんごめん。リーテアの口から聞きたくて、つい」
ポンポン、と背中を叩かれ、リーテアは唇をきゅっと結ぶ。
本人を目の前に「愛している」と言うことは、そう簡単にできることではなかった。
―――けれど。
「……俺は、リーテアが好きだよ。愛してる」
耳元でそっと囁かれ、甘い痺れがリーテアの全身を駆け巡る。
「……も、もう一度言って…?」
聞き間違いではないかと、リーテアは震える声でディランに言った。
くすりと笑ったディランが、より優しく甘い声で同じ言葉を繰り返す。
「俺は、リーテアが好きだよ。愛してる」
「………本当、に…?」
「嘘じゃない。魔女であると誇りに思っているところも、その力を惜しみなく他人のために使えるところも、気が強いのに臆病な部分があるところも、照れたときの真っ赤な顔も…」
「ちょ、ま、待って、それ以上は…」
リーテアは恥ずかしさに耐えきれず、慌ててディランの口を両手で塞ぐ。
すると信じられないことに、ディランはリーテアの手のひらをぺろっと舐めた。
「ひあっ!?」
変な声を上げながら、リーテアは両手を引っ込めた。妖艶に微笑むディランが、なぜか恐ろしく意地の悪い悪魔に見えてしまう。
「さて、愛しい婚約者さまの返事を聞こうか?」
「………返事、って…」
「俺の“愛してる”に対する返事だよ。言っておくけど、返事をもらえるまで離さないから」
ぐっと腰を抱かれながら、にこりとディランが笑う。清々しいほどのその笑みに、リーテアは唇をへの字に曲げた。
(……いつもディランは余裕そうで、私ばっかりって気分になる。……そうだわ、前も確かそんな風に思って、あのときは…)
リーテアはそう考えながら、ディランの髪に触れる。サラリとした触り心地の良い髪は、月夜に照らされるとより綺麗に輝いていた。
少しだけ見開かれた新緑の瞳に、リーテアが映っている。
リーテアは瞼を閉じ、背伸びをしてディランにキスをした。
「―――…」
心地良い静寂の中、ゆっくりと唇が離れる。
ディランの頬にサッと赤みが差し、リーテアは笑みが零れた。
「……ディラン、私も好き。愛して…」
それから先の言葉は、言葉にならなかった。再び重なった唇から、熱が伝わってくる。
何度も繰り返されるキスに、リーテアの頭に警鐘が鳴り響いた。
トン、とディランの胸元を叩いてみるが、一向にキスが止まらない。ドンドンと激しく叩き続けて、ようやくディランが離れた。
けれど、その顔はとても不満気だ。
「まだ足りないんだけど?」
「……わ、私はもう、胸がいっぱいで…」
「まぁ、これから時間はたくさんあるか…」
ポツリと呟かれた言葉に、リーテアは内心悲鳴を上げていた。
ロゼの“あの王子絶対に手が早いよ”という言葉を思い出す。
「ディ、ディラン、その…私、こんなに誰かに愛してもらえるのは、初めてだから」
「……ん、大事にするよ。約束する」
そう言って、ディランがリーテアの瞼にキスを落とす。
とても優しい表情は、出逢った頃には考えられないものだった。リーテアはフッと笑う。
「……あんなに魔女のことが嫌いだったのにね。私も王子に良い思い出はなかったし…今こうして隣にいるのが、不思議な感じがするわ」
「あー…思い返せば思い返すほど、リーテアに会えて良かったって思うよ」
「こういうのを、運命っていうのかしら?」
リーテアの言葉に、ディランは考えるように空を見上げた。満天の星がきらきらと輝いている。
「そうだな…俺は、《愛の魔女》の導きだと思うよ」
嬉しそうに微笑んだディランに、リーテアは「その通りだわ」と言って笑った。
◆◆◆
翌日、リーテアの元へ意外な人物が訪ねてきた。
「リーテアさん…!!」
扉を開けた瞬間、柔らかい温もりに包まれる。新緑の瞳に涙を溜め、シャナがリーテアに抱きついていた。
「ついさっき、ヴィクトルから全部聞いたわ…!ディランを救ってくれて、本当にありがとう…!」
「……シャナさま、リーテアさまが窒息してしまいます」
アシュトンの冷静なツッコミに、シャナは慌てて体を離す。
そのおかげで、リーテアは少し咳き込むだけで済んだ。勝手にシャナに病弱な印象を抱いてしまっていたが、どうやら力は相当強いようだ。
「……ディランのことは、私が助けられて本当に良かったです。シャナさまは、いつこちらに?」
「今朝よ。ジェドが迎えに来てくれて…《透過の魔女》が…ルイーズが捕まったと聞いたわ」
少し悲しそうにそう言って、シャナが目を伏せる。リーテアは何も言えず、気になったことを問い掛けることにした。
「シャナさまは…このまま王妃陛下として、城に戻られるのですよね?」
「え?……いいえ、私はこの城へは戻らないわ」
当たり前に戻ってくるのだと思っていたリーテアは、シャナの答えに目を丸くする。
「そんなっ…」
「ヴィクトルもディラン大切だし、国民ももちろん大切よ。……でも私は一度、全てを投げ出したの。王妃と呼ばれる資格はないし…世間で私は亡くなったことになっているし、今更混乱させるつもりはないのよ」
そう言って微笑んだシャナを見て、その決意が簡単に曲がるようにはリーテアには思えなかった。
しょんぼりと肩を落とし、「そうですか…」と呟く。
「ふふ、分かってくれてありがとう。私はあの村で過ごして、ときどきみんなに会いに来るわ。……そのときは、私とお話する時間を取ってくれるかしら?」
「……はい!もちろんです!」
「ありがとう、リーテアさん。……それで今日はね、お願いがあってここに来たの」
シャナは深く息を吐き出すと、真剣な瞳をリーテアに向けた。
「彼女に…ルイーズに、一緒に会ってくれないかしら」
その真っ直ぐな瞳を見つめ返しながら、リーテアはすぐに頷いていた。




