38.歴史が変わる瞬間
「聞いてくれライアス。俺は歴史が変わる瞬間を見た」
神妙な面持ちでそう言ってきたアシュトンに、ライアスは冷ややかな視線を返す。
「……話はそれだけか?俺は忙しいんだが」
時刻は夜。仕事はとっくに終業の時間だが、その通りに終われないのが王子の側近である。
それはまたアシュトンも同じはずなのだが、護衛対象を放ってライアスの部屋へ押しかけて来ていた。
「殿下は?」
「ディランはニールさんと話してる。俺は先に戻ってろと言われたんだ」
「ニールさんと…リーテアさまの件か」
そう言いながら、ライアスは書類を捲る。
リーテアがディランの婚約者となれば、今まで通り雑用をさせるわけにはいかない。
そうなれば、あの魔女依頼受付室がまた立ち回らなくなるかもしれないのだ。
「魔女に対する印象が変わってきているとはいえ…あそこで働きたいと思う変わり者がいるかどうか」
「あそこ自体は居心地が良いんだけどな。ニールさんもあんな感じだし、他の職員も…って、俺の話はまだ終わってない!」
「……何の話だ。歴史がどうのこうのって?」
ずり落ちてきていた眼鏡をくいっと元の位置に戻しながら、ライアスが視線を上げる。
アシュトンはコホンとわざとらしい咳払いをして続けた。
「ついさっきのことだ。ディランが予定通り、リーテアさまに婚約者になってほしいと、再度申し込んだ」
「その様子だと、受け入れてもらったんだろう?」
「もちろんだ。ディランが手を差し出し、リーテアさまがその手を取った瞬間、俺はこの国の歴史が変わると思ったんだ」
ずいぶんと仰々しい話題に、ライアスは自然と眉をひそめていた。
「別の場所で、改めて申し込んだだけだろう。何が変わるんだ」
「前回ディランの部屋で言ったときとは、ディランの表情が明らかに違った。リーテアさまも、前のような拒否感は無かった」
「………」
「あれだけ魔女が嫌だと言っていたディランに、正直俺は、まともな婚約者を選べるとは思っていなかったんだ…リーテアさまが、現れるまでは」
そのアシュトンの気持ちが、ライアスには分かった。
生い立ちによって、魔女という存在に嫌悪感を抱いているディランは、あろうことか婚約者になる女性を魔女にしろと言われてしまった。
ならば、権力に擦り寄ってくる魔女を国のために使ってやろうと、魔女依頼受付室を作った。
ディランの婚約者という地位を求め、各国から魔女たちが集まってきた。
力を振りかざし、態度が大きく、美貌を磨いて媚を売ってくる…そんな魔女が。
ライアスとアシュトンは、ディランが婚約者に魔女を選びたがっていないことは分かっていた。
それは当然だと思っていたし、国王に状況を訊ねられても毎回誤魔化していた。
ディランに無理やり選ばせることだけは、したくなかった。
魔女を見るディランの瞳が変わったのは、リーテアが現れてからだった。
一風変わった《愛の魔女》は、次々と周囲の人物の心を掴んでいく。その様子を目の当たりにしたライアスは、リーテアの存在を認めざるを得なかった。
「……彼女がまともかはさて置き…ディランが婚約者にと決めたなら、俺はそれが最善になるようサポートするだけだ」
「サポートするのは俺も一緒だけどさ。何ていうか…幸せになって欲しいよな」
壁に背を預けながら、アシュトンが独り言のように呟く。
幸せになって欲しい。それは、ライアスとアシュトンの共通の願いだ。
「ディランの妨げになるなら、いくら婚約者でも、俺は彼女を…リーテアさまを、許さない」
「……ライアスはディランが大好きだもんな」
「言い方。お前だって…」
「でもきっと、同じようにリーテアさまのことを好きになると思うよ」
アシュトンが悪戯に笑い、ライアスは思わず「は?」と苛ついた声が漏れた。
「俺が?あの人を?」
「女性としてっていうか、人間としての好きって意味だからな?そんな怖い顔するなよ」
「……俺には、ディランとお前がいれば十分だよ」
「そうか?だってもう、リーテアさまのことをちゃんと名前で呼んでるじゃんか」
その指摘に、ライアスはピタリと手を止めた。
確かにずっと、ライアスはリーテアのことを《愛の魔女》か彼女、あの人、と呼んでいたはずだった。
それがいつの間にか、本人でも気付かないうちに名前で呼ぶようになっていた。
「………」
書類を棚に戻し、イスに掛けていた上着を羽織る。扉に向かって歩き出せば、アシュトンが首を傾げた。
「どこ行くんだよ」
「少し…考えをまとめてくる」
「はぁ?」
ライアスはアシュトンを放って部屋から出た。きっとディランの部屋に戻るだろう。
廊下を歩くと、もう夜だというのに多くの人の気配を感じる。この国の発展のために、皆が昼夜問わず働いているのだ。
(……俺の役割は、ディランの側近。ディランを第一に考え、支えること。常に周囲に気を配り、余計な私情は挟まない―――…)
「―――ライアス」
名前を呼ばれ、ライアスは知らずに早足になっていた足を止めた。
声を聞いただけで、誰に呼び止められたのか分かる。分かるからこそ、振り返りたくはなかった。
「ライアス、聞こえている?」
「……珍しいですね。あなたが出歩くなんて」
仕方無しに振り返ったライアスは、早々に嫌味を吐き出した。
そこには、よく似た顔をした人物が立っている。
「お前に会わないだけで、城内はよく歩いているよ。久しぶりだけど、調子はどう?」
「……どうして、そんなことを聞くんですか?」
「弟の調子を気にしたらいけない?」
ライアスの兄であるグレアムは、その口元を緩めた。
ライアスと同じ栗色のくせ毛は肩の辺りまで伸ばされ、今は頭の後ろで結ばれている。
眼鏡は掛けておらず、紫の瞳が妖しげに細められていた。
「俺は、あなたの調子を気にしたことはありませんが」
「はは、弟が冷たいな。いつからこうなったのか…」
「……昔話をする気はありません。では」
口元に手を当て考える素振りを見せるグレアムに、ライアスは付き合う気などない。
その場からすぐに離れようとすると、また名前を呼ばれる。
「ライアス。目に見えるものだけが、真実じゃないから」
真意の見えないその言葉を聞いても、ライアスはもう立ち止まらなかった。
若くして国王の側近であるグレアムは、ライアスにとって味方ではない。
嫌いなわけではないし、幼い頃は仲が良い方だった。けれど今は、わざわざ仲良くしようとは思わなくなってしまった。
(ああ、イライラする。余計な私情は挟むな。俺は俺の、すべきことを)
結局頭の中の整理すらできないまま、ライアスは自分の部屋に戻っていくのだった。
「どうした?ライアス」
扉を開けた瞬間、ライアスはハッと我に返った。
その先にいたのは、眉を寄せているディランだった。どうやら、自分の部屋に戻るつもりが、足が勝手にディランの部屋に向かっていたらしい。
衛兵もライアスだからと引き止めなかったようだ。
「あー……」
「おい、本当にどうした?」
扉を閉め、ずるずるとその場にしゃがみ込むライアスに、ディランが心配した声を出す。
髪をぐしゃりと掻き混ぜると、ライアスはスッと姿勢を正した。
「……ノックもせず、失礼しました。ゆっくりお休みになってください。では」
「おいおいおい」
くるりと背を向けると、ディランの呆れ声が飛んでくる。さすがに誤魔化せないか、とライアスはため息を吐いた。
「………兄さんに、会いました」
「グレアムに?ああ、それで…。何か言われたのか?」
「いえ……」
最後の言葉は、“何か”に入るのだろうか。そう思いながら、ライアスは頭を横に振った。
そんなライアスを見ながら、ディランは机に頬杖をつく。
「そんなに敵意を向けなくてもいいんじゃないか?俺はグレアムは嫌いじゃないけど」
「……陛下についている時点で、俺にとっては味方ではありません」
「ふはっ、ライアスは俺のこと好きだもんなぁ」
「なっ…、」
アシュトンと同じようなことを言われ、ライアスはカッと顔が熱くなる。けれど、それは事実だった。
幼い頃、塞ぎ込みがちだったライアスの手を取ってくれたディランは、誰よりも敬愛するヒーローのような存在なのだ。
「……そういえば、アシュトンはどこへ?」
「ああ、さっき会ったんだけどな。あいつも今日は疲れてるだろうし、帰ってもらった」
「……歴史が変わる瞬間に立ち会ったと、そう言っていましたよ」
ディランは一瞬きょとんと目を丸くしたあと、すぐに腹を抱えて笑い出す。
「大げさだな、アシュトンは…確かにリーテアが手を取ってくれたあの瞬間、俺は心が震えたけど」
「それは…感動で、ですか?」
「感動というか…なんだろうな、これから何かが始まる、そんな予感がした。あとリーテアが綺麗だった」
「分かりました、惚気ですね」
「客観的事実だよ。俺は別に、リーテアに恋心があるわけじゃないからな?」
それも時間の問題な気がすると、ライアスは口には出さないが思っていた。
利益目当ての婚約者。そこに恋愛感情が加われば、どうなってしまうのだろう。
「それこそ、歴史が変わる、か…」
「ん?」
「いえ。独り言です」
「俺と二人でいるのに独り言は失礼じゃないか?」
「では、空に向かって話し掛けていたということで」
「ふはっ、何だそれ」
楽しそうに笑うディランを見れば、ライアスの心は自然と落ち着いていた。
これからやるべきことはたくさんある。それでも、心の中の信念だけは、貫き通していきたいと思った。
ディランが自分は幸せだと口にできる、その日まで。
(さて、まずは…婚約発表について、計画を詰めないと)
眼鏡の位置を直したライアスの紫の瞳に、もう迷いはなかった。




