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百物語〜霊感少年の憂鬱な日常〜  作者: 荒瀬ヤヒロ
第三話 「土の中」
38/67

【10】

***




「おかあさん、おとうさんは?」


 風呂から上がったみくりが尋ねると、顔色の悪い母がふっと目を伏せた。


「……小野森さんのお宅よ。今日は遅くなるから、もう寝なさい」


 みくりは母の前に立ってじっと見上げる。母は娘と目を合わせようとしない。


「どうしてこんな夜中に小野森さんの家に行ったの?」


「……いいから、早く寝なさい」


「ねぇ、どうして?」


 みくりは目を見開いて、母親の顔を覗き込む。潔子は眉をしかめてみくりを見た。


「みくり、いい加減に……」


「ねぇ、どうして?どうして、おかあさんは、こんな家から逃げないの?」


 潔子は声を途切れさせた。みくりはこぼれそうなぐらい目を見開いて、潔子を見上げ続ける。その目に光が無いように見えて、潔子はぞくっとした。


「何を言っているの……?」

「だって、こんな娘がいるのに、どうして逃げ出さないの?」


 みくりは口の端を大きく持ち上げて笑みに似た表情を浮かべた。


「夜中に叫んで、暴れて、勝手に外に出て行ったり、おとうさんを人殺しって呼ぶような娘がいるのに、よく我慢できるね?」


 けっ、けっ、と、かすかにひきつったような音がする。それがみくりの喉の奥から聞こえる笑い声だと気づくなり、潔子は後ずさった。

 そして、同時に悟る。これは、みくりではない。


「ねえ、どうして、おとうさんとわたしを捨てないの?」


「……来ないで」


「ねえ、どうして、だって、おかあさんは結婚指輪もしていないのに、本当は、おとうさんのことそんなに好きじゃないんでしょう?だって、いつも怯えた顔をしているもん」


「それはっ……、」


 潔子は左手をぎゅっと握り締めた。目の前の、娘の姿をした「もの」を睨みつけた。


「おかあさん、出て行ってよ」


「やめて……」


「ねえ、おかあさん、おとうさんにはわたしがいるから」


「いやよっ……」

「出てけよ」


 不意に、みくりの顔から表情が消えた。


「出てけ、出てけ、出てけ出てけ出てけ出てけ出てけでてけでてけ出てけでて出てけででてでてけ出てけでてでてててけけ出てけけ出てててけ出ていけぇっ!!」


 突如、みくりがーーーみくりの姿をした「もの」が、潔子に飛びかかってきた。


 潔子は咄嗟に突き飛ばそうとしたが、恐怖で体が上手く動かなかった。みくりのような「もの」に髪を引っ張られ、床に引きずり倒される。上に乗ってきた「もの」から逃れようと、潔子は必死にもがいた。

 潔子の上に乗った「もの」ががぱりと口を開け、生臭く温もった土の匂いの息を吐き出す。

 潔子の首に手がかかった。子供の手の感触ではない。ざらついた、木の表面のようなごわごわした何かが、潔子の首を締め上げてくる。


「しねしねしねしねシネしねしねしねしねしねしね死ね死ね死ね死ね死ね」


 愉悦にまみれた声を聞かされながら、潔子の意識が遠のいていった。


 ぼんやりと霞む脳裏に、昔、言われた言葉がよみがえった。

 あの子が死んだ後、物音や気配に怯える潔子のために奈村が呼んだ霊能力者が、言っていた。


 霊は、意識すると近づいてきます。恐怖すると、霊は強くなります。気にしないことです。気にしなければ、霊は何も出来ません。


 そんなの無理だ。これほどの悪意を向けられて、恐怖を抱かずにいられる訳がない。潔子は怖かった。ずっとずっと、怖かった。


 それなのに、どうして自分は逃げ出さなかったのだろう。逃げればよかったのに。奈村も、みくりも捨てて、逃げ出せば。



「ーーー潔子っ!?」



 奈村の声がして、潔子の首にかかっていた強い力が弛んだ。大きく息を吸い込んで、潔子は咳き込んだ。


「潔子っ!しっかりしろ!!」


 奈村がみくりを突き飛ばし、倒れた潔子を助け起こした。


「潔子っ……」


 潔子は切れ切れに息を吐き出しながら、奈村の服をぎゅっと握り締めた。息を乱して泣く妻を腕に抱き、奈村はほっと肩の力を抜きかけた。

 だが、すぐにきっ、と目をつり上げ、みくりをーーーみくりに乗り移った悪霊を睨みつけた。


「私の妻と娘に手を出すなっ!!私は、お前を許さないぞっ!!」


 みくりの姿をした悪霊は、じとっと暗い目つきで奈村を睨み上げた。その目つきは、生前とまったく同じものだ。

 自分は悪くないのに、どうして自分を叱るんだ。どうして思い通りにならないんだ。と物語る、澱んだ目。

 激しい嫌悪を感じて、奈村は強く歯を噛みしめた。


「みくりから出て行けっ!!この家から出て行けっ!!」


 奈村が腹の底から怒鳴ると、悪霊は眦をぎりぎりとつり上げて憤怒の形相になった。

 そして、大きく後ろに飛びすさったかと思うと、ぱっと身を翻して家から駆け出て行った。


「待てっ……!!」


 縋りつく潔子を離して後を追いかけたが、奈村が家の外に出た時には既にみくりの姿は消えていた。


「みくり……っ」


 焦燥に駆られて、奈村は車庫に駆け込んだ。ズボンのポケットからキーを取り出し、エンジンをかける。暗い夜道をライトで照らして、車を走らせながらみくりの姿を探した。

 パジャマで裸足の女の子だ。こんな夜中に、遠くへ行ける訳がない。

 だが、辺り一体をいくら走り回っても、みくりの姿を見つけることは出来なかった。


「くそっ……っ!!」


 腹立ちのままにダッシュボードを殴りつける。

 その時、ライトの明かりの中に、探していたのとは違う見覚えのある姿が浮かび上がった。


 一瞬、見間違えかと思った。


 だが、静かに立ってこちらを見つめるその姿は、紛れもなく奈村の恩師のものだった。


「小野森議員っ……」


 驚愕する奈村の目の前で、小野森はすっと道の向こうを指し示した。そして、消えた。


 奈村は咄嗟にブレーキを踏んだ。そのまま、しばしハンドルを握り締めて茫然とする。


 真っ白な頭に、自分が後継者など恐れ多いと引き下がろうとした奈村を叱咤した小野森の言葉がよみがえる。


『お前は大変な悪意に晒されてもそれに潰されなかった。それは、お前が宮城さんのような「人」に恵まれていたからだ。それだけ恵まれておいて、市議ごときで恐れ多いなどと情けないことを言うな!今まで恵まれていたのだから、今度はお前が返すのだ』


 そうだ。お世話になった宮城社長や小野森に恩返しがしたくて、がむしゃらに頑張ってきた。それなのに、結局、小野森は自分のせいでーーー


 ばんっ


 不意に、フロントガラスを叩かれて、奈村はハッと我に返った。

 辺りに人の姿はない。


 奈村は、すーっと息を吸い込むと、意を決して小野森が指さした方へと車を走らせた。






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