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百物語〜霊感少年の憂鬱な日常〜  作者: 荒瀬ヤヒロ
第一話 「白い手」
19/67

【18】




 文司(ふみかず)を階下に残して、石森は二階へ駆け上がった。文司の部屋に足を踏み入れると、むっと澱んだ空気がまとわりついてきた。

 石森は床に放り出されていた鞄に飛びついて中を改めた。赤い表紙の本。恐らくーーいや、間違いなく、図書室の本だろう。


 その本が、すべての原因なのだろうか。その本のせいで、文司は追い詰められているのか。石森には何もわからない。だが、沸々と怒りが沸いてきた。


 霊だろうが何だろうが、文司をあんな目に遭わせた奴を許せるわけがない。


 鞄にないのを確認すると、石森は大きな本棚に駆け寄った。赤っぽい表紙の本を確認するが、図書室のものらしき本はない。机の引き出しもすべて引き出して調べたが、本はみつからない。きちんと整頓されている文司の部屋は、探す場所が少ない。一応床に這いつくばってベッドの下も見てみたが、やはり本はなかった。


(ここじゃないのか……?)


 他の部屋を探すか、あるいは文司に聞ければいいのだが、意識が朦朧としたあの様子では無理だろう。石森が居間に戻ろうと部屋から出かけた。その時、


 ガタンッ


 背後で大きな音がした。


 振り返って、石森はギクリと身を固めた。


 ベッドの脇に、人が立っている。石森と同じ制服を着た見知らぬ少年が。


 俯いていて顔は見えない。片手でベッドを指さしている。石森が硬直している間に、少年の姿はふっとかき消えた。


(今のは……)


 石森はごくりと息を飲んだ。


 なんだったのだ。文司に取り憑く霊なのか?だが、自分が見た影は女のものだったはずだ。では、あれは。


 大透から聞かされた話が蘇った。八年前に死んだという男子生徒。今のが、その生徒なのだろうか。石森はベッドを凝視した。間違いなくベッドを指さしていた。

 石森は迷うことなくベッドに飛び付いた。布団を床に落とし、シーツを剥ぐ。枕の下もベッドと壁の間の隙間も確認する。だが、本はない。


(どこだ。どこなんだよ)


 苛立ち紛れに枕を投げようとしかけて、ふと、もう一つの可能性に思い当たった。石森は息を止めて腕に力を込め、分厚いマットを持ち上げた。


 あった。


 ベッドの底板、埃だらけのそこに、不自然な毒々しさで赤い表紙の絵本が横たわっていた。


(この本だ!)


 一目で確信した石森はマットを床に下ろして本に手を伸ばした。しかし、本に触れた瞬間、指先にびりぃっと激しい痛みが走った。


「っ!?」


 咄嗟に手を引っ込める。怪我はない。だが、指先にじんじん痺れるように痛みが残っている。触るなという強烈な意志を感じる。

 石森は痛みの残る指先を握り締めた。


「……ざけんなよ」


 歯を食い縛り、石森は再び本に手を伸ばした。触れた瞬間、先程と同じように激しい痛みが走る。だが、石森は今度は放さなかった。二の腕にまで這い上がってくる痛みを堪え、本を掴み上げた。


(これで助かる。樫塚は助かる!)


 落とさないように本を脇に挟み、石森は部屋から飛び出した。


「樫塚!」


 階段を駆け降り、文司に駆け寄ろうとして、石森は足を止めた。廊下の壁にもたれ掛かって朦朧としている文司。彼の前に白い靄の塊がある。うっすらと髪の長い女の姿が見える。文司に手を伸ばしている。


 躊躇う間もなく、石森は足を踏み出していた。


 ほとんど無意識に拳を繰り出す。あの靄に触られたらお終いだという気がした。文司が連れて行かれてしまう。そんなことさせるものか。

 殴りかかった拳は空を切った。靄は霧散し、跡形もなく消えた。


「樫塚!」


 石森は力の抜けた文司の体を肩に担ぐと、リビングに向かった。開いたままのベランダから出ると、一気に空気が変わった気がした。


(出られた)


 安堵して、思わずほっと息を吐き出す。だが、すぐに気を取り直して顔を引き締めた。


「行くぞ、樫塚。大丈夫、大丈夫だからな」


 自分にも言い聞かせるように繰り返し、石森は文司を背負って歩き出した。




 ***




 空手部で毎日鍛えているとはいえ、自分よりも身長の大きい男を背負って歩くのはなかなかきつい。文司は細身だが、完全に脱力している今は全体重が石森にのしかかっている。よろけそうになる足をしっかと踏みしめて、一歩一歩進む。


「あれ?おーい」


 緑橋神社までもう少しというところで、前方から声を掛けられ石森は思わずほっとして顔を上げた。


「宮城……」

「迎えにきたぜ。倉井は神社で待ってる。大丈夫か?」


 大透(ともゆき)は駆け寄ってきて文司の様子を見て眉をしかめた。


「やべぇ感じだな」


 石森は再びぐっと顔を引き締めた。


「手、貸そうか?」

「いや、いい。俺が連れてく」


 大透の申し出を断って、石森は足を踏み出した。後少しだ。背中にかかる重みが全身の動きを鈍らせる。だが、感じるのは重さだけじゃない。心許ない温かさと弱い呼吸静かな鼓動が、石森の中に希望と責任を灯らせた。


(俺のせいだから、絶対に助ける!)


 神社の前の石段に差し掛かっても、石森は文司を下ろさず背負ったまま階段を登り始めた。見上げた石段の先の空がうっすらと明るくなっている。あそこまで、あそこまで行けば文司は助かる。何度も自分に言い聞かせ、石森は震えそうになる足を一歩一歩踏み締めて石段を登った。


「頑張れ!後少しだ」


 後ろから駆け上がってきた大透が石森を追い抜いて石段を登りきり鳥居の前に立って振り返った。


「ここまで来ればもう大丈夫……」


 言い掛けた大透の表情が凍り付いた。文司を背負った石森の背後に、夜の闇に浮かび上がる白い靄がもくもくと沸き上がった。


「石森!危ないっ」


 同時だった。大透が叫ぶのと、石森の右腕が強い力で引っ張られるのとは。


 仰向けに倒れながら、石森の脳裏に咄嗟によぎったのは、自分が背負う文司のことだった。



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