一幕 復讐令嬢は回想する
「ちょっと、ティア! 結婚するなんて聴いてないわよ!」
誰もが微睡む休日の昼下がり。麗らかな春の日差しを受け、シルヴァリオ家自慢のガーデンテラスも主人の来訪を心から喜んでいるようだった。……勿論、この闖入者が現れるまでは、の話だが。
鼻息荒く登場したのは、そばかすが愛らしい年端も行かぬ少女だった。貿易業を営む商家の娘、ヘンリエッタ・ライラック伯爵令嬢である。
彼女の後ろを見遣ると、視界の端で燕尾服が揺れていた。よくよく目を凝らせば、アリステラが苦々しく顔を覗かせている。「止めても無駄だったんです」と文字通り手を上げていた。
ユースティアは小さく息を吐くと、手に持ったティーカップを静かに置いた。
「誰にも言ってませんからね。そもそも先日決まったことですし」
当事者であるユースティアも、名前以外の情報を聞かされていない状態だ。険のある声で返したつもりだったが、それでもヘンリエッタは止まらない。
「だとしても、親友のわたしには真っ先に言うべきなんじゃないの⁉︎」
「貴女、親友だったんですか?」
父親の知り合いというだけで、当人同士の繋がりは薄いはずだが。
ユースティアの言葉に、ヘンリエッタは大仰によろめいた。「酷い、酷すぎるわ!」と両の手で顔を覆うが、
「で。相手はどこの誰よ」
次の瞬間には対面の席を陣取り、橙の瞳を爛々《らんらん》と輝かせていた。真面目に付き合っていたらキリがないことは、浅い関係性でもよく理解している。アリステラに目配せし、もう一つティーセットを用意してもらう。
「フェイク・マーダーという方らしいですよ。私もお会いしたことはありませんが」
「……よく知らないんだけど、マーダーってことはあの大手新聞社の血縁で合ってる?」
「よく知らないのに聞かないでください」
ライラック家は彼女の祖父、つまり二世代で栄えた謂わば成金貴族である。ヘンリエッタ曰く、出自は東洋の方らしい。新しい故に無知で、無知故に無謀が出来る。そのため色々と黒い噂が絶えないのだが、そこは同じ穴の貉と言うべきか。
「だとしたら凄い! 玉の輿じゃないの!」
「公爵家に向かって言うことではないでしょう、それ」
ユースティアの返しに、ヘンリエッタは「あはは」と頬を掻いた。どうやら、失言した自覚はあるらしい。確かにマーダー社と言えば、この国に存在する老舗の新聞社だ。同じ公爵家でもシルヴァリオとは天と地ほどの差がある。故に彼女の言葉もまた事実なので、ユースティアもそれ以上の追求はしなかった。
お互い紅茶を一口含み、話を再開させる。
「それで、一体どういう経緯があったわけ? この話を持ってきたの、ティアのお父様じゃないでしょう?」
「確かに父ではありませんね」
「じゃあ誰が?」
「強いて言えば国から、でしょうか」
ガタリ、と何かが倒れる音がした。伏せていた目を上げれば、ヘンリエッタが大口を開けて棒立ちしている。立ち上がった勢いで椅子がひっくり返ったようだ。既にアリステラが立て直している。
それから咳払いを一つ、「失礼したわ」と彼女は腰を下ろした。
「何というか、本当に末代まで呪われそうね、あなたの家」
「おや。流石にこの厄介さは理解出来るんですね」
「そりゃそうよ! だって、この国に住めば否が応でも知る話じゃない。ティアにとっては不名誉なことでしょうけど」
「そこまで行くと、一周回って光栄に思えますけど……でも、そうですね。子孫を困らせない為にも、この家は私の代で終わらせたいのですが」
「いつまで続くのやら」水面に映った己の顔を、ユースティアは一瞥する。相貌は父親譲りだが、髪と瞳の色は母から遺伝したものだ。それだけで、自分にかの大悪党の姿を重ねる者は少なくない。
「まぁ、犯罪者の娘なんて好き好んで娶るものではないでしょうし。陛下の機嫌さえ取れれば、あとは愛人を囲うつもりなのかも知れません」
「そこは、ほら。ちゃんとティア自身を気に入ったのかも知れないし?」
「会ったこともない人まで愛せるなんて、きっと素晴らしい博愛主義者なんですね」
「結婚なんてそんなものじゃない? 当人たちの気持ちなんて二の次よ。お父様もそんな感じだし」
齢十四の少女にこんなことを言わせてしまうとは、相変わらず腐った世の中である。ヘンリエッタは自分の二つ下に当たるが、時々こうして諦観の念を覗かせる。ユースティアの前では破天荒そのものなのに、猫被りも処世術の一つということか。
「執事さんはどう思いますか?」
流れを変えるためだろう、ヘンリエッタは声の調子を上げた。話を振られたアリステラは、笑んだまま眉だけを動かす。
「どう、とは?」
「ティアの結婚についてですよ! 執事さん、いつも一緒に居るし」
その言葉にアリステラのみならず、ユースティアまでもが目を見張った。それから顔を見合わせると、二人して頭を振る。
「何を勘ぐっているのか聞きませんけど……絶対にないですね。性格に難があり過ぎますし」
「僕の方こそ恐れ多くて。でも、喜ばしいことだと思います。嫁ぎ先が見つからないと、旦那様も嘆いてましたから」
別に悩んでいる様子はなかったと思うが、引け目を感じているというのは事実だろう。誰のせいでもないのに難儀なことだと、ユースティアは小さく肩を竦めた。
──ユースティアの母親、メイリア・シルヴァリオは、世紀の大悪党とまで呼ばれた犯罪者だった。罪名は共謀罪。とある薬物を使い、国家転覆を企てたとされている。
伝聞表現なのは、この話が全て他人から聞かされたものだからだ。ユースティアが九つの時、メイリアは軍に連行された。父も共犯者として疑われたものの、幸いにも関与なしと判断された。
しかし罪人の血族を野放しにしておく程、この国は甘くない。残されたのは貴族の身分とは思えない、古びた館に小さな庭園。土地の大半を湖畔が占めるため、些細な作物さえ育てられない。そんな帝都から程近い片田舎に、シルヴァリオ邸はひっそりと佇んでいた。公爵という位はそのままだが、かつての領地はとうの昔に追われ、外界との接触は殆ど禁じられている。頼りになるはずの親類も既に棺中で眠ってしまった。
それでも生活を維持出来ているのは、月に二回ほど物資を届けてくれるライラック家と、
「僕にとっての幸せは、ティアと共にあるものですから」
不本意ではあるが、アリステラのお陰と言える。
歯の浮くような台詞にヘンリエッタは涙を滲ませた。「これが敬愛というやつね!」とハンカチーフを取り出しているが、それだけは否定させていただきたい。
ユースティアの嘆息に、アリステラは愉しげに肩を揺らした。
「そう言えば、ヘンリエッタ様はどこから情報を仕入れたのですか? さすがに招待状はまだかと存じますが」
紅茶を注ぎきったところで、アリステラが問いかけた。確かに情報の出どころは気になるが、大方父親であるミリオ・ライラック卿から話を聴いたのだろう。案の定「お父様からよ」と彼女は答える。
「そうそう。結婚に向けて色々と入り用があると思うから、今週末に外出していいって。また夜とかになっちゃうと思うけど、お店にはうちから話しておくから」
「あら。貴女の方で揃えてはくださらないの?」
「わたしもそう提案したんだけど、お父様が頑なに拒んでね。でも陛下の決めたことなら、これ以上手を出したくなかったんじゃないかしら」
「一応、届けられるのも生活必需品だけだし」ヘンリエッタは紅茶を喫すると、小さく息を吐いた。ユースティアへと目を据える姿は先程と打って変わり、厳粛な雰囲気を纏っている。
「それに今の帝都、ちょっと危ないしね。だから外出許可も嫌がらせの一環なのかも」
「……念のため聴いておきましょう。危ないという理由は?」
いつの間にか空には翳りが出来ていた。急速に満ちる暗闇の中、重々しくヘンリエッタは口を開く。
「ドラッグの密売よ。しかもマリファナやコカインなんかじゃなくて、“ロータス”だって」
耳馴染みのある単語にユースティアは眉を顰めた。瞳の奥にはひっそりと炎が揺らいでいる。