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百物語〜霊感少年の憂鬱な日常〜  作者: 荒瀬ヤヒロ
第一話 「白い手」
20/67

【19】





 石段の方から悲鳴が響いて、祭壇を設えていた(みのる)は驚いて立ち上がった。護摩壇の前に立ち幣を振る黒田は祝詞を唱え続けている。


「ちょっと見てきます」


 黒田の背中に一声掛けて駆け出そうとした稔だったが、祝詞を中断した黒田に厳しい声で止められた。


「駄目だ、行くな」

「え……?」

「自分で助かろうとしなければ、助けられん」


 手助けするな、ということだろうか。稔は炎に照らされた黒田の横顔と石段の方角を交互に見てぐっと息を飲んだ。







 声が聞こえる。酷く慌てているような声。


 誰の声だろう。


 文司(ふみかず)は靄がかかったような頭で考えた。


 ずっと寒くて仕方がなかった。寒くて寒くて、体が動かなくて、目を開けるのすら億劫になった。このままではいけないという焦燥はあったが、いつしか何かを思うことすら嫌になった。


 でも、今はーー温かい。


 先程から、何か温かい物が文司の体に寄り添っている。その温もりが、文司の意識を暗い淵から引き戻した。うっすらと目を開ける。霞んだ視界に見覚えのある青灰色が広がった。


(なんだったっけ……これ……)


 文司が僅かに身じろぐと、頭の上から呻き声が上がった。


「救急車っ!」


 ずっと響いていた酷く慌てた声が、はっきりと意味を持って文司の脳を打った。


「石……っ」


 文司は驚愕に目を見開いた。自分に寄り添っていた温もり、自分の下になっていたものが何かを知ったのだ。

 道路に仰向けに倒れて苦しげに呻く石森の姿。


「石森……、石森っ!」

「馬鹿っ!揺すんなっ!」


 石森を揺り起こそうとした文司を、大透(ともゆき)が羽交い締めにして引き離した。


「石森!」

「落ち着け!救急車呼んだから!」

「なんで……」


 なんで。なんでいつも、石森が傷つくんだ。


 自分を庇って上級生に殴られていた姿が脳裏に蘇る。いつもいつも、自分のせいで。


「おい、樫塚。お前はここで救急車が来るのを待ってろ」


 大透がそう言って肩を叩く。


「俺はこれを神社に……」


 地面に落ちた赤い絵本を拾おうと手を伸ばした大透だったが、指先が触れた瞬間、バチッと音を立てて火花が散った。


「ってぇ!」


 手を押さえてのけぞる。文司は大透が拾い損ねた本を見た。赤い表紙の絵本。そうだ。図書室の倉庫であれを見つけた時から、おかしなことが始まったんだ。


 あれが、あの本が原因だ。

 あれのせいで、石森が…


「くっそ、倉井を呼んでくるか……」


 大透が手を押さえたまま石段の上に目をやる。

 文司は弾かれるように立ち上がった。すっかり萎えた足がもつれかけるが、気力を振り絞って本に手を伸ばした。触れただけでびりびりと痛みが走る。だが、文司は歯を食い縛って本を掴み上げた。


「樫塚!?」

「この上に……、持って行けばいい、のか…?」


 文司は石段の上をぎっと睨んだ。手が痛んで指が痙攣する。足が震える。でも、込み上げてくる怒りが文司の体を支え立ち上がらせた。これまでのいじめっ子達にも感じたことのない激情が、文司の食い縛った歯をぎしぎしと軋ませる。


 許せない。石森をこんな目にあわせやがって。絶対に許すものか。


「……石森を、頼む」


 呆気に取られる大透に言い置いて、文司は石段に足を掛けた。


「気をつけろよ!」


 大透は一歩一歩石段を登る背中に声を掛けてから、石森の側にしゃがみ込んだ。









 手が痛い。足が重い。息が苦しい。ほんの一瞬気を抜いただけで体は前のめりに倒れそうだ。それでも文司は必死に足を持ち上げて石段を登った。


 登り切るんだ。そして、この本を稔に渡す。それさえ出来れば、後は転がり落ちて地面に叩きつけられたっていい。石森が無事で、この本がこの世から消え失せるなら、自分などどうなったって構わない。


 苦しさと悔しさにぼろぼろ涙をこぼしながら、文司は石段を登る。こんなに苦しいと感じるのは、こんなにも必死に何かをしようとするのは、初めてな気がした。


 思えば昔から、文司は周囲から大人っぽいとか落ち着きがあるとか言われていた。それは確かに賞賛だったし、実際に文司は声を荒げたり我が儘を言ったりすることのない子供だった。聞き分けのいい子だと大人は文司を誉めたが、そうではなくて、ただ単に自己主張の乏しい、自己を主張する勇気がないだけであるということを、文司は薄々自覚していた。


 誉められれば嬉しい。でも、手放しで喜べば誉められなかった子供から反感を買う。目立つのは嫌だった。だから、いつしか誉められるのが苦手になった。どんな反応をしていいかわからなくなったのだ。


 悪口を言われれば悲しい。だけど、自分を嫌いな相手に好かれようとしても、また別の誰かに嫌われる。その繰り返しだ。第一、わざわざ好かれなきゃならない必要もない。


 殴られるのは痛いし怖い。でも、やり返せば余計に相手を怒らせるだけだ。だから、ただ嵐が過ぎるのを待つのが一番被害が少ない。


 文司はただ面倒くさかった。自分の外見や性格にあれこれ文句を付けてくる相手にも、さしたる理由もなく暴力を奮ってくる相手にも、いちいち傷ついたり泣いたりするのが面倒くさかった。いじめっ子が激高するほど、文司は冷めた。文司の中からどんどん熱量が失われていき、周囲が大人っぽいと評価する優等生の文司が出来上がっていった。


 そんな文司に、唯一周りと違う態度で接し続けたのが石森だった。文司の代わりに悪口に食ってかかり、文司が誉められれば文司以上に喜んで、文司を庇っていじめっ子に立ち向かった。


「嫌なことは嫌って言えよ」


 石森は文司にいつもそう言った。


「せめて、俺にはなんでも言えよ。親友なんだから」


 自分は馬鹿だ。文司は思った。


 言えば良かったんだ。霊感のある振りなんかしたくないって。別に周りから嫌われたっていいんだ。取っつきにくい傲慢な優等生と思われたって構わない。だけど、石森に嫌われるのだけは怖かった。石森の提案に逆らって、怒らせるのが怖かった。石森に迷惑を掛けることを恐れていたのではなく、自分が石森に愛想を尽かされるのを恐れていたのだ。


 なんでも言えよと言ってくれた親友を、信じていなかったのだ。


(ごめん。石森、ごめん……信じなくて、ごめん)



 文司は涙で滲む視界で石段の先をきっと見据えた。





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