【10】
空は晴れているが屋上には少し冷たい風が吹いていた。稔に付いてきた大透は盛大にくしゃみをしてから、待っていた石森に食ってかかった。
「なんだよ。こんなところに呼び出して。言っとくけど告白なら無駄だぞ。倉井には俺というものがあるからな」
どうやら図書室で石森が稔を臆病者扱いしたことにまだ腹を立てているらしく、言葉に刺がある。稔は大透の頭を軽く殴ってから、俯いている石森に声をかけた。
「話って、樫塚のことだろ。違うか?」
石森の肩がビクッと震えた。大透がはっくしょんとくしゃみをする。
石森は躊躇うかのような沈黙の後で口を開いた。
「……倉井って、本当に、霊能力があるんだろ?」
顔を上げて、稔の目をひたりと見据えて石森は言った。
「樫塚の、アレ、見たか……?」
その声は不安そうに揺れていた。
「アレ、って…?」
石森の言う「アレ」というのは、自分が見たどれのことだろうと思いながら、稔は尋ね返した。腕に絡み付く白い手か、まとわりつく白い靄か、髪の長い女の影か。
どれだか知らないが、とにかく石森は樫塚について何かを「見た」らしい。
「何を見たってんだよ?」
大透が鼻をすすりながら問う。どうやら興味が出てきたらしい。だが、石森はそれには答えずに目を伏せた。青ざめた顔で、無意識だろうかーー右腕を擦る仕草をする。
「……あの日、図書室で何かを見たか教えてくれ」
目を伏せたまま、石森は言った。
「あの時、倉井は慌てて出て行っただろう?何かいたんじゃないのか。教えてくれ。お前には本当に霊が見えるんだろう?」
「ってことは、やっぱし樫塚に霊能力があるっていうのは嘘なんだな」
大透が口を尖らせた。
「樫塚の自業自得じゃん。霊が見える振りなんかするから取り憑かれるんだよ」
「違う!」
呆れを隠さない大透の台詞に、石森が噛みつくように怒鳴った。
「樫塚は悪くないっ!」
稔と大透は目を丸くして、石森を見た。二人とも、石森が何故そんなにムキになるのかわからなかった。こうして部活をサボってまで稔達に尋ねるほど、石森は文司のことを気にしている。
石森は気持ちを落ち着けようとするように前髪をかき上げ、細く息を吐いた。
「………悪いのは、あいつの周りの連中だ」
吐き捨てるようにそう言って、石森は背を向けた。フェンスに手を掛けてその向こうに広がる曇り空を睨む石森の脳裏に、午前中で早退してしまった文司の姿が思い浮かぶ。心配して玄関まで送ろうとした石森に、いつもの「大丈夫」という口癖を残して、どこか後ろめたそうに眉を下げていた。
そんな顔しなくていいのに。悪いのは文司ではないのに。
やり場のない怒りが湧き上がってくるのを抑えながら、石森は口を開いた。
「……俺と樫塚が、緑王館から来たのは知ってるだろ?」
近隣で悪名の高い小学校の名を出した石森に、稔と大透は無言で顔を見合わせた。石森は重い口調で続ける。
「樫塚は、昔からすげぇ頭が良くて、大人しい奴で、見ての通り美形だから大人からはちやほやされて……」
「いじめられてたわけだ?」
石森の言わんとしていることを察して、大透が後を引き取った。石森は無言で小さく頷いた。
稔もなるほど、と思った。石森がやたらと文司の面倒をみようとするのは、いじめられる文司を庇っていた小学校時代の延長なのだろう。
「四年生の時にさ、すげぇ嫌な奴がいたんだ。そいつは樫塚を執拗にいじめていた。俺は樫塚をいじめる奴といつも喧嘩をしていたけれど、俺が殴ったり殴られたりするたびに樫塚は悲しんでいた。俺が空手クラブに入ってからはなおさらで、誰に何をされても「大丈夫」としか言わなくなった」
石森は溜め息を吐いた。
「喧嘩なんかしたら、俺がクラブを辞めさせられると思ったんだろうな」
いじめる方も、ずる賢くも石森のいない場所で文司に暴力を奮ったから、文司自身にそれを隠されると石森にはどうしようもなかった。「大丈夫、大丈夫」と繰り返す文司を見て、ならば暴力以外の方法で相手に思い知らせてやろうと決めた石森が、思いついたのは実に子供染みた小細工だった。
「最初は、ただそいつを怖がらせてやろうって思っただけでさ。適当にでっち上げた怪談の噂を流して、ーー確か、昔この学校の階段から落ちて死んだ生徒がいる。この生徒の名前を知ってしまった者は、放課後、水を入れたコップを持って死んだ生徒に謝りながら階段を往復しなくちゃならない。水をこぼさずに往復できれば平気だけど、水をこぼしてしまったらその生徒の霊に取り憑かれるーーって設定だったな」
色んな怖い話を読んで寄せ集めて作った話だと、石森は語った。
「その生徒の名前も適当に考えて、いじめっ子の耳に入るようにし向けた。そんで、そいつを挑発して階段往復をやらせて、途中でわざと驚かせて水をこぼさせてやった」
石森は苦笑いを浮かべた。
「それから、そいつの目を盗んで持ち物を濡らしてやったり、一人で歩いているのに「さっき隣にいた奴、誰だ?」って聞いてやったり、遠足の写真に細工して心霊写真を偽造したりしたな」
石森が浮かべる苦い笑いが自嘲の笑みであることに、稔は気付いた。
石森は思い出したように振り向いて、「言っておくけど、考えたのもやったのも俺だからな」と念を押して、再び背を向けた。
「樫塚は、おろおろしていただけだ」
そう静かに言う。
石森のやったことは確かに子供染みた復讐だ。復讐というよりはただの嫌がらせに近い。それでも、でっち上げの怪談はそれなりにクラス内に浸透したのだと石森は言う。
「放課後に階段往復をする連中も結構いた。でっち上げがどんどん広がって、樫塚は不安そうだった。俺は気にすんなって言ったんだけど……騒ぎを収めようとしたんだろうな。クラス内でたらい回しにされていた心霊写真を、こっそり偽造前の元の写真とすり替えたんだ」
結局は、それが裏目に出た。確かに映っていたはずの影が消えていることに気付いた誰かがこう言い出した。「樫塚が、写真の霊を消した」ーー
「そんな矢先に、樫塚をいじめていた奴が、階段から落ちて怪我をしたんだ。もちろん偶然だけど、今度は「樫塚には霊能力がある」「樫塚が階段の霊を操っていじめっ子に復讐した」なんて、ろくでもない噂が広がった」
石森はふーっと長い息を吐いた。怪我したいじめっ子は、それ以降文司を避けるようになった。他のクラスメイト達も、樫塚をいじめたら祟られる、などと噂するようになった。勝手に囁かれる噂をいちいち気にする文司に、石森は「いっそのこと霊能力者の振りをしようぜ」と提案した。そんな経緯で始めた霊能力者の振りだが、思いの外それが役に立った。文司がいじめられる回数がぐんと減った。元々大人っぽい雰囲気の文司は、ミステリアスなイメージを演じても様になった。
「時々、適当な怪談やら心霊写真やらを偽造してやれば、それを信じた奴らが樫塚に除霊を頼んでくるようにもなった」
六年生になる頃には、「樫塚は霊能力者」というのは学年で良く知られた事実となっていた。
「この学校でも、気取った優等生と思われるよりは、霊能力者の方が受け入れられやすいんじゃないかって、俺が樫塚にやらせたんだ」
石森は語尾に力を込めた。
「俺だ。俺がやらせたんだ。図書室に行かせたのも俺だ。全部、俺が悪いんだ」
自分を責めてかぶりを振る石森は、あの日、文司を図書室に連れて行ったことを心の底から後悔していた。何故、文司が取り憑かれてしまったのか。何故、自分じゃなかったのか。
「教えてくれ倉井。樫塚を助けるためにはどうすればいい?俺は何をすればいい?」
稔に縋るような視線を向けて言い募る石森の迫力に圧されて、稔は内心で冷や汗をかいた。石森は稔を本物の霊能力者と信じて「何とかしてもらえるかもしれない」という希望に縋っている。そんな風に期待を寄せられても、見える以外には何も出来ない稔には答えようがなかった。
「落ち着けって」
稔に食ってかかる勢いの石森を、大透が宥めにまわる。
「倉井にだって何もかもわかる訳じゃないんだぜ」
普段、除霊だの霊視だのとほざいている自分を棚に上げて常識的なことを言う。石森はそう言われてがっくりと肩を落とした。崩れ落ちそうなほどに絶望する石森の姿に、稔は良心の呵責を感じて目を逸らした。もう関わらないと決めたのだ。石森には気の毒だが、稔に出来ることなど何もない。
「……俺は、見えるだけで何も出来ない。樫塚を助けたかったら、お祓いにでも行ってくれ」
早口でそう言うと、稔は踵を返して屋上を後にした。背後から大透の呼び声が聞こえてきたが、振り返らなかった。
(これでいい。これでいいんだ。俺には何も出来ないんだから)
稔は自分に言い聞かせた。
「おい、ちょっと待てよ倉井」
大透が追いかけてきて稔の隣に並んだ。
「なぁ、石森にも後藤さんから聞いた話を教えてやろうぜ。めっちゃ心配してんじゃん。んで、皆で樫塚をお祓いに連れてってやろうぜ」
「俺は行かない」
断固とした口調でそう告げると、大透は不服そうに眉を寄せた。
「なんでだよ」
「俺は関わりたくない!」
稔は苛つきを隠さずに吐き捨てた。大透も石森も、霊が見えるということがどれほど恐ろしいことか、何一つわかっていない。稔がこれまでどんな思いをしてきたか、絶対に理解出来ないだろう。
大透はきょとりとして目を瞬かせた。
「どうしたんだよ、いきなり。お前、昔はもっと積極的っていうか、活発だっただろ。ほら、幼稚園の時に」
大透にそう言われて、稔は唇を噛んだ。
「……そうだよ。幼稚園児の頃の俺は、霊を怖いと思っていなかった」
まだ何もわかっていなかった自分を思い出して、稔は腹立たしい気分になった。
「幼稚園の時、同じ幼稚園の奴が霊に取り憑かれているのが見えて、俺は正義の味方気取りでそいつを助けようとした。その結果、霊を怒らせてとんでもなく恐ろしい目にあった」
あの時のことを思い出すと、今でも足が震える。稔自身だけでなく、兄と父まで巻き込んでしまった。
結局、父が呼んだ神主のお祓いによって助かったのだが、神主は父と兄と家からは霊を剥がせるが、稔からは完全に剥がせないと言った。稔は自分でそれを呼び込んでしまったから、剥がすことは出来ないと。助かるためには、この家を出て父とも兄とも会ってはならない。そうして霊が稔を見失うのを待つしかない。神主は稔にこの世ならぬ者と関わることの恐ろしさをこんこんと諭して聞かせた。
稔は隣町に住む親戚に預けられ、小学校を卒業するまでそこで過ごした。ようやくこの町に戻って父と兄と再会出来たというのに、同じ轍を踏む訳にはいかない。
「だから、俺は関わりたくない」
稔の説明に、大透は目を丸くして稔を見つめた。
「……ふぅん、そうだったのか」
大透はふーっと息を吐いて自分の額をぺちんと叩いた。そうして、眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「ごめん。今更謝っても遅いけど……、覚えてねぇかな?その、お前に助けられた園児が俺なんだよ」
「え?」
予想外の台詞に、稔は愕然として大透を見つめた。大透は苦笑いを浮かべたまま、決まり悪そうに頭を掻いた。
「あの時、すげぇ怖い思いして、大人は誰も信じてくれなくて、もう駄目だってガキなりに死ぬかもって思っていた時に、お前が声を掛けてくれたんだ。そんで、霊を追っ払ってくれた」
稔はまったく覚えていなかった。その後の出来事が強烈に記憶に焼き付けられていて、その前のことはぼんやりとしか浮かばない。
「あの後、幼稚園でお前のこと探したけど見つからなくて……そっか、俺のせいでそんなことになってたんだ」
知らなかった、ごめんな。と、大透はもう一度謝った。
「そんなことがあったなら倉井が用心深くなっても仕方ないか。でもさ、幼稚園の時の倉井は俺にとっては命の恩人で、あれからずっと、俺のヒーローだったんだよ」
大透は肩をすくめて言った。
「同じクラスにお前がいて、テンション上がってつい色々やらせちまったけど……うん。倉井はもう関わらなくていいよ。樫塚のことは俺と石森でなんとかするぜ」
今まで悪かったなと言って、大透は踵を返した。そのまま廊下を駆け戻っていく背中をぼんやりと眺めて、稔は思いがけない事実に戸惑った。あの時、稔が助けたのは大透だったという。
それで、大透はやたらと自分に構っていたのか。稔はなんだか複雑な気分で立ち尽くした。もう関わらなくていいと言われたのだから、喜んで遠ざかるべきだと自分に言い聞かせるが、どこか釈然としない気持ちは拭えなかった。
(気にするな。もう俺には関係ないんだ)
稔は心の中で繰り返しながら教室に戻っていった。




