【2】
「なーなー、倉井ー。俺ん家に泊まりに来いよー。一晩一緒に過ごそうぜー」
「嫌だ」
「そんなこと言わずに。「観たら呪われる」って噂のホラー映画一緒に観ようぜ」
「断固拒否する」
朝っぱらからなんつー会話なんだと自分で自分に呆れながら、稔は教室の戸を開けた。
「おはよー……」
挨拶が思わず尻すぼみになった。
「あ、おはよう。倉井、宮城」
黒板の前に立っていた文司がさわやかに笑う。とびきりの美形のさわやかな笑顔というこれ以上ない出迎えなのだが、彼の姿を目にした途端、稔は軽く絶望に近い落胆で思わず鞄を取り落としそうになった。
「昨日は大丈夫だったか?倉井、慌てて帰っちまったけど」
そんな風に声をかけてくる文司の右腕を、肘から先しかない青白い手がしっかりと掴んでいた。
(冗談だろ……)
稔は思わず頭を抱えた。それが自分にしか見えていないということは周りの態度から一目瞭然だ。当の文司も自分の腕にそんなものがくっついているとは夢にも思っていないだろう。だが、稔には嫌になるくらいはっきりと見える。青白い、手。
(あっさり取り憑かれてんじゃねぇよ!)
心の中で文司を罵りつつ、稔はよろけながら席に着いた。
(何を連れてきたんだか知らないけれど)
斜め前の席で授業を受ける文司の背中を見つめながら、稔は思った。
(俺には関係ないからな。ほっとこう)
白い手は文司の右腕をしっかりと掴んだまま、離れる気配はない。顔も体もない。手だけがつきまとっているというのが余計に不気味である。
(願わくば、何も起こりませんように……)
稔はそう願った。
その日は一日何もなかった。
文司はいつもと同じように過ごしていたし、当然、稔の他に白い手の存在に気付く者はいなかった。
だが、その翌日、登校してきた稔は文司の姿を一目見るなり心の中で叫んだ。
(増えてるぅぅぅっ!)
白い手がもう一本、今度は文司の左腕をしっかりと掴んでいた。
(髪の毛かき上げてカッコつけてる場合じゃねぇだろ!増やすなそんなもの!)
両腕に得体の知れない手をぶら下げて石森と談笑している文司に、稔は心の底で突っ込みを入れた。それと同時に、このまま日毎に一本づつ増えていったらどうしよう、という怖い想像が頭の中を駆け巡る。人間の手は二本だけ、という常識が幽霊にも通じるかはわからない。生きている人間なら、一人につき右手と左手の二本だけ……
「ーーー」
ふと、あることに思い至って、稔は文司を見た。
(あれは……いや、もしかして……)
確かめるように、稔は自分の右手を捻ってみる。
(やっぱりそうだ)
稔は自分の手のひらをじっと見た。
「……何やってんの?倉井」
いつの間にやってきたのか、隣に立っていた大透が尋ねた。それには答えず、稔は大透に向かって問い返した。
「宮城、図書室に出る霊って、一人だけか?」
「あ?さあ。俺も石森に初めて聞いたから……」
大透は面食らった顔をした。稔が自分から霊の話題を振ったのは、これが初めてだった。
(両方、右手だ)
文司の腕を掴んでいる白い手は二本とも右手だ。そりゃ、幽霊に右も左も物理法則も人体の神秘も関係ないかもしれないが、稔は何かひっかかりを覚えた。
(まさか、二体の霊に取り憑かれてるなんて言わねぇよな?)
心中で暗澹たる想像をする稔の様子を見て、大透がキラキラしながら鞄からデジカメを取り出した。
「なあ!何か見たのか?図書室で?いつ?」
矢継ぎ早に質問を繰り出してくる大透に稔がなんでもねぇよと言う前に、「こらぁっ」と太い声が落ちてきた。
「なんだこれは?」
壮年の男性教諭が大透の手からデジカメを取り上げた。
「か、勝俣先生……なぜここに?」
学校一の古株で学校一厳しいと言われている数学教師の登場に、さすがの大透もひきつった表情になる。
「林先生が急病で欠勤でな。今日は副担任のわしがホームルームをやる。それで、学校に何を持ってきているんだお前は」
「何をって言われますと、デジタルビデオカメラ略してデジカメちなみにPanasonic製……」
「そんなことは聞いとらん!没収だ!放課後返してやるから職員室まで来なさい!」
勝俣は取り上げたデジカメを持って教室から出ていってしまった。
「そんな~……」
「当たり前だろ。うちの学校は携帯の持ち込みも禁止なんだぞ」
「ちくしょ~油断した~……」
机に突っ伏して嘆く大透に、稔は呆れた声を出す。
「これに懲りたら持ってくるなよ」
「いや!俺には倉井の勇姿を記録する義務がある!撮り貯めた映像を編集してYoutubeにUPするんだ!そんでゆくゆくはサイトを開設して倉井を有名な霊能力者にするのが俺の人生の目標なんだ!」
「お前の人生の目標、肖像権の侵害すぎるだろ!」
もしかしたら、文司に取り憑く二本の腕以上に厄介なものに取り憑かれてしまっているのかもしれないと、我が身を案じて稔は頭を抱えた。
放課後、大透がデジカメを取り返しに行くのに付き合わされ、稔は職員室に向かった。
「もう持ってくるなよ」
「それはお約束致しかねます」
「お前なぁ……」
あくまで正直な大透の態度に、勝俣が肩をすくめる。
「ま、それなら教師に見つからないようにすることだな」
稔も大透もおや、と思った。勝俣先生といえば今は滅びた謹厳実直な教師の生き残りと言われているのだが、案外話の通じる一面があるのかもしれない。
「そうだ!勝俣先生って十年以上この学校にいますよね?」
大透が身を乗り出した。
「八年前の事故って覚えてます?」
「八年前……?」
勝俣の顔が怪訝に歪められた。
「まさかお前達、図書室に霊が出るなんてしょうもない噂を信じてるんじゃないだろうな」
信じるも信じないも生徒の一人が腕を掴まれているのだが、もちろん勝俣はそんなこと知る由もない。
「確かに、八年前に図書室で亡くなった生徒がいるのは事実だ。だが、噂は勝手に一人歩きした根も葉もないものだぞ。くだらないことを話すのはやめなさい」
「えー、でも、火のないところに煙は立たないって言うじゃないですか」
大透が食い下がると、勝俣は難しい顔で腕を組み直した。その態度に、稔はこの話題は止めた方がいいと悟って大透の袖を引いた。
「おい、やめろって」
だが、大透は引き下がらない。
「誰か見た人がいるんでしょう?」
大透が重ねて尋ねると、勝俣は深く溜め息を吐いて話し出した。
「……いいか。噂では本棚が倒れて生徒が亡くなったということになっているが、実際は違う」
「違うんですか?」
「ああ。図書室で倒れている生徒達を見つけた時、本は何冊か散らばっていたが、棚は倒れちゃいなかった。そもそもうちの本棚はしっかり耐震措置が施してある」
「じゃあ、なんで?」
勝俣は沈痛な表情で目を閉じた。
「わからん。一応は心臓発作ということになったが……亡くなった生徒は大人しく本が好きな子だったが、健康には何の問題もなかった。その直後に蔵書を大量に処分したんで、それで本棚がどうのという噂が立ったんだろう」
「え?ってことは、今よりも本があったっていうことですか?」
勝俣の言葉に、大透が声を上げた。
「そうさ。昔は今より大きい図書室だった。本を減らした時に、余ったスペースに間仕切りを作って、倉庫にしてしまったんだ」
今でも充分頭痛がしそうなほどの量があるのに、あれ以上本が多かったなんて……
稔と大透は同時に同じことを思った。
「昔の人って読書家ね……」
「とにかく、くだらん噂をするのは止めなさい」
ぴしゃりと言い放って、勝俣はこちらに背を向けた。稔は大透の手を引っ張って職員室を後にした。
「お、樫塚だ」
廊下の窓から校門をくぐる文司の姿を見つけ、大透がデジカメを構える。
「うーん、絵になるねぇ。夕日と少年。樫塚って本当にイケメンだよな」
確かに、遠目に見るその姿は映画のワンシーンのようだった。両腕に付いている肘から先の二本の手さえ見えなければ。
「顔いいし、背高いし、頭いいし。男子校なんかに入らなきゃモッテモテだったろうにな」
「そうだな」
それにしても、あの日図書室に入った四人の中で、文司だけが取り憑かれたのは何故だろう。稔と大透はさっさと退出したから無事だったのかもしれないが、石森は文司とともに行動したはずだ。だが、石森には霊が取り憑いているような気配はない。
(まさか、美形だから霊にもモテてるって訳でもないだろうに)
そもそもここは男子校で幽霊も男子生徒だ。
(まあ……俺には関係ないけど)
稔は遠ざかっていく文司の背中からすっと目を逸らした。
***
何か、何か不快な夢を見たような気がして、文司は目を覚ました。
枕元に置いた時計を見ると、三時少し前だった。文司はふうと息を吐いて寝返りを打った。なんだか体がだるい。特に右腕が。
自分がやけに汗をかいていることに気付き、文司は額に手を当てた。じっとりと汗が滲んでいるが、熱がある訳ではない。パジャマの背中がじっとりと濡れているが、まだそれほど汗をかくような季節ではないはずだ。喉も渇いている。まるで熱帯夜に目が覚めた時のような不快感に、文司は眉をひそめた。まだ四月の半ばだというのに。
不思議に思いながらも重い体を起こすと、手探りで壁のスイッチを探す。ぱっと室内が明るくなると、暗闇に慣れた目が痛んだ。
目を擦りながらベッドから降りると、床に置いた通学用鞄に足が当たった。ばさっと何かが倒れる音がした。
視線を床に落とした文司は、そこに一冊の本が落ちているのに目を留めて、屈み込んでそれを拾い上げた。
大判の赤い表紙。まだ寝ぼけている頭でこんな本を持っていただろうかと首を捻る。タイトルは英語だ。
(マザーグース……?)
その瞬間、文司ははっきり目を覚ました。同時に、持っていた本を取り落とす。
ばさっと音と立てて床に広がった本から二、三歩後ずさって離れる。
なぜ、この本がここにあるのだ。
一昨日、図書室の倉庫で見た本だ。マザーグースの絵本。それが何故文司の部屋にあるのだろう。
(間違えて持ってきた……?いや、そんなはずはない)
持ってきていたとしたら、もっと早くに気付くはずだ。こんな大きな本、鞄に入れていたとしたら教科書を入れ換えるときにいやでも気付く。ならば、何故。
「痛っ!」
突然、右腕に鋭い痛みが走って、文司は顔を歪めた。まるで誰かにぎゅっと握り潰されたような痛みだった。そう、誰かに。手の感触まではっきりわかるような。
額から汗が噴き出した。心臓が耳の奥で早打つ。床に落ちた本から視線を逸らせない。目覚まし時計のカッチカッチという秒針の音が静寂に響く。
右腕の痛みが徐々に収まってくると、文司は意を決して床に落ちた本を拾い上げた。そして、扉に駆け寄って本を廊下に放り出した。すぐに扉を閉めて体でバリケードを作るようにもたれ掛かる。朝までとはいえ自分の部屋にあの本を置いておくのは嫌だった。
(明日、図書室に戻せばいいんだ。石森に付き合ってもらおう。大丈夫。ちゃんと戻せば大丈夫さ)
自分に言い聞かせて、文司はのろのろとベッドに戻った。横になっても体は緊張したままで、ようやく浅い眠りにつけたのは空が白み始めた頃だった。
いくらも眠らないうちに目覚まし時計に叩き起こされて、文司はくぐもった呻き声を上げて体を起こした。変に緊張して眠ったせいか、節々が鈍く痛む。
ベッドから抜け出してすぐに、文司は部屋の扉を細く開けてそっと廊下の様子を窺った。朝日の射し込む廊下には、何も落ちていない。
廊下に出て辺りを見回してみるが、数時間前に放り出したはずの本の姿がどこにも見えなかった。
(夢……だったのか……?)
信じ難い思いで部屋に戻った文司は、あれは夢だったのかもしれないという考えを強くしていった。冷静に考えれば、図書室の本が自分の部屋にあるわけがない。
(そうだ。きっと夢だったんだ……)
ほっと息を吐いて、文司は思わず頬を緩めた。馬鹿馬鹿しい。妙にリアルな夢を見てしまっただけだ。
気を取り直して、着替えようとパジャマを脱ぎ捨てた文司は、シャツを取ろうと手を伸ばしてギクリと身を硬めた。
右腕の肘の辺りに、青黒い痣が出来ている。不規則に点々と、五つの丸い痣が。
急激に背筋が冷えた。眠る前にはこんな痣はなかった。こんな、ちょうど人に強く握られたかのような痣は。
夢の中で、右腕が痛んだことを思い出した。
(夢じゃなかったのか……?)
だとしたら、何故本は無くなっているのだ?夢だったのか、夢じゃなかったのか。
(一体、何が起こっているんだ……?)
混乱する文司をあざ笑うかのように、窓の外でカラスがけたたましい声で鳴いた。