【6】
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とても浴室に入る気になれなくて、文司は部屋に戻るなり頭から布団を被った。
「石森は部活中だよな。師匠……は、携帯持ってないんだ。じゃあ、宮城」
震える手で番号を呼び出し、クラスメイトに電話をかける。とにかく、友達の声でも聞かないとやっていられない。
「なんだったんだよ、あれ……」
湯船に浮いていた小さな体。よく出来た人形——などではない。子供だ。それも、二歳か三歳くらいの、幼児。
幼児に取り憑かれるような心当たりはない。この家は元々、文司の祖父母が建てた家で、彼らが亡くなってから引っ越してきたのだ。幼児が住んでいたことなどない。
(あれ……? でも)
文司はふと思い出した。土砂降りの雨の中に見えた小さな影を。
(そうだ。殴られる直前、小さな子供の影を見て……)
その時、文司の耳にざああーと雨の音が聞こえた。
雨か、と何気なく思いかけて、はっと気がついた。
頭から布団を被っているのに、なんで雨の音がこんなにはっきり聞こえる?
雨の音はすぐ近くから聞こえていた。耳に押し当てた、携帯の中から。
ざああーと、呼び出し音の代わりに、雨の音が聞こえる。
「……っ!」
文司は携帯を耳から離して、咄嗟に枕の下に押し込んだ。
「……なんなんだよっ」
シーツに顔を押し付けて呻きながら、文司は明日は必ず学校に行くと心に決めた。
***
今日も雨が降りそうな曇り空だ。
校門に向かって歩きながら、町山は空をじっと見上げた。
雨は嫌いだ。
頭が痛くて、気分が悪くなる。
雨は、嫌いだ。雨さえ、降っていなければ。
「町山」
声をかけられて、空を見上げていた町山ははっと顔を前に向けた。校門の横に立っていた青年が、町山に向かって手を振っている。
「なんだお前、また来たのか」
町山は笑顔になって青年に駆け寄った。青年は手に持ったビニール傘で駆け寄ってきた町山の腰を軽く叩いた。そのお返しに、町山は彼の腹に軽く拳を入れる。
「卑怯だぞ、空手野郎」
「得物使う方が卑怯だろうが」
軽く小突きあってけたけた笑い合う。気の置けない友人同士のやりとりの後、町山は「何か用があったか?」と尋ねた。
「別に。俺のバイト先から駅に行く途中だからさ、つい。ちょうど終わる時間だし」
「お前、ちゃんと家庭教師できてるのか?」
「お前こそ。純真な中高生に余計なこと教えてねぇだろうな、コーチ様よぉ」
軽口を叩きながら、町山は青年と並び立って駅の方へ歩み出した。
「そういや上条」
「ん?」
「こないだの土砂降りの日、俺、家に帰ったらびしょ濡れだったんだけど、お前は大丈夫だったか?」
尋ねてから、町山は首を傾げた。
「ていうか、どこで別れたんだっけ? 途中までお前と一緒に帰っていたよな?」
親友の上条とは高校の時からの仲だ。小柄な上条は見かけによらず剛胆で、腕っ節は強いのに柔和な性格の町山はいつも尻を叩かれていた。
町山には時折ぼんやりしていて何をしていたか忘れてしまったり、いつの間にか時が過ぎていたりするという悪癖があるのだが、しっかり者の上条が「昨日は俺と一緒に帰っただろう? 忘れたのか?」などと逐一思い出させてくれるので大いに助かっていた。
特に、雨の日はついぼんやりしてしまう。
不意に寒気がして、町山はテーピングを巻いた手をさすった。指先が冷たい。
「お前、傘を持っていないから走って帰るって言って別れたろ。雨がひどくなってきたから。忘れたのかよ」
しょうがないな、とでも言いたげに上条が笑う。そうか、そうだったな。と町山は納得した。確かにそう言って走り出した記憶がある。
「しっかりしろよ」
「悪い悪い」
町山は照れ隠しに頭を掻いた。
「寒くなってきたな。早く帰ろう」
そう言うと、上条はちょっと首を傾げて町山の足下に目を落とした。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
上条はすっと目を細めて微笑んだ。
町山は、ふと何かに引っ張られたような気がして足下を見た。だが、そこには何もない。
「早く、帰ろう」
気のせいだ。一瞬だけの違和感をそう片付けて、町山は灰色の空を見上げた。




