【5】
保健室の戸を開けると、保健医の姿はなく、窓際のベッドで文司が眠っていた。
石森は自分と文司の鞄をベッドの脇の椅子に置いて、文司を揺り起こした。
「おい、樫塚」
不明瞭な呻きを上げて、文司が目を開けた。その目が虚空をさまよった後、石森の顔にひたりと焦点をあてて止まった。
「樫塚?」
まだ寝ぼけているのかと思い顔を覗き込むと、文司は虚ろな目で小さく言った。
「…………本」
「は?」
聞き返した石森に、文司はもう一度口を開く。
「本が……本を、見て……」
「本?何の本だよ?」
文司はやけにゆっくりと身を起こした。まるで、病人が気だるい体をやっと持ち上げるかのように。
石森は何か違和感を感じて、文司の全身を眺めた。目の前にいるのは確かに文司だ。いつもより相当青い顔をしているが、小学校の頃から知っている友人だ。周りからは気取っているのすかしているのと大人びた印象を持たれるが、本当は弱虫で甘ったれた所のある子供くさい奴だ。
だが今、虚ろな目で石森を見るその姿からは、どこか病的な雰囲気が漂ってくる。生気が感じられない。
そして、次に文司が口にした言葉に、石森はぞっと背筋を凍らせた。
「あたしの本を見て……」
無意識に後ずさった石森の足が椅子に当たり、上に乗っていた二人の鞄が床に落ちた。
ドサドサッと重たい音が静かな室内に響いた。石森はたまらなくなり、恐怖を打ち消すように大声で叫んだ。
「樫塚っ!!」
文司の体がビクンッと震えた。
「あ……?」
瞳を数度瞬かせて、次にはっきりと目を開けた時、病的な空気はかき消えて石森の知る文司に戻っていた。
「石森?」
たった今意識が戻ったかのように、きょとんと目を丸くする文司。
石森はほーっと息を吐いた。心臓がどくどく鳴っている。
「あ、もしかして、もう放課後?」
床に落ちている鞄を見つけて、文司が眉を下げる。よっこらせ、とベッドから降りる動きも普通で、先程のような気だるげな様子は見られない。一眠りしてすっきりしたのか、朝よりも元気に見える。顔色も、直前まで青白かったのが嘘のように血色が良くなっている。
「石森?」
何も言わずに立ち尽くす石森に、文司が怪訝な表情を向ける。
石森はごくりと唾を飲み込んでから、笑顔を浮かべて自然な態度を装った。
「おお。早く帰ろうぜ。気分はもういいのか?」
「うん。寝たらスッキリしたよ」
文司は照れくさそうにふにゃっと笑った。
その笑顔を見て、石森はさっきのは寝言だ。寝ぼけていただけだと自分に言い聞かせる。床に落ちている鞄を拾い上げて文司に手渡し、石森は「さぁ、帰るぞ」と無理矢理明るく言って戸口に向かった。
だから、背中の後ろで、文司が強ばった表情で右腕を擦ったことに気付かなかった。
***
調べてみる。と、味噌ラーメンをすすりながら大透が言ったので、稔はシナチクを飲み込んでから「あ?」と訊き返した。
「だから、竹原昌一って奴のことを」
大透は店の喧噪に負けないように少し声を大きくした。
両親が共働きだという大透に「ラーメン食っていこう」と誘われ、稔もどうせ帰っても一人なので学校近くのラーメン屋に入ったのだが、土曜の昼時はさすがに混んでいる。とは言っても、二時近くなってくると入ってくる客より席を立って帰る客の方が多くなっているが。
「調べてどうするんだよ」
稔が尋ねると、大透は煮卵を噛み潰しながら「だって」と言った。
「樫塚に取り憑いてんのは女だとしても、図書室に死んだ生徒の霊がいるのも事実だろ?」
大透は稔の表情を窺うようにチラッとこちらを見た。
稔は不承不承頷いた。大透は満足そうに微笑んだ。
「そいつが自分の名前を教えてきたってことは、俺らに何か訴えたいことがあるのかもしれねぇし。もしかしたら、図書室には呪われた本があって、あの日樫塚はそれを偶然手に取って女の霊に取り憑かれてしまった。図書室の霊は樫塚を救うために俺達に何かを知らせようとしている、とか」
「勝手にシナリオを作るなよ」
大透の豊かな想像力に呆れながらも、自分達に出来ることは確かに竹原昌一について調べることぐらいだと思う。
八年前。稔は兄の顔を思い浮かべた。八年前なら、稔の兄は中学一年で内大砂の生徒だった。竹原昌一の名を聞いたことがあるかもしれない。
しかし、兄にそんなことは聞けない。ようやくこの町に戻ってきて一緒に暮らせるようになった矢先に、図書室に出る霊の話題など持ち込めるはずがない。そもそも、八年前といえば兄は稔のことで一番大変な思いをしていた時期だ。あの頃のことを、兄に思い出させたくない。
「……どうやって調べるんだよ?」
尋ねると、大透はつゆを飲み干して得意そうな顔をした。
「そこはこの宮城大透にお任せあれ。将来は倉井の広報を受け持つ身だぞ。これくらいの情報を手に出来なくてどうする」
「誰が受け持てと言ったそんなもの!!」
樫塚の件が片付いたら、二度とこいつには近寄らないようにしよう。
稔はそう決意した。
***
淋しかった。
文司は辺りを見回した。誰もいない。淋しい。寂しい。
これは夢だと、ぼんやりと自覚した。
辺り一面、霧のようなもので覆われていた真っ白で何も見えない。
ひとりぼっちだ。夢の中だとわかっているのに、やけにリアルな寂しさは少しも減らなかった。
文司は真っ白な空間を手探りでさまよった。
誰か、誰かいないか。自分の淋しさをわかってくれる人がいないだろうか。淋しい。誰か。わかってくれる人がほしい。誰か。そばに来てほしい。一緒にいてほしい。ずっと。ずっと、寂しかった。誰か。誰か。彼だ。
ーー彼ダーー
彼だ。彼だ。彼こそは。
ずっと。見つけた。あの時に。運命だ。だから、ずっと一緒にーー
意識せずにぱっと目を開けた。文司は、自分が目を覚ましたことにしばらくの間気付かなかった。
薄明るい室内で仰向けに寝たまま、ぼんやりと天井を眺める。
どうしてか起き上がる気になれない。体が重い。ひどく疲れが溜まっている時のような感覚だ。ぐっすり眠ったはずだというのに、この倦怠感は何事だろう。
全身の疲れとはうらはらに、目はぱっちりと開いている。寝起き特有の夢の名残のような眠気は少しもない。妙な感じがした。
言いようのない違和感の源を探ろうと、だるく重い体に神経を集中させる。背中がざわざわした。
何だろう。天井を見つめたまま、文司は眉根を寄せた。何だろう。背中が気持ち悪い、気がする。
何かとても不快なものの上に横たわっているようだ。
馬鹿な。ここは間違いなく自分の部屋だ。自分のベッドだ。背中の下にあるのはただのシーツだ。シーツのはずだ。いや、違う。自分の背中とシーツの間に、もう一枚何かがある。何かを敷いて寝ている。背中の下だけじゃない。頭の下も足の下もてのひらもーー
ざわり。
手のひらに触れるその感触に、文司は一瞬で総毛立った。
手のひらの下、細い、糸のような、いや違う。糸などであるものか。
「……っひっ」
かすれた悲鳴を上げて飛び起きた文司は、そのままベッドから転がり降りて床に倒れ込んだ。はあっはあっと荒い息を吐く。涙が滲む。吐き気がこみ上げる。
震える手に力を込めて、文司は体勢を入れかえて床に尻餅を付いた。そのまま少し後ずさる。
目の前にあるのは見慣れた自分のベッドだった。半分以上床にずり落ちた布団。ゆるくへこんだ枕。寝乱れた青いシーツ。
それだけだ。いつもと何も変わりない。布団と枕とシーツ。
それだけだ。
だが、違う。それだけじゃなかった。自分の体の下にあったもの。自分の全身の下に敷きつめられていたもの。あれは、あれは。
細い大量の糸のような、だが糸などではない。あの生々しい感触。
あれは、確かに人間の髪の毛だった。