【5】
体育倉庫でタバコを吸っている。
鏡をみつけて覗き込む。
鏡の中から黒い手が出てくる。
前髪を掴まれる。
引っ張られて鏡を頭に打ちつけられる。
被服室の窓がひとりでに開く。
窓の正面にある大きな姿見から、黒い手が二本、ゆらゆらと這い出る。
窓辺にある植木鉢を、外へ外へと押し出す。
校舎の脇を歩いていた生徒の上に落ちる。
信号待ちをしている。
背後にある鏡張りの柱から、黒い手が伸びる。
背中を押される。
車道に倒れ込む。
階段の踊り場。
壁一面の大きな鏡から、黒い手が這い出してくる。
背中を押される。
階段の下へ落ちていく。
鏡を見ている。
何かが映っている。
自分の顔が映るはずの鏡に、自分ではない何かが映っている。
見てはいけない。
それを見てはいけない。だが、目を逸らすことが出来ない。
(いやだ!見たくない!)
鏡の中から、黒い手が這い出てくる。その手が、眼前に迫る。捕まる。捕まってしまう。動けない。目を逸らせない。いやだ。嫌だ。
(嫌だ!)
稔はハッと目を覚ました。視界に広がったのは鏡ではなく、白い天井だった。
「あ、起きた!」
「大丈夫ですか」
ほっとした様子の大透と、心配そうな顔の文司が覗き込んでくる。
「俺……?」
「階段から落ちたんだよ!頭打った?一瞬、気絶してなかったか?」
頭を押さえて半身を起こす。階段から落ちた稔が頭を打って気絶したように見えて、慌てて階段を駆け降りてきて声を掛けたらすぐに目を開けたと大透が説明した。
ということは、今見た夢はその短い一瞬で見たのか。夢——おそらくは現実に起きた光景を思い返して、稔は眉を曇らせた。
「起きれるか?保健室行こうぜ」
「大丈夫だ」
「でも、頭打っただろ」
「平気。どこも痛くねぇし」
そう言って、稔は立ち上がった。階段から落ちたにしてには、どこも痛くない。頭を打ったはずだが、やはり痛みはない。
それよりも、早く帰りたい。早く、この学校から出たかった。
だが、帰ろうとする稔を、大透と文司が二人がかりで止めようとする。
「保健室行くぞ」
「頭は怖いんですよ、打ったら」
一刻も早く帰りたい稔が二人と揉み合っていると、そこへ一人の教師が通りかかった。
「なにやってるんだ、お前ら」
きょろきょろと辺りを見回しながら現れたのは、養護教諭の山久だった。内大砂では数少ない女性教諭なのだが、見た目に構わない性質なのか、いつも洗いざらしのシャツとジーンズに白衣を羽織った格好だ。その上、常にぼーっとして眠そうな顔をしている。顔立ちはそれなりに整っているし、年齢もまだ三十代の妙齢の女性なのだが、背が高く喋り方も乱雑なため新入生の中には山久を男性だと誤解している者もいる。
「先生、いいところに」
大透が手招きして山久を呼ぶ。
「こいつ、階段から落ちて気絶したんだ。すぐに起きたけど。病院行かなくていい?」
「どれ」
背の高い山久は腰を屈めて稔の顔を覗き込んだ。
「めまいや吐き気はない?」
「ないです」
「痛いところは?」
「ないです」
「名前とクラスは?」
「一年柳組。倉井稔」
「ふむ。受け答えははっきりしてるし、大丈夫そうだけど。後からでも具合が悪くなったらすぐに病院に行ってね。一応、すぐには歩かないで。その辺に十分ぐらい座ってなさい。お前ら、見ててやって」
山久に命じられて、大透と文司が稔の両側から腕を掴んで、階段の一段目に座らせた。
「仲良しねぇ」
微笑ましそうに見下ろされて、稔は苦虫を噛み潰した表情をした。
「先生、誰か探してたんですか」
稔を抑えながら、大透が山久に尋ねる。
「ああ、うん。お前ら、誰か残っている生徒見なかったか?」
山久はがりがり頭を掻いた。
「今日も部活動は禁止で生徒は速やかに下校って言われましたよ」
校内での生徒の負傷が続いたために、安全点検のため部活動禁止になったと、石森がぼやいていた。彼は「体動かしてぇから走って帰る」と宣言して一足先に帰宅した。文司はついていけないのでそれを見送った。
「んー。高等部の生徒とか、見てないよな?」
「見てませんけど」
「いや、さっき教室を覗いたら鞄があったから、まだ校内にいるはずなんだけど……おかしいな」
山久は首を傾げた。
「なんか用があったんすか?」
「いや、用っていうか、ちょっと気になってね。いつも怪我して保健室に来る子だから、自分の周りで怪我人が出て動揺してないかって」
山久は言葉を濁した。だが、稔はぴんと来た。
山久が探しているのは、きっと高遠だろう。
いじめられっこの高遠はしょっちゅう怪我をして保健室を利用しているはずだ。その彼をいじめていた連中が大怪我を負い、彼の呪いだか生霊だかの仕業じゃないかなんて囁かれている。顔見知りの教諭は心配で様子を見ようとしたのだ。
(高遠が、まだ校内にいる)
稔は夢の最後に見た光景を思い出した。
鏡の中から、這い出てくる黒い手。
「師匠?」
稔が震え出したのに気づいた文司が眉をひそめる。
「どした?具合悪いのか?」
「……違う」
稔は息を殺して出来るだけ冷静になろうと努めた。
「帰る」
稔は大透と文司の腕を振り払って立ち上がった。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。さようなら」
山久の横を通り抜けて、足早に玄関に向かう。大透と文司も慌てて追いかけてきた。
「倉井、本当に大丈夫か?顔色青いぞ」
「病院行きましょう」
「……いい。具合が悪いんじゃない」
稔はぶっきらぼうに答えた。
「じゃあなに……」
「高遠だ」
吐き出すように稔は言った。
「高遠は、南校舎のトイレにいる。あいつが原因で、この学校にその辺の浮遊霊が集まって来たんだ」
こんなこと、口に出したくはないが、一人で抱えているのも無理だった。
「わざとか無意識か知らないけど、高遠のいじめっこへの恨みがその辺の霊を引き寄せて、人に怪我をさせるぐらいになった」
大透と文司は目を丸くして顔を見合わせた。
「なんでそんなことわかるんだ?」
「夢を見た……鏡から出てきた黒い手が背中を押したんだ……」
「鏡……もしかして、さっき師匠が落ちたのも……」
踊り場の鏡を思い浮かべたのか、文司が顔を青くした。
「でも、なんで倉井まで……いじめっこに復讐したかったんなら、倉井は関係ねぇじゃん」
「わからねぇ……前にトイレで顔を合わせた時に、何か恨みを買ったのかも……」
「いや、ティッシュあげて親切にしてたじゃん。あれで恨んでたら相当被害妄想だろ」
大透が納得いかないように眉を跳ね上げるが、稔だってなんで自分が狙われたのかわからない。大透が言うように、高遠に恨まれるようなことをした覚えはないのだが。
しかし、文司は少し考えるように首を傾げた後、ぽつりと口を開いた。
「……親切に、したからかもしれません」
「え?」
「高遠は、師匠に親切にされて、見ず知らずの人に親切に出来る師匠の優しさとか勇気を羨んだのかも。自分にはないものを持っている相手を羨む気持ちは、相手への称讃であると同時に、相手に対する嫉妬でもあります。「羨ましい」って気持ちに潜んだ僅かなマイナス感情にも、霊は敏感に反応したんじゃないでしょうか」
「なにそれ。そんなので反応されてたら、高遠がちょっとでも誰かに対して何かマイナスなこと思ったら皆襲われちゃうってことじゃん」
文司の仮説に大透が頭を抱える。
「そんなの、放っておいていいのかよ?」
「たぶん、もう終わる。黒い手が、高遠を捕まえるのが見えたから」
そう言って、稔は重苦しい息を吐き出した。鏡から出てきた黒い手は、高遠の憎い相手を攻撃して、最後に憎しみの源である高遠に手を伸ばしたところだ。おそらく高遠も怪我をするだろうが、それで霊は満足してまた散り散りになるだろう。
「それ、放っておいていいのかよ」
「いいだろ。自業自得だ」
三人も大怪我させたのだ。いくらいじめられていたといっても、高遠だって何らかの代償は支払うべきだと稔は思う。
「怪我……だけで済みますよね?死んだりとか……」
文司が戸惑いを浮かべて言い募る。
「ちょっと、様子を見に行った方がいいんじゃ……怪我してるなら、助けた方がいいし」
「そうだよ。もう学校にはほとんど人いないんだからさ。トイレで怪我して倒れてるかもしれないんだろ」
大透も文司に同意する。だが、稔は首を横に振った。
「俺は嫌だ。あそこにはもう足を踏み入れたくない」
冷たいと言われるだろうが、稔はもう関わりたくなかった。高遠が残っていることは山久が知っているのだし、教師陣が探せばそのうち見つかるだろう。
さっさと帰ろうとする稔に対し、大透と文司は躊躇いを見せる。
「自業自得だけど、さすがに放っておくのは……」
「もしも大怪我してたら……」
「うるさいなっ!俺には関係ないっ」
稔は罪悪感を振り払うように叫んだ。この二人だって霊の恐ろしさは嫌というほど知っているだろうに、どうして様子を見に行こうなんて言えるんだ。関わらないのが一番なのに。
「……わかった。倉井は帰れ。俺はやっぱりちょっと様子見てくる」
大透がそう言って、踵を返して廊下を走って行った。稔は思わず止めようとしたが、それを文司が制する。
「師匠。俺も一緒に行ってみますよ。大丈夫。俺は高遠に会ったこともないし、恨まれてませんから」
文司が笑顔でそう言って、稔を押し留めて大透の後を追った。
稔は呆然として二人が消えた廊下の奥を見つめた。
(なんで、よく知らない奴を助けに行こうなんて思えるんだ)
まるで自分が特別冷血な人間だと言われているように思えて、稔はぐっと唇を噛んだ。
(……俺には関係ないんだ。帰っちまおう)
とにかく、自分には関係ないのだと言い聞かせて、稔は靴を履きかえて玄関から出ようとした。
だが、玄関の前に立って、稔は動きを止めた。ほんの一押しするだけで、扉はなんなく開くのに、扉にかけた手に力を込めることが、稔にはどうしても出来なかった。
浮遊霊はきまぐれだ。誰も襲わないかもしれないし、だれかれ構わず襲うかもしれない。今回はたまたま、高遠の憎しみにつられて大量の浮遊霊が集まって来たから、高遠が憎いと思う人間が襲われた。このまま放っておけば、霊たちは元の通りに散り散りになって、なんの危険もなくなるだろう。
だが、霊がまだ一つの場所に集合している時にちょっかいを掛けたりしたら、きまぐれな霊が何をするか……
自分でも気づかないうちに、稔の足は南校舎に向いていた。
(危険だったら、見捨てて逃げるからな)
廊下は静まりかえっており、稔の足音だけがやけに高く響いた。山久にみつからないように保健室を避けて二階にまわる。生徒の姿のない二階の廊下は既に電気が消されており、差し込む向かいの校舎の明かりだけが頼りだ。不気味なことこの上ない。
南校舎に足を踏み入れると、この間とはうって変わって、霊の姿がどこにもなかった。
(つまり、ここにいた霊のすべてが、あそこに集結しているってことか)
問題のトイレは、つきあたりを曲がってすぐのところにある。稔の胸が早駆けを始める。
稔はゆっくりとトイレに近づき、そっと、戸を開いた。
そこに広がった光景を目にして、稔は息を飲んだ。




