【6】
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宿題を終わらせてしまったので暇だ。と、だらだらしていると、同じく暇を持て余している大透から「自由研究しようぜ!」という謎の電話がかかってきた。
「自由研究ってなんだよ?」
どうせオカルト的なことだろうと思いつつ、あまりに暇だったのでのこのこと出てきてしまった。待ち合わせた公園で何故か見知らぬ小学生に混じってアニメのカードファイトをしていた大透に声をかけると、ひらり、と何かのチケットを二枚取り出してニカッと笑う。
「魚類の生態研究」
「水族館?」
隣町にある小さな水族館のチケットだった。
「おやじが知り合いに貰ったんだって。樫塚も誘ったんだけど、あいつ、水族館苦手なんだってさ。なんか、大量の水がガラスを破って流れてくる想像しちゃうって言ってた。イケメンなので繊細なんだな」
オカルト的なことでもなく断る理由もないので、稔は大透と連れだって隣町に向かった。
稔達の住む緑城町より西、斗越町のバス停で降りて、寂れた水族館へ向かう。
「ここ、小学校の遠足で来たことあるわ」
「へー」
観光地の水族館のように巨大な水槽があるわけでもない、こぢんまりとした建物に足を踏み入れると、連休らしく親子連れの客が多くいた。その他はカップルばかりで、今更ながら男二人で水族館はどうなんだ、と思いつつ、なんだかんだで稔も久方ぶりの水族館を楽しんだ。
大透はパシャパシャ写メを撮っては文司に送りつけていた。
一通り順路を巡って、最後に大量のクラゲが泳ぐ細長い円柱型の水槽の前に立った。
「うお〜、クラゲ。宇宙を感じるなぁ」
「なんだそりゃ」
大透のよくわからない感想を笑い飛ばし、稔は水の中をふわふわ漂う半透明のクラゲ達を眺めた。
クラゲなんて、一匹だとただの気味の悪い生き物なのに、こうしてたくさん集められると、生き物というより一つの風景にしか見えなくなってくる。
「綺麗だなぁ……」
思わず呟いた。
その瞬間、
どぼぉっ
重い物が沈む音が耳にこだまして、目の前の水槽が茶色くなった。
いや、薄青く輝く水槽の中に、茶色の大きな塊が現れたのだ。
茶色のーーー顔が、こちらを見ていた。さんばらに水の中に広がる髪、黄色いTシャツとチェックのズボン、リボンの付いた赤いカチューシャ。逆さまになった女の子が、水槽の中から稔をじっと見上げてくる。女の子の体から何かが染み出し、水が茶色く染まっていく。
「っ……!!」
稔は後ずさり、段差を踏み外して尻餅を付いた。
「倉井!?」
稔は荒い呼吸を吐き出しながら、水槽をみつめた。青い水槽には大量のクラゲが漂うばかりで、女の子の姿などどこにもない。
「倉井?どうしたんだよ?」
「……悪い。出よう」
「え?うん……大丈夫か?」
心配する大透に言葉少なに返事をして、稔は水族館の出口へと足を向けた。
(いったい、何なんだ……?)
どうして自分につきまとうんだ、と稔は頭を抑えながら思った。
霊なんて、こちらから何かしない限りは関わってこないはずだ。稔には、何の関係もないのだから。
それなのに、あの女の子の霊はどうしてあんなにはっきり稔の前に姿を現すのだろう。
(俺には何も出来ないって言ってるのに……)
建物から出ると、明るい日差しが背中に降りかかってきて、稔はほっと息を吐いた。
太陽を浴びて初めて、体がずいぶん冷えていたことに気づいた。
「そこに座って、休んでから帰ろうか」
「ああ」
植え込みの傍のベンチに稔を座らせた大透が「なんか飲みもん買ってくる」と言って駆け出そうとした時、耳障りな金切り声が辺りの空気を切り裂いた。
稔と大透は驚いて、柵の向こうの道路に目をやった。
「いやああああーっ!!離せ離せ離せーっ!!」
「いい加減にしなさい!!」
泣き叫ぶ幼い女の子の腕を掴んで怒鳴る男性に、通行人が不審な目を向けて通り過ぎていく。
「え……奈村さん!?」
大透が柵に駆け寄って声をかけた。
「と、大透君?なんでここに……」
「奈村さん、何やってんですか?」
柵越しに会話をする二人だが、奈村の腕は暴れる娘を捕まえるのに必死で大透に答える余裕はなさそうだった。
遮二無二暴れているみくりは、少女とは思えぬ形相で父親を口汚く罵っている。
と、みくりの目が柵の向こうで呆然とする稔を捉えた。
途端に、鼻を突き刺すような生臭い土の匂いが辺りに充満した。
稔は咄嗟に口と鼻を抑えて呻いた。
「……おまえ、おっまえおまえおまえぇぇっ!!わかってるんだろうがあああわたし、わたしは、助けろ!!わたしは、被害者だぞぉぉっ」
みくりが、稔に向かって手を伸ばして叫んだ。恫喝するような言い方で、とても、助けを求める少女には見えなかった。
稔は口を抑えたまま愕然としてみくりを見た。
みくりの青いワンピースに、じわじわと黒い染みが広がっていく。その黒い染みがぼとりと地面に落ちた。泥の塊だ。
稔は後ずさった。あの泥は良くないものだ。本能的にそう感じた。
良くない。これ以上、あれに関わってはいけない。
稔は大透の肩を掴んで、逃げようとした。
だが、次の瞬間、がうがうがうっ、と、獣の吠え声がこだました。
土の匂いを塗り替える獣の匂い。
それが通り過ぎた。すると、みくりが「っがぐっ」と、妙な唸りをあげて、カッと目を見開いた。そして、首がガクッと横に折れた。
力を失った少女の体が、父親の腕の中にずるずると沈み込んでいった。
みくりが意識を失うと、辺りに充満していた土の匂いも獣の匂いも、嘘のように消えて、稔は大きく息を吸った。
「……大透君、すまないね。驚かせて」
奈村はみくりの体を抱え直すと、大透に会釈をして急いでその場から立ち去っていった。
「奈村さん、どうしたんだろう……」
みくりは明らかに異常な様子だった。
心配げに顔を曇らせる大透を見て、稔は溜め息を吐いた。
「あの子……、たぶん、取り憑かれてる。女の子の霊に」
稔はぼそぼそと告げた。
こんなこと言いたくはないが、稔一人で抱えきることも出来ない。大透はオカルトマニアではあるものの、これまでの付き合いで意外と常識と良識を持ち合わせていることはもう知っている。知り合いが取り憑かれていると知っても、はしゃいだりはすまい。
「女の子の霊?お前が、うちで見たやつ?」
「うん……俺の前にも現れるんだ。自分は殺されたって訴えてくる」
大透は眉をひそめて、奈村が去っていった道路を見つめた。
***
「すいません。ご迷惑を……」
奈村がみくりを抱えて戻ってくると、小野森は何も言わずに頷いてみせた。
小野森の家の和室で待っていた僧侶にも頭を下げる。不安そうな潔子が青い顔で奈村とみくりを見た。
お祓いがしたい、と相談した奈村に、小野森は知り合いの僧を紹介してくれたばかりでなく、自身の自宅の離れを貸してくれた。それなのに、お祓いが始まる前にみくりが逃げ出してしまったのだ。
「お嬢さんのせいではありません。お嬢さんに取り憑いているものが、嫌がっているのですよ」
老僧は温厚そうな顔に僅かに緊張を滲ませて言った。
「私にはその姿は見えませんが、何か強烈な執着のようなものを感じます」
奈村は僧の前の座布団にみくりを座らせ、後ろから体を支えた。僧は大きく息を吸い込むと読経を始める。
ほどなく、力を失っていたみくりの体がびくりと動いた。
首が、がくがくと揺れ出す。奈村は手に力を込めてみくりの肩を抑えた。
「……ぐ……ぁあ、ぇ…い……」
みくりの口から、少女とは思えぬ不気味な声が漏れる。
「ぐぇぇ……ぇぇぇえいぃ……ぇぇぐぇぇえぃいぃ」
声と共に吐き出される息が、泥臭い。奈村はぐっと顔をしかめた。
突然、みくりの腕ががっと伸ばされ、奈村の首が掴まれた。
「っ……」
爪が首に食い込み、痛みで思わずみくりから手を離した。すると、みくりはげっげっげっと、厭わしい笑い声を立てた。
かと思うと、ふっと悲しげな表情になり、しくしくと泣き始めた。
「どぉして、いじめるのぉ……?」
心細く、たよりない少女の声。だが、奈村はぞっと背筋を凍らせた。みくりの声ではない。
「私の娘から出て行けっ!!」
たまらず、奈村は叫んでいた。
「もう、私達に近寄るんじゃないっ!!消えろっ!!」
みくりは泣くのを止め、じとりと奈村を睨み上げた。
「……どぉして……どおしてよぉ……わたし、悪くないのにわたし、わたし悪くないのにわたしいじめられて、みなひどいことするのぉわたしわたしどぉしてわたしわたさいわたしわたしわたさないわたしわたさないわたさないわたさいわたしわたわたわしわあたしわわわわたしわたわたさわたわたしわたさないぃぃぃぃっ」
僧の読経を上回る声で、みくりがーーーみくりではないものが、吠えるように喋りだした。どこで息継ぎしているかもわからないぐらい、絶え間なく声を垂れ流す。
僧は声を張り上げるが、それは悲鳴のような声で読経を遮り続けた。
みくりの口から、涎がぼたぼたとこぼれる。虚ろな目がぶるぶると震え出し、それを見た僧は読経を止めた。
途端に、みくりはおとなしくなり、座布団の上に崩れ落ちる。
「……いけません。これ以上は、娘さんの体が持ちますまい」
舌を開いた口からだらりとはみ出させ、意識を失っているみくりを見下ろして、僧が苦渋の表情で告げる。
「申し訳ありません。私では手に負えぬようです」
「そんな……」
奈村は絶望の表情を浮かべた。潔子もその場に膝を突いて涙を流す。
「なんとかなりませんか……もうずっと、何年も苦しめられてきて……お祓いだってこの子が赤ん坊の頃にも何度も……」
「酷なことですが、娘さんは寺に預けられた方がよろしい。少しずつ、毎日経を唱えて執着を弱めるしかないでしょう」
「……そうですか」
僧の言葉に、奈村は目を閉じた。
どうしてこんなことになったのか。あの時、自分があの子に関わらなければ。
「……ごめんなぁ、みくり」
打ちひしがれる奈村の肩を、小野森が叩いた。
「しっかりせい。みくりを預けられる場所はわしが探してやる」
長年、政治に携わった小野森は、自身の後を継がせた若者を威厳のある声で叱咤した。
「死んでいる者より生きている者の方が強い。向こうは一人、みくりにはお前達両親がついている。心配するな」
奈村は涙を流しながら頷いた。




