第五話 一夜が明けて
悪魔、それは古より人々を誘惑し、堕落させてきた闇の世界の住人である。西洋のとある宗教では神に敵対する悪しき者たちであり、堕天使やその手先とも言われる。他宗教では煩悩たる悪神とされることもある。しかし、悪魔の本質は堕天使でも、ましてやただの煩悩の化身ではない。かの宗教によってそうとされた存在は―――無論、堕天使から転じたものや近代発祥の悪魔も存在するが―――本来は異教の神々であった。所謂古代多神教の神々が一神教によって貶められて生まれた存在、それが悪魔である。
例えば、ソロモン七十二柱の悪魔が一つ―――序列二十九位の『アスタロト』。それは元々、アスタルテという女神であった。更に辿れば、アスタルテの起源は古バビロニアにて豊穣・愛・金星・争いを司るイナンナ、もしくはイシュタルという女神であった。彼女を起源とする女神はその他にも幾つか居り、ギリシアの美の女神アフロディーテやエジプトのアストレトもそうである。彼女たちイナンナ系譜の女神たちは様々な時代・地域で崇拝され、天を統べる主として輝いていた。いつしかそれが、『異教の女神』を意味するアシュタレトと呼称され、その権能は絶頂を向かえていた。だが、その強大な力はとある一神教の支配下において異端と称された。それが栄華と繁栄の終焉だった。彼女たちの美と力は剥奪され、男の悪魔『アスタロト』として貶められたのだ。
このように、本来『悪魔』は闇ではなく光―――否、光も闇も併せ持った混沌なる者。それは正しく自然の体現者である『神々』に他ならない。何故ならば、神々は元々この地球を管理維持し、その歴史を記録する『星の意思』から生まれ、細分化された端末の数々を指すのだから。故に純粋な悪魔は、神々が振るいし古代の権能の残滓を未だに保有していた。故に、神秘を扱う術において悪魔に敵う者は無い。古代の大魔術師であろうと、それらを使役したかのソロモン王ですら、全盛期の力を保持した神々―――悪魔には歯が立たないであろう。だからこそ、唯一の神を崇める者たちは天の主を地に堕とし、封印したのだ。そうした話は他の神々にも言えることだった。
その為にあるモノは怒り、あるモノは嘆き、あるモノは人類を見限った。だが、それでも彼女は―――大いなる母たちは、人間を変わらずに見守っているのである。例え力を失っても、誰からも信仰されなくなっても、イシュタルの名と血を継いだ者は愛しき子らと共にあろうとしていた。
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―――俺を呼ぶ声が、霧深き夜の街に響く。
石造りの古い街並みの中に、黒い外套の男が立っていた。一本道の中で彼は辺りを見渡し、最初の一歩目で最初に向いていた方へと歩き出す。
―――何処だ、何処から俺を呼んでいる。
男は大きな十字路に差し掛かる。彼は一瞬迷ってから、右に進む道を選んだ。そして、そのまま夢遊病患者のようにふらふらと歩く。
―――姿を見せろ。誰だ、誰が俺を呼ぶ。
気がつくと彼は大通りを外れ、曲がりくねった裏通りにいた。そこはまさしく迷宮が如く。更に進めば、縦横無尽に道が交わる交差点が眼前に現れる。
―――『俺』は此処だ、此処にいる。
前方の霧に包まれた道から人影が姿を見せる。それは顔を蒼白いデスマスクで覆い、血の滴るナイフを右手に握りしめていた。
―――『俺』はお前で、お前は『俺』だ。
怪人はゆっくりと左手でさまよう男を指し、口を開く。男は恐怖心から後退りをしようとした。だが、足元にあった『何か』を踏んだ感触でその足を止める。そこにあったのは、数多の屍だった。それはとある老政治家を始めとした、今まで彼が殺してきたものたちの亡骸。名も知らない老若男女に加えて、そこにはゴリアテやヘラ、ロクスレイといった男の裏切りによって死んでいった者たちもいた。
―――『お前』が殺すも、『俺』が殺すも同じこと。どちらであっても屍の山は俺達の背に築かれる。
はっとした男が思わずデスマスクの怪人に目を戻せば、ソレは何時の間にかすぐ目の前に居た。彼の鼻に死の臭いが掛かるぐらいの距離に、怪人は立っていたのだ。
―――『俺』はいつでも『お前』の中にいる。お前はいつでも『俺』を呼び出せる。その逆もまた然り。忘れるな。『俺』も『お前』も、最早一つの『個』だという事を。
突如遠くから聞こえて来た鐘の音が、男の頭を揺さぶる。それはやがて二十、三重となりて彼に頭痛をもたらしていった。
―――そう、『俺達』はどうしようもない殺人鬼だ。その名を、罪を忘れるな。
そう言って短剣を持つ男はゆらりと霧に溶け、外套の男の口へと飛び込んでいく。彼は思わず叫びを挙げて―――。
「………夢、か」
黒髪の東洋人的な男―――ジャックは豪華なベッドの上で目を覚ました。冷や汗をかいていた上体を起こし、彼は辺りを見渡す。すると、まず最初にその豪華絢爛な調度品の数々が目に入った。そこは彼にとって、全く見覚えのない未知の部屋だった。ジャックが視線を下げて自らの身体を見ると、脇腹と左肩に包帯が巻かれていた。何者かが着ていた服を脱がし、手当てをしたようだった。
彼が身に着けていた物は、部屋の各所に置かれていた。マントの下に纏っていた戦闘用プロテクタースーツ―――黒いラバースーツに黒鉄色の膝当てや肘当て、胸当てが備わった物―――は上半身のみ脱がされ、窓際にハンガーで吊るされていた。そして漆黒の外套は、欠けた白い髑髏の仮面と共にベッド脇のサイドテーブルに置かれていた。
そこでジャックは自身の記憶を辿り、最後に見た光景―――満月と謎の銀髪の少女―――を思い出す。今自分がいるのはその人物の住居だろう、そう彼は推測していた。
まだ少しばかり痛む肩を押さえ、ベッドから立ち上がったジャックは、窓を覗いて現在地の確認をしようとする。だが、そこから見える景色は霧に覆われ、何も見えない。強いて言うなれば、何処か異国染みた―――所謂西洋風の庭の景観が微かに見えた。どうやら彼は、人里離れた地に建てられた西洋館に連れてこられたらしい。
「お目覚めになられたようですね」
「―――ッ!?」
突如背後から声を掛けられ、自らがその気配に気付けなかったことに驚愕しつつ彼は振り向いた。そこには音もなく開かれた扉があった。暗殺者たるジャックに、一切の気配を悟られずに部屋に入ってきたのは―――伝統的で丈の長いエプロンドレス風メイド服を纏った、長い金髪のメイドと思わしき女性だった。
因みに、日本で一般的なメイド服であるミニスカメイドはフレンチメイドと分類される。この場合、フレンチとはイギリス人から見たフランス風という意味らしい。尤も、そんな事にはジャックは微塵も興味がなく、ただ服装の違いとしてしか認識していないようだが。故に彼女の服装や雰囲気からすると、メイドと言うよりはプロの使用人や女中―――否、執事という方が適切だろうか。女性に対しても『執事』という言葉は当てはまる。何故ならその役職は、屋敷内最高位の使用人に任されるからである。
「申し遅れました。私はリリシア様に仕える者、ニーナです。早速ですが御嬢様が食堂にてお待ちですので、クローゼットの中にある服装に着替えたら部屋を出て下さい。私がご案内致します」
「………分かった」
そう言われたジャックは金の装飾が入った漆黒のクローゼットを一瞥し、念のために短剣を仕込むかと考えた。しかし―――。
「それと、暗器の類いはくれぐれも持ち込まないよう御願い致します。ただの食事ですので」
彼女にはどうやら彼の思考はお見通しだったようだ。尤もある程度それを予想してか、彼もまたどの短剣を持ち込むかまでは考えていなかったが。
「では失礼します。お気に召さなかったり、サイズが合わなかったりした場合にはベルを鳴らし、何なりとお申し付け下さいませ」
ニーナはそう言い残し、来たときのように静かに部屋を後にした。彼はそれを見届けるとクローゼットに近寄り、その扉を開いた。中に吊るされていたのは白いシャツと黒いズボン、それと男性用の下着であった。下の方の段には靴下と、黒い革のブーツが置かれていた。
彼には、それらは馴染みのない服装であった。というのも、潜入の必要がある任務以外では普通の服装など着ることがなく、普段の任務や組織の基地にいる時は例の黒い外套と仮面がデフォルトの服装だったからだ。ジャックは少しの間それらを見つめ、着替えだした。用意された物は、どれもぴったりのサイズであった。彼はクローゼットの隣に置かれた姿見に己を映し、こんなものかと一人呟く。
そして彼は部屋の扉を開けて廊下へと出た。赤い絨毯が敷き詰められ、右にも左にもとても長い廊下だった。突き当たりまでに一体どれぐらいの扉があるのか、彼は数えようとして止めた。一目で分かる程の広大さに加えて、彼の右隣に先程の使用人がいたからだ。
「何も問題はなかったようですね。では、食堂までご案内致します。ついてきてください」
そう言うとニーナはきびきびと歩きだした。ジャックもまた、ゆっくりと歩き始めた。左右を見渡し、視界に入る豪華な調度品―――美しい風景画や高価そうな花瓶を眺めながら。尤も、暗殺に関係する事や古今東西の刃物に関する知識以外に乏しい彼には、それらの正確な価値は分からなかったようだった。
やがて彼らの左前方に広々とした階段が見えてきた。彼女たちはその右側―――すなわち上り階段へと進む。その間彼らは一切の会話を行う事無く、沈黙のまま目的地たる食堂へと向かった。
そうして最初の部屋があったフロアから二つほど上の階であろうか。目的地らしい階層に着いた彼らの目の前にやけに大きく、重厚な扉が現れた。
「こちらでございます。中で御嬢様がお待ちですので、どうぞお入りください」
そう言ってニーナは重々しい扉を開き、ジャックに入室を促す。彼はさっきまで巨大な木製の壁があった空間を通り、開かれた扉を見上げながら中に足を踏み入れた。そこには―――。
「漸くのお目覚めね。調子は如何かしら?」
あの黒いドレスの少女がいた。銀色の美しい髪の悪魔―――リリシア・イシュタルテが。
見た目は十代半ば辺りに見える彼女だが、悪魔であることを考えると彼女の年齢は外見のそれからは推測不可能であった。無論、知識の量と実力も。
「………特に悪くはない、お陰様でな。それで、見返りに何を望む?斬って刺して、殺す事しか出来ないこの俺に」
「あら、『悪魔』のことを良くご存知なのね」
「何でも叶えるが、それ故に必ず対価を要求する。そういうものなんだろ?俺は確かに死んだ筈だ。けれど、こうして生きている。今や完全な死者蘇生は、如何なる魔術や神秘を行使し禁忌を犯そうとも成し得ない領域にある」
元暗殺者にして現在無職の男は、一度ここで言葉を切る。そして改めて目の前にいる少女の、その真紅に燃える瞳を覗いた。『無味無臭』に濁ったその虚ろな眼球で。
「つまり―――あんたはその奇跡とでも言うべき所業を、どうにかした訳だ。この世の大原則が一つは『等価交換』だ。当然、そちらが費やしたモノと俺が支払うべき対価は膨大だろう?だから聞いたのさ、『俺』如きに何が出来ると」
意外そうにクスリと笑う少女と、バッサリと話を進めるビジネスライクなジャックだった。狡猾な悪魔を前では、小細工など通じない。そう考えての直球勝負であった。
「ええ。でも、そうね―――その話は後にしましょう、折角のランチが冷めてしまうもの。そうよね?アナ」
本題に入ろうとする彼をやんわりとたしなめつつ、彼女は背後に向かって声を掛けた。奥の扉から、ちょうど料理を別のメイド―――先程のニーナと同じ金髪で、こちらはショートカットの少女―――が運んできたところだった。
「………うん、出来立てが一番美味しいから」
そう言ってアナと呼ばれた少女は、先ずリリシアから食器を並べる。そして、ジャックに座るよう促しつつ配膳がなされた。 メインの皿にはボロネーゼが盛り付けられ、カップには水が注がれていた。
「どうぞ………召し上がれ」
静かに細い声で告げた彼女は、部屋の奥にある扉へと向かっていった。
ジャックは何時もの癖―――暗殺者としての習慣で、そのスパゲティを口にするのを躊躇った。対面で座る彼女が、それをクスリと笑った。毒物を警戒してのことだったが、そんな可能性はないと彼が気付いた時には遅かった。
「毒なら入っていないわよ。そんな事をするぐらいなら、貴方が寝ている間に魔術を掛けてしまうもの」
「それもそうか」
彼は銀のフォークとスプーンを手に、目の前の料理を口に運ぶ。それは、度重なる人体改造や刺激物―――所謂毒物や薬品―――によって壊滅的に破壊されたジャックの味覚を奮い起たせ、久しく認識していなかった感覚を覚醒させた。
「………これは」
「あら、口に合わなかったかしら?」
「いや、そうじゃない。寧ろ美味だ、こうも俺の舌に味を感じさせるとはな。不思議な事もあるものだ」
ジャックの言葉に、彼女は首をかしげる。料理の感想としてはあまり耳にしない類いのものだったからという事は、聞くまでもなく明白である。
「合わなかったのではない。壊れた筈の味覚に『味』を実感させてくれたんだ。それだけこれは美味い、と言いたかっただけだ」
「―――そう、なら良かったわ」
彼女はやや目を反らし、悲しげな色を瞳に浮かばせる。だが、それは一瞬の事だった。やや複雑そうではあるが、直ちに微笑という名の仮面でそれを覆う。そしてその事には、久々の『味』に夢中だった彼には気付ける筈もない。
想像してみるといい。何を口にしようと、熱い、冷たい、硬い、柔らかい―――それらの感触以外はまともに感じられず、強いて挙げるのなら極度の辛さや塩味ぐらいしかわからない状態を。そして、それが最早十年以上も続いていたという事も。
「…………慌てなくても良いわ。好きなだけ、ゆっくり味わって食べなさい」
尤も、その言葉に含まれた同情の念だけは、彼も感じる事ができていた。そうして暫くの間、静かな食事の風景が続いていく。互いに話を切り出そうとはしなかったからだ。
「そういえば、まだ貴方の口から名前を聞いてないわね」
そんな中、話をしやすくするためもあってか、リリシアはふと思い出した事を彼に聞いた。自分は名乗ったが、果たして彼は名前を言っていたかと。
「ジャック―――ジャック・ザ・リターン。『アサシン・マスカレイド』に所属していた、元暗殺者だ」
「それはコードネームでしょう。本名はないのかしら?」
「そんなモノはない。あるのはただ区別するためだけの記号だ、俺達は暗殺の為の道具に過ぎなかったのだから。態々手持ちの食器や使い捨ての道具にまで、名前を付ける奴などいないだろう?」
また沈黙が辺りに満ちる。会話を広げようとしたリリシアの問いは、ジャックによって切り捨てられたのだ。だが、そこから彼は口を開いた。
「しかし、しかしだ。俺にもちゃんとした名があった筈だと、ずっとそう考えてきた」
それでは流石に失礼かと思ったのか、名前のない訳を語りだそうとする。別の話題を提供しようとした少女は、それを受けて口をつぐむ。
「その甲斐もあってかどうかは分からない。もう十年以上も前に失ったモノだが、何とか自分の来歴だけは取り戻すことが出来た。尤も、肝心の本名がまだわからないから、他人事のような所感にすぎないがな」
そうして彼は独白を始めた。記憶が霞んであやふやだが、と前置きされたそれは静けさという水面に穿たれた雫の如く、波紋を呼ぶ。そんな中、話が長くなる事を予期してか―――はたまた食後のティータイムかどうかは分からないが、メイドの二人が紅茶をリリシアとジャックに持ってきていた。それが配られたと共に、男は話を始める。
「最早親の顔も声も覚えちゃいないが、俺は日本の極々ありふれた家庭に生まれた子供だった」
ジャックは一度話を区切り、白いティーカップを口元に運ぶ。中身を口にした彼の表情は比較的柔らかな物だったが、すぐにまたいつもの無表情という名の仮面を被っていった。だが、そんな彼は初対面の彼女に対して自身でも不思議に思う位に過去を語りだしていた。命の恩人だからだろうか、それともリリシアが人ならざる存在だからだろうか。はたまた、ジャックは彼女に対し、何かを感じたのかもしれない。何故かは本人にも分からないが、何時もより饒舌になっていた。
「ある時、俺達家族は海外に転勤することになった。そして何処か遠くの異国に行き、そこで反政府勢力のテロに巻き込まれたらしい。全ては一瞬のことさ。街に警報と怒号が満ち、爆発音と銃声が断続的に響き渡る。俺達も逃げたさ。必死に、ただひたすらに。避難所に辿り着いた時にはそりゃあ、助かったと心底安堵したものだ。だが―――」
「そうはいかなかった、ということね?」
悪魔の少女の言葉に、彼は頷く。
「奴らはそこを襲撃し、女と子供以外は皆殺しにした。女の方はどうなったかは知らんが、俺を含めた子供達は人身売買に掛けられた」
「それで貴方を買ったのが―――」
「そう、アサシン・マスカレイドだ。俺たちは奴らに何らかの処置―――恐らく洗脳を施され、訓練を受けさせられた。後はどうということはない。それに耐えた者たちだけが生きる資格を得て、耐えられなかった奴らは始末された。ただ、それだけの話さ」
遠い眼をした彼が脳裏に浮かべるは、自らが踏み台にしてきた同胞の顔。どれも皆一つとして穏やかなモノはない。苦痛、無念、憎悪、憤怒、悲嘆、絶望―――それらに表情を歪ませ、慟哭を響かせる死に顔だらけ。そして―――。
「尤も、俺の場合はそれだけじゃないらしいな」
「どういうこと?」
もう一つ彼の眼に焼き付いているモノがあった。それこそが彼を『悪霧の再来』足らしめ、驚異的な殺人技能を与えている存在であった。彼はそれについて、己が知る事実を淡々と語りだす。
「俺だけはとある実験に使われたらしい。俺には………いや、俺の魂にはどうも組織にいた別人のモノが混じっている。それはその実験でそうなったようだ」
その実験とは、被験者の肉体に他者の残留思念―――つまり、他人の肉体より摘出した魂や人格をインストールするというものだった。
「魂の転移…………ね。懐かしい響き、まだそんな『命題』に取り組んでいるなんて」
リリシアはそう言って、悲しげな笑みを浮かべる。ジャックはそれが気になって、自分の身に行われた事について聞く事にした。
「ええ………古い話だけど、確かヨーロッパの魔術師の間で流行った実験よ。自らの命を別の器に移し、疑似的な不老不死の実現を目指すというモノね。当然、その全てが悉く失敗に終わったのだけど」
なるほどと彼は呟く。ジャックの思考が徐々に過去の回想から疑問への考察へと切り替わっていった。そんな実験を何故行ったのか、どうして俺でなければならなかったのか―――そんな連鎖に歯止めを掛けたのが、リリシアによる話の続きへの催促だった。
「それで、貴方には一体誰の魂が入れられたのかしら?もしかして『切り裂きジャック』とか?」
「ああ、そうらしいな。俺が『ジャック』という名を与えられたのは、それが由来らしい」
あら、と少女は声を挙げた。どうも冗談のつもりだったらしいが、思いがけずそれは真実を言い当てていた。
「………長年の謎が解けたわね、何故切り裂きジャックは捕まらず、未だに正体不明なのか。彼は暗殺組織にスカウトされて匿われていたから、ということだった訳ね」
「刃物の扱いや人体の急所。それら全てを俺は知っていたんだ、組織の暗殺者として生まれ変わった時から。俺の魂が奴のモノと混じり、溶け合ったのが全ての始まりさ」
ジャックはそこで一度口を閉じて、紅茶に目を向ける。彼は傍にあったミルクポットを手に取って、こんな風になと言ってカップの中の水面に注いだ。
「そして、最早どちらのモノでもなくなったが故に―――奴が得た知識と技術だけを受け継ぎ、記憶の大半が失われたようだ。分かるだろう?俺はもう誰でもない。ただの被害者でも、ましてや切り裂きジャックでも……何者でもない壊れた道具。それが今の俺さ」
またも静けさが訪れる。少なくとも、この話題は今するべきではなかったのだろう。尤も、彼女はただ彼の事を知りたかっただけなのだ。久しぶりに招いた、人間の客人の事を。
「………話題を振っておいてあれだけど、そろそろ本題に入りましょうか」
申し訳なさそうにそう言った少女に対し、男は何事もなかったかのような態度で返答する。
「ああ、何時でも構わない」
こうして二人は先程中断したビジネスに関する話へと戻った。食堂が何処かしんみりしたものとは違う、乾いた空気で満たされていった。
「それで、あんたは俺に何を望むんだ?」
「簡単な仕事よ、私のボディーガードをしてもらいたいの」
その一言をジャックは鼻で笑う。
「暗殺者に身辺警護を頼むとは、皮肉なモノだな」
対するリリシアは、ニヤリとさも面白いと言わんばかりに口元を吊り上げていた。
「ええ、面白い冗談よね。でも、暗殺のプロが対暗殺の策を練る。これ以上効果的な方法はないと思うのは、私だけかしら?」
「いや。そういう無茶振りは嫌いじゃない、個人的にはな。それで、具体的な場所や期間は?」
「二週間後にある会談よ、場所はまだ明かせないけどね。そこで私は人間の穏健派代表と会うのだけど、それを望まない勢力が襲撃してくるかもしれない。だから、そこで私の護衛をして欲しいの」
暫しの間、ジャックは黙っていた。それを迷っていると思ったリリシアは、畳み掛けるかのようにやや邪悪に微笑む。
「あら、貴方にはメリットしかないと思うのだけれど。組織を裏切った貴方の居場所、果たして外にあるかしら?最低でも二週間―――いいえ。望むのならその後も、ここに専属の護衛として居させてあげる。彼らだってアスタロト一族の長、『イシュタルテ』の後継者とは敵対したくない筈よ」
「………良いだろう。その依頼、引き受けた」
メリットがデメリットを上回ったのだろうか、ジャックはそう頷く。彼女はそれを見て微笑んだ。
「商談成立ね。当日まで、この屋敷で好きに過ごしてくれて構わないわ。身の回りの事は、ニーナかアナに遠慮なく言いなさい」
そう言うと、銀髪の少女は後ろに控えていたメイド―――アナに食器を下げるよう言い付けて席を立った。ジャックもまた席を後にして、自身が目覚めた部屋へと戻ろうとする。
「―――そう言えば、何か必要な物はあるかしら?」
彼は背後からの声に、振り向かずに応えた。
「ならば、ナイフやダガーといった刃物の類いが欲しい。質は問わん、なるべく多く早くだ」
そして彼は返事を待たずに食堂を後にした。広く高い天井の室内に、木の扉が軋む音だけが木霊する。彼女はそれを見届けた後、後ろに控えていたニーナに指示を出した。
「聞いたわね、ニーナ。早速だけど何時もの店に手配しなさい」
「承知致しました。しかし、よろしいのですか?護衛ならば私やアナでも―――」
だが、そのメイドには不服であった。彼女は長年、リリシア・イシュタルテに仕えた忠実なる僕である。妹であるアナと共に、たった二人で主を支えてきたという誇りが彼女にはあった。また、姉妹揃ってリリシアに助けられたという恩義もあった。だからこそ、主の命を彼女は余所者には任せられない。否、自身に任せて欲しかっただけかもしれない。
「そうね、貴方達でも良かったのかもしれないわね。でも、これは私なりの償いであり恩返しなのよ」
「リリシア様………」
けれども金髪の少女はただ、悲しげに佇む主を見守ることしか出来なかった。その訳を、知っているが故に。
「これは私が償うべき罪、無力な私への戒め。『彼ら』と交わした約束だから……」
リリシアの脳裏を過る砂漠の風景。そこには幸せそうな家族―――父母とその子供の笑顔―――が、まるで蜃気楼のように揺れていた。
「ごめんなさい。あなたたちとの約束を、守れなくて……」
開いていた窓から一陣の風が吹き込む。それは静かに泣いていた少女の頬を撫でて、食堂の中を通り過ぎていく。暫しの間、その場をセンチメンタルな空気が漂った。