【9】
学校に行きたくない。入学して一月も経っていないが、今朝ほどそう思ったことはなかった。
しかし、「霊に取り憑かれたクラスメイトを見たくないから」という理由で登校拒否をする訳にはいかない。兄に心配をかけてしまう。
稔は重い体を引きずってのろのろと登校した。遅刻ギリギリで教室に入ると、目線を上げないようにしながら席に着いた。
早速、後ろの席から大透が話しかけてきた。
「おっす。昨日はいきなりどうしたんだよ?あの写真に、なんか良くないもんが映ってたのか?」
「………」
稔は振り向きもせずに無視をした。幸い、すぐに担任が入ってきたので、それ以上はしつこくされなかった。だが、休み時間になればまたあれこれ尋ねられるに違いない。
どうやってはぐらかそう。
目の前の難問に思わず溜め息を吐いた時、ふと視線を感じて稔は顔を上げた。斜め前の席の文司がこちらを見ていた。稔と目が合うと、怯えたように逸らしてしまう。相変わらず顔は青く、病人のように見える。
稔も視線を逸らして窓の外に目を向けた。窓の外は見事な青空で、三時間目の体育は外でサッカーだな、とどうでもいいことを考えて気を紛らわせようとする。もう関わらないと決めたのだから。
しかし、そんな稔の決意を責め立てるかのように、一時間目の終わり頃に文司が倒れて保健室へ運ばれた。
「やっぱりお祓いに連れて行こうぜ」
大透が真剣な顔で言った。
「昨日の後藤さんの話を聞いたら、一刻も早く解決したほうがいいって気がしてきた。ネットで調べたら神社に行けば五千円とか一万円ぐらいでお祓いってやってもらえるらしいし」
「……うん」
確かに、それが最善だと思う。ただ、問題はお祓いが効かなかった時のことだ。煮え切らない返事をする稔の態度に、大透は不満そうに片眉を跳ね上げた。大透が何を言いたいのか稔にはわかっていたが、過去の苦い経験が稔に二の足を踏ませていた。正直に、「関わりたくない」と言ったらどうなるだろう。大透は怒って失望して自分から離れていってくれるだろうか。そして、文司はなすすべなく竹原と同じ道をーー
「倉井」
稔の不吉な想像を中断させたのは、大透ではない誰かの低い声だった。振り向くと、強ばった表情でこちらを見据える石森の姿があった。
「放課後、ちょっと付き合ってくれないか。宮城も。ーー頼む」
真剣な表情で言い、石森はちらりと文司の席に目を走らせた。本人は保健室からまだ戻ってこない。
「屋上で待ってる」
予鈴が鳴ったので、石森は短く告げて自分の席に戻っていった。大透も稔の後ろの席に着く。
関わらないと決めたのに、その決意とは裏腹に動いていく事態に、稔は深い溜め息を吐いた。
***
瞼を持ち上げるのがひどく億劫に感じる。文司は視界に溢れた陽光に、開いたばかりの目をしっかり閉じた。目が痛い。
(また、倒れたのか……)
ここが保健室であるのを理解すると、文司は目を擦りながら壁の時計を見上げた。時刻は三時間目の真ん中を指していた。クラスメイトは体育の最中のはずだ。
文司はのろのろと身を起こした。だるい体が鈍く痛む。この調子では体育など参加出来そうにないが、一人で寝ているよりは少しでもクラスメイトのーー石森の傍に行きたかった。
保険医がいないので勝手に出て行こうとした文司だったが、彼が戸に手を掛ける前に、背後で高い電子音が鳴り響いた。
ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ
文司は足を止めた。じわりと汗が滲み出た。
ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ
文司はぎこちなく振り返った。壁に接した白いキャビネットの上、音はそこから響いている。文司は上がりそうになる息を抑えつけ、何度も唾を飲んだ。落ち着け。落ち着け。大したことじゃない。
自分に言い聞かせながら、文司はそろそろとキャビネットに歩み寄った。勝手に鳴り響いている体温計に手を伸ばす。電子音がひときわ大きくなったような気がした。
震えそうになる手でボタンを押すと、電子音が止まった。
ほっと息を吐きかけた文司の手の中で、一度消えた体温表示が再び点いた。その数字が、勝手に上がっていく。
36.2、36.6、37.1、37.8、38.7、39.5、40.6、41.9、42ーー
「ーーっ!!」
文司は手を振り払うように体温計を投げ出した。乾いた音を立てて床に転がった体温計から逃げるように、文司は戸口に駆け寄った。体当たりをするように戸をこじ開けて廊下にもつれ出る。ひやりとした空気が頬を撫でた。いまだ授業中の廊下には誰の姿もない。文司は足を引きずって玄関の方へ向かった。体が重い。手が震える。右肩が痛い。上手く歩けない。
文司は泣きそうに顔を歪めて必死に外に出ようとした。グラウンドだ。グラウンドに、石森がいる。いつも文司を助けてくれる強い親友がいる。彼の傍なら、怖いことなど起こらない。
(石森……)
玄関を出るとグラウンドに生徒達の姿が見えた。ボールを追って走り回る彼らの中に、石森の姿もあった。文司は脇目も振らずに駆け寄ろうとした。
石森は相手チームから奪ったボールを鋭いシュートでゴールに叩き込んだ。味方から歓声が上がった。皆に囲まれて肩や背中を叩かれている石森の弾けるような笑顔を見て、文司は立ち止まった。
グラウンドを縦横無尽に駆け回る石森は、太陽の下でキラキラ光って見えた。文司はぼんやりとそれを眺めた。運動神経が良くて、強くて頼りになって、入部して間もない空手部でも早速期待を掛けられていると聞いた。そうだ。石森はあんな風に、光の中にいるのがふさわしい存在なのだ。本当なら、小学校でもあんな風に人気者になれたはずなのに。文司さえいなければ。
いじめられる文司をいつも庇ってくれた石森。文司が内大砂に行くと言った時にも、石森は何の迷いもなく自分も行くと言ってくれた。本当なら、わざわざ規律の厳しい内大砂に来る必要なんかなかったのに。自分さえいなければ。
文司はふらつきながら踵を返して、校舎の方へ戻っていった。
駄目だ。これ以上、石森に迷惑を掛けられない。
(全部、自分で播いた種じゃないか。中学に入ってまで、霊感のあるフリなんかしたから、こんな目にあっているんだ。自分の責任だ。自分で何とかしなくちゃ……)
背後で再び歓声が沸き起こった。
文司は振り返らなかった。




