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百物語〜霊感少年の憂鬱な日常〜  作者: 荒瀬ヤヒロ
第三話 「土の中」
33/67

【5】

 ***



 明日から空手部の練習があるという石森が昼前に一足先に帰り、その後は三人で大透の部屋でゲームをして遊び、五時頃に帰宅した。


「ふわぁ〜……」


 欠伸をしながら家の鍵を開け、薄暗い玄関に入る。あまりに非日常な豪邸から帰ってきたのでこぢんまりした自宅にほっとする。


 何はともあれ、宿題も片づいたし、残りの連休はゆっくり過ごそう。

 そんなことを考えながら居間に入り、ソファに荷物を下ろそうとした。


 その時、ふっと土の匂いが鼻先をかすめた。


「っ……」


 荷物を下ろしかけていた中途半端な体勢で、体が硬直した。

 どく、どく、と心臓が耳の奥で音を立てる。

 はあっ、と息を吐き出した。


 落ち着け落ち着け、と心の中で繰り返すが、土の匂いはより強くなり居間に充満した。昼間に嗅いだ、じめっとした嫌な臭いだ。


 とにかく、居間から出よう。


 そう考えた次の瞬間、稔は背筋を凍らせた。


 足首に、誰かの手が巻き付いてくる。


 稔の両の足首を、小さな手がぎゅううと握り締めてくる。


 はっ、はっ、と短く息を吐き出して、稔はそろそろと視線を下に落とした。


 フローリングの床から、細い腕が生え出て稔の足首を掴んでいる。腕だけではない。稔の両足の前の床に、少女の顔が、鼻の頭のところまで現れている。床から生えているように。

 黒く開いた目が、じっとりと稔を見上げているのがわかった。


 稔は凍り付いた首を必死に動かして上を向いた。目を合わせてはいけない。


 物が腐ったような土の匂いが強くなって、口に空気を入れるのも嫌になる。吐きそうだ。


 涙が滲み、汗が頬を伝って流れた。


 うわん、と羽虫が飛び回るような音がしたと思ったが、その音は、うわんうわんと繰り返すうちに、人の声だとわかるようになった。


 こ……された ころされた うめられた たすけて ころされたうめらころされわたしわたしころされたわたしわたうめられてころされたころされたころされた


 稔は息を止め目を瞑った。聞いてはいけない。これは、聞いてはいけない声だ。


(俺には何も出来ない……どっか行ってくれ)


 必死に念じる。

 土の匂いで息が詰まる。苦しくて頭がガンガン鳴った。


 見ないように聞かないように、耐えながら歯を食い縛るが、足首をさらに強く握り締められて思わず声が漏れた。

 力がどんどん強くなり、骨まで痛み出す。足ががくがく震えだして、立っているのが辛くなる。

 限界だ、と、ぎゅっと瞑った目から涙がこぼれ落ちた。


 その時、


「ただいまー」


 玄関から聞こえた兄の声に、一瞬で居間の空気が霧散した。


 土の匂いが消え、足首にかかっていた圧力が消え、一気に息を吐き出した。

 倒れ込みそうになるのを、ソファを掴んで耐えた。


「お。何やってんだ、稔」


 傾いた体勢で立ち尽くしている稔をみつけて、兄が首を傾げながら居間に入ってくる。


「どうかしたのか?」


「……なんでもないよ」


 息を整えて、どうにか応えた。兄の翔は「そうか」と言って台所に入り、蛇口を捻って水を飲んでいる。


 稔はソファから手を離してはーっと息を吐いた。それから、片手で額を押さえる。


(……家に入ってこられた)


 台所にいる兄の様子をちらりと窺う。家に入ってこられるのだけはいけない。兄と父にはもう、霊など関わらせる訳にはいかないのだ。


(俺には何も出来ないから、近寄ってくるな!)


 稔は力強くそう念じた。





 ***




 寝る時間になっても、みくりは腹を立てたままだった。

 助けを求めたのに、あいつらはみくりを見捨てた。なんて連中だ。

 宮城の息子は幼い頃から幾度かみくりと顔を合わせていたのに、いくら訴えても聞く耳を持たず冷たくみくりを追い返した。許せない。


「どうして、私を助けないのよ!私、こんなに可哀想なのに!」


 みくりはベッドに座って枕を殴りつけた。


「あいつら、絶対に私に協力させてやるから」


 ぼやきながら布団に入り、みくりは目を閉じた。

 枕に顔を押しつけて、うつ伏せになる。背中にかかる掛け布団が、ぞろりと動いた。

 ぐ、ぐ、ぐ、と、背中に重みがかかる。布団が重い。毎日重くなっていく気がする。

 なんだか不快な振動がして、みくりは入眠寸前のうつつの状態で眉をしかめた。

 ゆら、ゆら、と、頭が揺らされる。くぐもった声で呻いた。やめて、と呟くが、不明瞭な呻きにしかならない。

 閉じているはずの瞼の裏に、何故か自室の窓が映った。窓の外に、女の子がいる。窓ガラスに両手をついて、みくりを睨んでいる。

 そんなはずはない。窓にはカーテンが掛かっているはずだ。それに、みくりの部屋は二階だ。

 目を開けて、確認すればいい。

 だけど、眠くて目を開けられない。

 女の子が、腕を振り上げて何かを投げつけてきた。

 べしゃり、と、黒い塊が床に叩きつけられる。濡れた土の匂いがぶわっと空気に混ざった。

 女の子は次々に塊を投げつけてくる。窓ガラスは割れていないのに、窓の向こうから投げつけられる塊が床に積もっていって山になる。

 やがて、投げるのを止めると、女の子の姿が消えた。

 女の子が消えるのと同時に、床の黒い塊がうぞうぞと動き出した。塊のてっぺんから、黒い細かな塊がぼろぼろと床にこぼれ落ちる。まるで、虫が噴き出しているようだ。みくりは首を振った。いやだ。こっちに来ないで。

 誰か。誰か来て。お母さん。お父さん。

 みくりは助けを求めて手を動かした。シーツの上を這う手が、ずぶり、と何かに突き刺さった。冷やりとした感触。右手にぐちゃぐちゃした何かが絡みついた。


「……っきゃああわあああああああーっ!!」


 絶叫をあげて跳ね起きて、ベッドの横に転がり落ちた。どすんっと音がして、膝を強く打った。だが、痛みよりも恐怖の方が大きくて、みくりはぎゃあぎゃあと泣き叫んで床の上をのたうち回った。


「みくり!?」


 父と母が飛び込んできて、みくりを助け起こした。


「うああああっうああああっ!!」

「みくり!しっかりしろ!」


 よだれを吐き散らして暴れるみくりを抑えつけ、奈村が叫ぶ。みくりが奈村の肩を強く掴み、爪が食い込んで皮膚を削り取る。痛みに顔を歪めながらも、奈村はみくりを抱き上げて部屋から運び出した。潔子も後ろから付いてくる。

 叫ぶのを止めたみくりは、力を失ってだらりと奈村の腕にぶら下がっているだけだ。


「あなた……」


 潔子が涙を流して言った。


「お祓いしましょう……お願い、私、もうこんなの耐えられないわ」

「……ああ。わかった」


 奈村は唇を噛んだ。どうして、自分達がこんな目に遭わされなくてはならないのか。

 何もしなかったのに。あの子は、ただ勝手に死んだだけだ。奈村には何も関係がないのに。


「……いつまで、つきまとうつもりなんだ……?」


 気を失ったみくりを今のソファに寝かせ、奈村は妻の肩を抱いて吐き捨てた。





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