【6】
壁に貼り付けられているはずの鏡が、まるで意思を持ったようにガタガタと揺れていた。
その鏡から、細く小さい手が何十本も生え出ていて、少年の腕を掴んでいた。
「倉井っ」
鏡に引きずり込まれそうになっている高遠のもう片方の腕を掴んでいた大透が声を上げる。その大透の腰に手をまわして、文司が踏ん張っている。少年が振り向いた。稔と目が合った。
「高遠……信行だな……」
稔が言うと、高遠は大きく目を見開いた。
「どうして……」
「倉井っ!どうにかしてくれよっ。はりきって来てみたらこんな状況で……こんなすげー場面なのにカメラまわす余裕もねぇ!」
大透が肩に掛けたデジカメを目で指して言う。そういう問題ではないと思うが。
「いいか。高遠、よく聞けっ」
大透と一緒に高遠の腕を引っ張りながら、稔は叫んだ。
「お前の憎しみが連中を呼び寄せたんだっ!鏡に向かって帰ってくれと頼めっ」
だが、高遠は恐怖に歪んだ表情で鏡から目を逸らしている。
「その鏡の中に何が見えてるのか知らないけど、それはお前が呼んだものだ!お前が、そこにいてほしいと、無意識のうちに望んだものなんだっ」
(僕が、望んだ?)
高遠には、何を言われているのかわからなかった。いったい誰がこんな恐ろしいことを望むというのか。
だが、稔はさらに言い募る。
「庭に餌を撒けば鳥が集まるだろ!お前がやったのはそれと同じことだっ。ここでいつも憎しみを振りまいていたっ、それにつられて奴らが集まって来たんだっ」
(……憎しみ)
高遠は、鬼のような形相で鏡を見ていた自分の姿を思い出した。
では、一連の出来事は、すべて自分が引き起こしたことなのだろうか。
(じゃあ、新井も、久我下も、藤蒔も、僕のせいで……?)
ズズッ
「うわあっ!」
急に強く引っ張られ、稔達は声を上げた。高遠の腕が、十センチほど鏡の中に沈む。
「高遠っ!しっかりしろよっ!」
だが、高遠はうなだれたまま、顔を上げようとしない。じりじりと右腕が鏡に引き込まれていくのに、それに抗う様子も見せない。
「おいっ!」
稔の呼びかけに、ほんのわずかに顔を上げ、うつろな目で稔を見た。
「……いい……よ、放してくれて……」
「なっ……」
稔は絶句した。高遠は自嘲の笑みを浮かべ、視線を床に落とした。
(……僕のせいで、ここに霊が集まった。僕のせいで、三人も大怪我をした)
「僕は……責任を取らなくては」
高遠の声は、先程までとはうって変わって静かな強さを持っており、そこにある種の覚悟が感じ取れた。
「ふざ……けんなっ」
高遠の右腕は、すでに肩まで鏡に引き込まれてしまっている。渾身の力で高遠の左腕を引っ張りながら、稔は呻いた。
「ここまでやっておいて……楽な方に逃げるんじゃねぇ」
「……楽?」
稔の言葉に、高遠はぴくっと肩を震わせる。
「そうだろ。お前はさ、鏡の中にいるものに、帰れというのが怖いんだ。もしここで助かってしまったら、あの三人に会わなきゃいけないから……それが嫌なんだろ?怖いんだろ?だから、逃げようとしてるんだ」
高遠の心臓が、どくんっと跳ね上がった。
「違う。僕は、そんなことは……」
否定しようとした言葉が、途中で止まった。どこかで、もう一人の自分が稔の言葉を素直に受け入れた。そうだ。怖いのだ。と、その自分が言う。
自分の憎しみが呼び寄せたものを見据えるのが。ここで助かってしまうのが。怪我をした三人に向き合うのが。
怖いのだ。
三人の姿を見るたび、思い出すたびに、自分のやったことと向き合わなければならないことが。自分の罪を、抱えて生きるのが。
「俺も、倉井の意見に一票だな」
大透が言う。
「高遠さん、あんた、こういう形で終わらせちゃいけないよ」
「俺も……師匠に賛成。楽な道が正しい道とは限らない。もし、俺が藤蒔だったら、こんな責任の取り方はしてほしくない」
文司も苦しそうに言う。大透も文司も、真っ赤な顔をして、汗をだくだく流している。二人とも、限界が近いらしく、足がガクガク震えている。かくいう稔も、腕の筋が切れそうなほど痛い。これ以上はとても踏ん張れそうになかった。
「これで最後だ。どっちか選べ。逃げるのか、それとも……」
稔の言葉は途中から呻き声に変わった。じりじり、じりじりと、四人は鏡に引き寄せられていく。
(だめだ、もう、抑えてられない……っ)
稔は、最悪の事態を覚悟した。高遠が鏡の中に引きずり込まれて、はたして霊達はそれで満足して帰ってくれるだろうか。行きがけの駄賃に他の三人まで引きずり込まれてしまう可能性も十分にある。
(くそっ。やっぱり来るんじゃなかった)
稔は心の底から後悔した。
「……帰って……ください……」
細い声がした。顔を上げた稔は、高遠が目の前の鏡をまっすぐに見据えて唇を震わせているのを目にした。
「僕は、そっちに行きたくない。ここで、やらなきゃいけないことがある」
高遠の言葉に、徐々に力がこもっていく。
「僕は、ここに残って、自分のやったことと向き合わなきゃいけない。だから、もう、帰ってくださいっ!」
動きが、止まった。高遠を引き込もうとしていた力が、不意に解かれた。
「僕には、もう、あなたたちは必要ないっ!」
高遠はまなざしに力を込め、睨むように鏡を見据えた。
「だから、帰ってくださいっ!」
叫んだ瞬間、バーンッと、何かが弾けるような音がして、目の眩むような閃光がほとばしった。
「うあっ!」
同時に、何かがぶつかってきたような衝撃があって、稔達はトイレの壁に叩きつけられた。
それから、甲高い哄笑が辺りに響いたのを、確かに全員が耳にした。
それがおさまった時、目を開けた稔は、何ごともなかったように壁に張り付いてトイレの様子を映している鏡と、その前に呆然と立ち尽くす高遠の姿を目にした。
高遠は、その場にへなへなと崩れ落ちて、床に膝をついた。
その後、這う這うの体で家に帰った稔達は全員が一晩高熱を出した。
幽霊の毒気にあてられたものと思われる。
***
市立病院の前に、花束を抱えた高遠の姿がある。
先程から、玄関前の道路をうろうろしている彼を、通りすがりの人が不審そうに見ている。高遠は大きく溜め息を吐いた。
学校はさぼってしまった。昨夜の出来事を鮮明に覚えているうちに、ここに来なければならないと思ったから。
高遠は行ったり来たりする足を止めて目の前にそびえる病院を見上げた。
彼は一度深呼吸をしてから、ごくんと唾を飲み込んだ。
それから、何かを決意した表情で、病院の門をくぐった。
***
「今回は、すごかったですよねぇ。俺なんか、もうだめかと思いましたよ」
よろよろしながら登校してきた文司がそう言って弱弱しく笑う。同じく、怠い体を引きずって登校した稔は文司を睨みつけた。
「だから、行かなきゃよかったんだ」
「でも、行かなかったら高遠が鏡の中に引き込まれてましたよ」
それはいくらなんでも寝覚めが悪いでしょう、と文司が言う。稔は何も言えずに口を噤んだ。
「それにしても、昨日は熱が出て、今日もすごく体が怠いんですけど……あの水を飲めば元気になるんですかね?」
文司が青ざめながら尋ねてくる。稔はそれにも口を噤んで答えなかった。
「いや、前回あの水を飲まされた時にわかったんですけど、あれって飲んでる時は死ぬほど不味いですけど、飲み終えた後はすごく体が楽になるっていうか、気分がすっきりするじゃないですか。高遠に、飲ませた方がいいんじゃないかって思って」
「……紹介したら、俺達も絶対に飲まされるぞ」
稔が言うと、文司はぐっと黙り込んだ。
わかる。あの水はとても体にいい。それは確かだ。わかるけど、不味すぎて出来れば飲みたくない。
まあ、今回は一晩熱が出ただけで済んだのだし、飲まなくてもいいだろう。と自分に言い聞かせた。
「それより、宮城は休みか」
稔は大透の机をチラッと見た。まだ登校していない。
「熱下がらないんですかね」
文司が心配そうに言ったちょうどその時、楽しそうに跳ねるように歩いてきた大透が教室に入ってきた。そして稔を見つけると、昨夜あんな目に遭ったとは思えないほど軽やかなステップで駆け寄ってきて鞄の中からさっとデジカメを取り出した。
「見てくれよ倉井!今回はすごい映像が撮れたんだよっ」
大透は嫌がる稔に無理矢理デジカメの画像を見せた。
大透がトイレに駆け込んだ際の映像だ。高遠の向こう、鏡の中に映っているのが高遠ではなく、四歳ぐらいの小さい男の子だった。やたらとぼやけていて顔はよくわからないが、笑っているように見える。
「捨ててしまえ、そんな怖い映像!」
「何言ってんだよ。こういう映像を撮りためて、「霊能力者倉井稔の戦歴」として世界中に広めるんだろうが」
「誰がそんなこと望んだ!?俺は霊能力者じゃないし!ただ見えるだけで何もできないって言ってるだろ!」
「でも師匠、今回も高遠を救いましたよね?やはり師匠はすごいです」
文司がキラキラした目で稔を称える。
「救ってない!」
「救いましたよ。師匠の言葉に胸を打たれたからこそ、高遠も立ち向かう勇気を持ったんでしょう」
文司の言葉に、大透もうんうんと頷いている。
「俺も、樫塚も、高遠も、倉井に救われたんだ。倉井はもっと自信持てよ」
大透が稔の背中を叩いて朗らかに笑った。
「お前はすごい奴だよ。霊感があるからじゃなくて、倉井にはどうしうもなくて動けなくなっている奴を立ち上がらせる力があるんだよ」
稔はちょっと目を丸くして大透を見た。
オカルトマニアの大透は、稔の霊能力を評価しているだけなのかと思っていた。
「俺もそう思います」
文司も同意する。
「……おだてても、もうこんな真似はしないからな」
稔は頭をがりがり掻きながら口を尖らせた。なんだか面映ゆい。
「別におだててねぇよ。友達のいいところを言っただけ」
大透がそう言った。
(友達)
稔は目を瞬いた。
「あ、石森!朝練終わったのか」
「おう、おはよう」
「なあ、来週ひま?うちに遊びにこいよ。三人とも」
稔の周りが賑やかだ。いつも、霊を恐れて息をひそめるように生活していたのに、中学に入って以来、稔の周りには声が溢れている。
(友達、か)
稔は窓の外に目をやった。黒い影など一つも見えない青い空を見上げて、稔はふっと顔をほころばせた。
第二話 鏡の顔・完




