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百物語〜霊感少年の憂鬱な日常〜  作者: 荒瀬ヤヒロ
第三話 「土の中」
41/67

【13】

 ***





 カッと見開かれた澱んだ目と目が合って、奈村は言いようのない激しい嫌悪感に身を捩った。


「離せっ!!」


 奈村は梨波を振り解こうと足で蹴る仕草をした。靴底で土ががしゃりっと音を立てた。ーーーいや、それは土ではなかった。


 小さな穴の底、大して深くもない穴には、大量の虫の死骸と何かの小さな骨がぎっしりと詰まっていた。


 奈村は靴底で潰れる乾いた感触に吐き気を覚えた。


 異常だ。生きている頃から、異常だった。


 奈村は、どうすれば良かった?優しく丁寧に接したせいでこんなことになってしまった。だが、生きていた頃、まだただの少女だった頃から、異常な人間だと罵って手酷く排除すれば良かったとは、今でもまだ思えない。

 でも、それなら一体、どうすれば良かったのだ。


 わからない。奈村には、わからなかった。


「奈村さんっ!」


 大透が奈村に駆け寄った。


「私はいい、みくりをっ……」


 奈村にみくりを渡されて、大透は戸惑いながらも気絶した少女を肩に担いだ。重みでよろよろしながら斜面を下ってきて、稔の隣に立ってみくりをそっと木の陰に座らせた。


「倉井、どうすれば……」


 不安そうに尋ねてくる。文司も稔の傍らに寄ってくる。木々がざわざわと音を立てる中で、奈村は自分の足を掴んで這い上がろうとしてくる少女を睨みつけていた。


 梨波はもう奈村しか見ていない。奈村を手に入れるまで、この執着は消えないのだろう。


 奈村は梨波を睨んだまま、稔達に向かって怒鳴った。


「みくりを連れて行ってくれ!!ここから……この霊から離してくれ!!」


 奈村は犠牲になるつもりだと、三人ともすぐに悟った。


「ーーー 駄目だっ!!」


 稔は叫んだ。


 駄目だ。奈村はおそらく、自分が死ねばそれで済むと思っている。

 だけど、稔は直観していた。


 死ぬだけでは、済まない。あの、土の中に引き込まれたら、死んでも永遠に救われない。


 あの穴の中は、すでにこの世にあっていい場所ではなくなっている。


 稔はなりふり構わず駆け出していた。斜面を登り、奈村の脇に手を差し入れ引っ張り上げようとした。


 奈村の腰まで這い上がっていた梨波が、目を剥いて稔を威嚇してきた。


(怖い)


 足が竦みそうになった。手も震えてしまいそうだ。

 だけど、ここで奈村を離したら、きっと、稔はもう二度とふつうの生活に戻れない。

 だって、あの穴の中は、生きてる人間が陥っていい場所ではない。

 あの中は、あれは、あれはーーー


「あなたっ!!」


 風が揺らす木々の音の合間に、女性の声が響き渡った。


「っ、潔子っ!?」


「あなた!!」


 奈村が信じられない表情で斜面を駆け上ってくる妻を見た。潔子は奈村を抱き締めて、自らの上半身で梨波の視線を遮った。

 形容しがたい不快な声がこだまして、梨波の怒りが膨れ上がった。


「どうして、ここに……」

「探していたのよ、あなたと、みくりを……こっちだ、って言われたような気がして……」


 潔子は奈村を抱き締めたまま、きっと梨波を睨み据えた。


「……私はもう、あんたなんか怖くないわ」


 潔子は梨波の顔の前に、自分の左手を突き出した。


「私が怖がったせいで、あんたをこんなにつけあがらせてしまったのね。でも、私はあんたなんかもう何も怖くない。この人とみくりを失うこと以上に怖いことなんかないわ!!」


 奈村が出て行った後、潔子は自分に問いかけた。

 ずっと、怖くて怖くてたまらなかった。それでも、逃げ出さなかったのはどうしてだろう。


 答えは簡単だった。奈村とみくりを愛しているからだ。妻として、母として。


 そう、潔子は奈村の妻で、みくりの母だ。二人と幸せに暮らす権利がある。二人と何の関係もない、なんの権利もない霊などに、怯える必要などない。


「この人もみくりも!あんたなんかに渡すものですかっ!!」


 潔子が梨波の手に掴みかかり、奈村から引き剥がそうとした。

 見ていた男達はぎょっとした。大人しそうな潔子が、梨波を力ずくで引き離そうと歯を剥き出している。


「この人がいるべきは私とみくりの傍なの!!あんたにはっ、その穴の底がお似合いよっ!!」


 潔子が言い放つと、梨波が弾かれたように飛び退いた。


 奈村から手を離した梨波は、もはやとても少女と呼べぬ形相で、潔子を睨んだ。その口から出る言葉は、既に人の声ではない。

 稔は愕然とした。

 この子は、何になってしまったんだろう。


 梨波が吠えた。そして、斜面の下、木にもたれて眠るみくりの方へ、矛先を変えて飛びかかった。


「みくりっ!!」


 奈村が叫ぶ。が、


 みくりと梨波の間に、すっ、と、一人の老人が立った。


 小野森だ。


 梨波の体が、空中で磔になったように止まる。


 小野森の姿が音もなく消え、代わりに、いくつかの黒い小さな影が生まれた。


 稔は強く漂ってきた獣臭に眉をしかめた。

 ぐふっぐふぅ、と、獣の息遣いが聞こえる。


 黒い影達は、空中でもがく梨波の腕と足に飛びかかった。そして、その勢いのまま、梨波を引きずって穴の中に飛び込んだ。


 ぎゃおおおぉぉぉろおぉぉぉととぉぉろぉおおおおおおっっ


 おぞましい声が響いて、稔は思わず頭を抱えて耳を塞いだ。


 穴の中にわだかまっていた厭な空気が、ぐつぐつと煮えたぎって沸騰したように盛り上がった。

 それが見えたのは稔だけだったろうが、見えずとも異様な気配を感じたのか、全員が身を引いて後ずさった。


 厭な空気は弾けそうに膨れ上がった直後、急速に力を失ってしゅるしゅると萎んでいった。穴の底へと、吸い込まれていくように。


 稔は見ていた。その空気に巻き付かれ引きずり込まれていく、少女の姿を。


 指の先まで引き込まれて、見えなくなるまで。




 全てが穴の底へ引き込まれ、何もなくなるまで、誰も何も喋らずに立ち尽くしていた。

 そうして、穴の中の厭な空気が全て消えた後で、文司がへなへなと地面に膝をついた。大透も、どさりと尻から地面に着地した。稔は力なく立ち尽くし、奈村夫妻は抱き合って穴を見つめていた。


 気がつけば、空は薄明るくなっていた。





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