第四話 深夜に覚醒(めざ)めて
先程までの死闘が繰り広げられていた都会の街並みから、少し外れた郊外。この真慕炉市幻京区を流れる間泥川に掛かる、人気のない静かな橋―――間泥橋の上にロクスレイは居た。先程から降り注ぐ雨音と彼の足音しか響かぬ静寂の地に、彼はジャックを何とか巻いてここまで撤退したのだった。
「くっ………まさか腑抜けたジャックにゴリアテとヘラが殺られるとは―――いや、ゴリアテの時は仕方なかった」
負傷したと思わしき右脇腹を抑えた彼は、頻りに考察を呟く。そうでもしていなければ、彼は自身がライバルであった相手―――同期で同年齢のジャック・ザ・リターンから敗走したことが認められなかったからだ。
「あれはとろくさいあの馬鹿が悪い。しかし不可解なのはヘラの時だ。如何に強力なあの薬を原液で使ったとしても、あそこまでの性格変貌は起こらない。いや、起こり得な―――まさか!?」
仮面の下で狙撃主の顔が驚愕に歪む。様々な点が線で繋がり、腑に落ちる一応の解答を得たようだ。
「そうか、例の―――あの計画が成功していたとすれば………いや、そんな筈はない。アレは失敗に終わり、資料は抹消されている。しかし、そうだとすれば奴に関する全ての辻褄が、そして今回の指令の意味が―――」
「そうだ。良く解ったな、ロクスレイ」
「ッ!?」
長々と続いた独り言を遮りつつ橋の向かいから現れたのは、闇夜に融ける程に黒く、そして雨に濡れた外套を纏った骸の暗殺者。それは逃げ去ったロクスレイを追うべく先回りしていたジャックだった。
「なら、分かるよなぁ?今の『俺』はさっきまでとは違うってことぐらいは。そうだ、この俺は狙った獲物を逃がしたり、躊躇ったりはしねぇよ」
「―――ならば死ぬのは貴様だ。ジャック、貴様だけは………この俺の手で殺してやろう」
「ほう、良いぜ。殺れるものなら―――殺ってみな?」
睨み合う中、両者同時に動き出した。ロクスレイはクロスボウをジャックに向けて引き金を引き、ジャックはロクスレイに対してナイフを投擲する。静寂を裂くは甲高い金属音。青白い流星と銀の閃光がぶつかり、矢は砕けて刃は地に突き刺さった。
「シャッ!」
「ふッ!」
それが開戦のゴングとなり、両者は再度同時に空へ飛び上がる。弓兵は至近距離から魔力の矢を放たんとして、刃物使いはそれを利用しすれ違い様に斬撃を喰らわせる為に。空中で両者の距離が三メートル程になった時点で、ロクスレイが矢を射る。それはジャックの腹部目掛けて放たれたが、僅かに外れて―――否、ジャックよって外されて左脇腹を掠めるだけに留まってしまった。
「紙一重―――チッ!」
「貰ったッ!」
対するジャックは交差した瞬間にサクス―――を振ることは無く、右足による回し蹴りを叩き込む。さながらラリアットを受けたレスラーが如く勢いを失い、ロクスレイは濡れた石畳に叩き付けられる。飛び散る黒い飛沫、水溜りを走る波紋。そして静かに着地したジャックは振り返り、追い討ちを掛けんと左手でスティレットを逆手に握り駆け出す。助走は充分、彼は跳び上がって刺突用短剣を振り上げた。
「死ねぇ!グッサグサの滅多刺しだ!」
彼がロクスレイを跨ぐように飛び掛かりながら短剣を振り下ろすが、ロクスレイは右に転がる事でそれを回避した。
「逃すかよ―――針山にしてやるぜ、ヘラのようになぁッ!」
彼が起き上がろうとする所で、着地したジャックは再度ナイフを投擲せんとする。漆黒の外套の内にサクスを仕舞い、右手で銀の刃を三本取りだし遠心力を利用して放つ。更には左のスティレットを外套の中に戻し、もう三本取り出し、投げる。六つの流星が弧を描いてロクスレイに迫り、彼は再度サクスを抜いて肉薄せんと駆け抜けた。
「クソが。矢鱈と投げれば当たると思ったか、馬鹿め!」
そこでロクスレイはバックステップを三度行って間合いを離しつつ、矢を何発も射てナイフを撃ち落とす。そして迫り来るジャックに対し、彼は左手でレイピアの一種『コリシュマルド』を外套から取り出した。彼はジャックが振り下ろしたサクスをそれによって刃の根元―――鍔の近くの幅広な部分で受け止める。辺りに飛び散るは、橙色の花びらのごとき火花。
「まさかそんな大層な近接武器を持っていたなんてな、驚いたぜ」
「チッ………まさかコイツを抜く羽目になるとは、流石ジャックだ。貴様で三人目だよ、こんなことは―――なッ!」
そして、その状態からロクスレイがジャックを蹴って間合いを離す。されども距離は未だに近距離戦の内。故に彼らは互いに蹴り合い、右足と右足が下段、中段、上段と場所を変えて何度も衝突し合った。そして、両者同時に切りがないと判断したのか全く同じタイミングでバックステップを二度行う。それによって再度間合いが離されたのだ。
「それでこそだ!それでこそ殺し甲斐があるというものだ―――ジャァァァァァック!!」
そこから接近戦の口火を切ったのは、意外にもロクスレイの方からだった。踏み込みとともに狙撃手が突き出す片手刺突剣。
「喚くんなら断末魔だけにしやがれ、ロクスレイッ!」
殺人鬼の再来はそれに何とかサクスをぶつけて直撃を防ぐ。だが、ロクスレイがでたらめに押し込んでいたそれは、ジャックが受け止めたり弾いたりする度に彼の体力を奪っていく。そして、遂にジャックはその最中に再び蹴りを食らってしまい、よろめきつつ後退させられたのだ。そこでロクスレイは魔動式機械弓を彼に向ける。装填された矢は真っ直ぐに標的の左胸―――心臓を指していた。
「終わりだ―――」
彼はトリガーを力強く引いた。光の矢が解き放たれ、ターゲット目掛けて一直線に突き進む。ジャックはそれを何とか屈むことで回避しようとした。しかし、度重なる被弾によるダメージが蓄積したことにより、肉体の反応が一瞬遅れてしまった。故に、本来その上を通過する筈だった魔力の矢が、その左肩を貫く。
「うぐッ―――!?」
今まで痛みに悶えなかったジャックが、遂に膝をつく。先程負った肩の傷だけではない、左脇腹や左足の痛みが現れたのだ。精神調整薬の効果が切れかけたが故に、麻酔としての効果が無くなっていた。そしてそれは性格変貌も直に消えることを意味する。つまり、彼を無理矢理動かしていた殺意と戦闘意欲が薄れるということでもあった。
「くっ、時間を掛けすぎたか―――あァッ!?」
ジャックは首をもたげた痛覚の叫びを何とか無視し、立ち上がろうとする。だが、それに加えて心が纏っていた狂気の鎧が剥がれ落ち、再度己を責める声が響き出した。
「ぐっ――――あ、ああ!?や、やめろ、もうやめてくれ、殺したくない!殺せない!死にたくない!死ねない!?」
脳裏の幻聴、或いはもう一つの自分による自己批判。それに対してジャックは錯乱した様を見せていた。そして思わず彼はサクスを落としてしまい、辺りに乾いた音を反響させた。彼の思考は最早、絵の具を全色混ぜ合わたかのように混沌と化していた。
「無様だな。薬がなければ、生死が懸かっていても敵を殺せないとは。哀れだよ、ここまで来ると」
ロクスレイは歩み寄る。クロスボウを握った右手が、虚空を眺めるジャックの頭に狙いを合わせている。
「だから、次は外さん。裏切り者には、死あるのみ」
「し、死にたく、ない、殺し、たく、ない……だが、生きる、には」
『そうして殺すんだろ?あいつもまた、ゴリアテやヘラのように』
錯乱する暗殺者の脳裏に、嘲笑う声が響く。傍らに落ちたサクスの刃に浮かぶは、もう一人の己の姿。赤と白の斑に血濡れた髑髏が、ナイフを翳して天を仰ぐ。
「俺、は、まだ」
『もういい、お前は俺の名を騙るに相応しくない。もう諦めていいから、死んで終わりにしちまおうぜ?』
「まだ、俺は……死にたく、ない」
『不毛な人生だな。いっそ割り切り続けるか、俺みたいに楽しめれば少しはラクになれただろうに。いや、俺に明け渡さなかったあの時点で、お前の運命はこんなザマに決まってたんだろうさ』
「不毛、だろうと、苦しかろうと……それしか、俺に、生きる道は」
銀の月の中、死神は嗤いを消して男を見つめる。先程まで震えていた男は、今やただ俯くだけだった。
『なら、お前はどうする?この快楽殺人鬼の業と記憶を写されたお前が、殺しを捨てて何を成す?』
「………俺、は………」
片膝を突き、俯きながら何か呟こうとしているジャックに向け、クロスボウを突き付けるロクスレイ。引き金に指を掛け、口を重々しく開く。
「さっきから何をごちゃごちゃと。本格的に気が狂ったらしいな。可哀想だ、人思いに殺してやろう」
そして、ロクスレイが指をゆっくりと押し込もうとした、その時だった。
「『俺達』は―――まだ死ねないッ!」
彼は最期の気力でもって落としたサクスを右手で瞬時に拾いつつ、左腕でクロスボウを上に押し退け、立ち上がる。
「何ィッ!?」
「生きて償うために―――俺はお前達を殺すんだ!」
『―――ハッ!漸く腹を括ったか。良いぜ、今はそういう事にしといてやるよ』
脳裏の死神が愉しそうに笑う中、ジャックはサクスをくるりと百八十度回して逆手に握り替える。そして、右腕を引いて駆け出しながら斜め左へと瞬時に突き出した。銀の軌跡が雨を裂いた、刹那の速業。ジャックはロクスレイの後方五メートル先まで駆け抜ける。
「―――去らばだ。ロクスレイ、ゴリアテ、ヘラ。お前達の死と数多の罪を背負い、俺は生きる―――生きてみせる。ここに誓おう。これが俺の、ただ生きる為だけに行う最後の殺しだ」
彼がそう呟いた時、ロクスレイは漸く己が喉元を斬られた事を認識する。何故なら―――血が喉元から溢れ、鋭い痛みが彼を襲い出したからだ。
「ぐふッ!?」
吐血し、よろめきだすロクスレイ。彼はそのまま橋から柵を越えて、川を流れる濁流へと飲まれた。落ちる瞬間、彼は標的だった男の名を呟いていた。
「もう俺は、切り裂きジャックの再来なんかじゃない。これからの俺はジャック―――ただの、名無しのジャックだ」
しかし、ジャックがそれを見届けることは無かった。ただ静かに、背を向けたまま刃を左斜め上から右斜め下に払って、外套の闇にサクスをしまう。静寂の中、髑髏の仮面を水滴が流れ落ちてゆく―――さながら涙の如く。
「…………終わった、か」
その言葉を発した直後、彼は地に倒れる。コンクリートを覆う水溜を、彼の血が赤黒く染めていく。全身を襲った脱力感の原因は、出血多量であった。
「ま……まだだ。今ここで、こんな所で……死ぬわけ、には」
彼は震える右手を伸ばす。何かを―――安息の光を求めてか。否、その先にあるのはただの街灯の光だ。だが、それでも彼は大地を掴み、這ってでも前に進む。そしてその手は柵を握りしめ、立ち上がる支えとした。
そのままよろよろと歩き出したが、されども数歩行ったところで地に片膝を突く。そこからゆっくりとまた立ち上がり、歩いては崩れ落ちる。男はそんな無様を繰り返していた。
やがて彼は、橋台にたどり着き、そこの石碑に背を預けてゆっくりと座り込んだ。そして感覚の鈍った右手で仮面を掴む。指先が右頬の窪みに隠されたスイッチを押し、ロックが外れた。赤く輝く髑髏の眼窩から輝きが消えた後、ジャックはそれを外して粗雑に地面に置く。
「いや、最早これまで………か。逃げだしたいがためだけに、同胞を殺したツケ、だな」
諦め気味に彼は語り出した。独り、夜闇の中で。
「ッ……ある意味、お似合いの結末だ。しかしこれでは、殺した奴らに地獄で会わせる顔がない。全く、俺はとんだ馬鹿者のようだ」
自虐的な笑いが込み上げ、暫しの間彼は痛みを堪えつつ苦笑していた。そんな中でふと、ジャックは空を見上げる。先程から変わらない暗雲に覆われ、涙を流している夜空を。人としてのその瞳は、厚い雲に隠された夜空に何を探すのか。
「雨………か。結局、月は見えないのか。最後ぐらい、ちゃんと拝ませて欲しかったが―――まあ、このほうが俺には相応しい終わり方だったか?」
ゆっくりと瞼が降りていく。彼の人生という名の劇は、今ここで終幕を迎えようとしていたその時だった―――静謐なる闇夜に足音が響いた。
「く―――組織の刺客、後詰めの四人目がいたとは、な。全く、用意周到な……っ、ことだな」
男は荒い息を何とか飲み込み、顔を上げる。橋の反対側に見えるは黒い傘と黒いドレス。そしてそんな黒ずくめの衣装に映える、燃えているが如き紅の瞳と雪原のように銀髪の少女。この世の者ではないような、そんな美の化身たる存在が暗闇から姿を現したのだ。
「その貴方の願い、私が叶えて差し上げましょうか?」
「誰だ、お前は……追手では、ないの、か?」
「心外ね、あんな物騒な人達と一緒にするなんて。寧ろ逆。貴方を助けて差し上げようと、通りすがった悪魔よ、私は」
予想外の返答に思わず身体を起こそうとして、彼は到来した激痛に悶える。少女はそんな中、優雅に言葉を続ける。
「私の名はリリシア・イシュタルテ。人の欲望を満たし、願望を実現してから奈落へと落として嗤う者―――なんて、ね。悪魔は悪魔でも、そんな酷い存在ではないわ。私は何時だって、人間の味方ですもの」
「悪魔が、何の、用だ―――死にかけの、俺に」
息も絶え絶えに質問を返すジャックを前に、悪魔の少女『リリシア』は純粋に不思議がるかのように首を傾げる―――左手を傘から出して、その掌で冷たい雨を受け止めながら。
「あら。さっき言ってたじゃない、月が見たいって。確かに不粋な天気よね。そうでしょ?」
「生憎の、雨だからな。こればかりは……どうにも、ならんさ」
「ふふっ………まあ見てなさい」
不敵に微笑んたリリシアは、傘を左手に持ち替えた後、右手の掌を天に向ける。魔法陣がそこに形成され、蒼い光の粒子―――大気に満ちた魔力が掌の上で渦を描いて収束し出す。
「―――暁に燃ゆる明星よ」
その粒子が一つの球体となりて、出来上がった魔力球が更に魔力を吸収し、徐々に膨らんでいく。
「―――巡り巡りて魔道へ堕つも、その威光は朽ちず、天を統べし主の名は不変なり。ならば天空に満ちた神代の理と、星を冠する女神の血において命ずる」
深き海のような色の水晶球が夜空に放たれ、紫紺の雲海を突き抜ける。
「―――さあ、我が祖の力を解放せよ。闇夜を照らし、万物に富と栄華を齎す我が寵愛、古から永久に続く輝きを愛しき子らに与えよ」
天空にて蒼き宝玉が弾けた瞬間、空を覆う暗雲にまさしく指輪のような穴が開く。円天の中央にて輝くは、白き満月。舞い散る蒼き魔力の粒子は、さながら雪の結晶―――六花の如く。紺色より黒かった夜空は、その余波で紺青色に照らされていた。
「どうかしら?」
傘を畳み、先程とは違う優しげな微笑を浮かべつつ、ジャックをじっと見つめる少女。その時、彼の中では全てが凍りついたかのように止まっていた。
「っ―――」
時間も、空間も、思わず飲んだ息も、心臓の鼓動でさえも停止したかのようにジャックは感じていた。
「―――あぁ。俺は、知らなかった。知らなかったんだ、星空が、こんなにも綺麗なものだった、とは」
一瞬が永遠の如く、永遠が一瞬の如く、まさに久遠にして刹那。その瞬間に目にした全てが、彼の脳裏に焼き付けられていく。蒼黒い空、白く輝く月と星、そして銀髪と紅い瞳が映える黒いドレスの少女。だが、そんな今の景色に重なってノイズが走る。そこに浮かんでいたモノは―――。
『あら、貴方も迷子なのね。同じよ、私もそうなの。帰る場所も、寄る辺も名も失った……から』
―――それは、男の中で消えずに残されていた古い記憶の断片。同じような星空の砂浜で、孤独を分かち合った誰かの声と温もり。
「いや、それとも……俺は、忘れていただけ、なのか」
そしてそれと重なるは、何処か懐かしい微笑を浮かべた少女。異境の女神を想起させる名を持つ悪魔―――リリシア・イシュタルテ。彼女とのこの一瞬の邂逅が、彼に暗殺者として造り変えられてから初めての『美』を感じさせていた。
「全てが、美しいな。やはり死ぬのが、惜しく………なってしまったな。もう一度、この景色を………」
全身の力が抜け、穏やかに死へと落ち行く暗殺者。それは永遠の眠りには見えないほど、希望に溢れた表情であった。
「貴方の願いはもう一つあったわね。そう、『生きたい』という生命が抱く根源的な欲求。それもちゃんと聞いていたわ、だから―――だから、死なせはしない」
少女はジャックの側に跪き、手を翳した。暖かな緑の光が掌に展開された魔法陣から降り注ぐ。そんな中でやがて空は白み出していく。夜明けを告げる雀の囀りが、何事も無かったかのように平穏の音色を辺りに響かせる。
朝の到来とともに、悪魔の少女は彼を魔術で浮かせて消え失せた。正に蜃気楼の如く、微かに香る夜の闇に溶け込むかのように。彼は誰時、長き夜は今明けたばかりだ。しかし―――紺青の夜に開かれし舞踏会は、まだ始まったばかりである。
2025.1.1 改訂。