雨と雪の交ざる頃
31作目です。季節外れの話です。
ある曇天の日の話である。
もう季節は冬と言ってよく、大気も相応に冷やされている。朝早く庭の池を覗き込めば、全体が氷に覆われているのがわかるだろう。しかし、その氷はまだ薄く、立つことはできない。立てば氷は忽ち飴細工のように割れてしまい、立ったものは夜に冷やされ、身体の芯をも凍らせる水に落ちることとなるのだ。それは死への近道である。
昔、まだ幼稚園にすら行っていないような歳の頃、彼女は氷の上に立つことを試みた。愚かなのではなく、純粋だったのだ。つまり、愚かさとは純粋であるとも言える。さて、結果はわかるだろうが、いくら幼児の身体と言えど、初冬の薄氷に耐えられるわけがない。彼女は、祖母から譲り受けたお気に入りの錆びたシャベルとともに落下した。
まず、彼女は泳げなかった。まだそんなものを教わっていないし、それよりも衣服が邪魔だった。池は幼児の彼女を呑み込むには充分な深さがあり、形状は無闇に拡大した井戸のようだった。
彼女は成す術なく沈んでいく。冷たさの所為で、意識は迅速に薄れていった。生きるも死ぬもわからない歳だったので、彼女には現状がわからなかった。夢だとも思わなかっただろう。
そうして錘の如く沈んでいった彼女だったが、奇跡的に救出された。助けたのは彼女の兄で、当時は中学生だった。彼は心臓を凍らせる覚悟で池に飛び込み、彼女をサルベージした。引き上げられた彼女はすぐに病院へ運ばれ、そこで意識を取り戻した。幸いなことは生きていたことで、不幸なことは心臓に些細な障害が残ってしまったことだろう。
後で母親が彼女に訊いたところ、テレビでフィギュアスケートの大会が放映されているのを見て真似をしたという旨の答えが返ってきた。今となっては親族の間での良い笑い話である。けれど、それは勿論、彼女が生きていたからこそ笑える話なのだ。
祖母のシャベルも兄がサルベージした。寒中水泳を試みる兄にとっては、初冬の池でも大した苦労はないのだろう。
彼女は念のため、数日の間を病院で過ごすことになった。幼い彼女にとって本やパズルは娯楽にならず、専ら自然が憩いであり娯楽だった。彼女は病院にいた数日間、ずっと窓を見ていた。その透明な壁の向こうで優しく降る雪を、モノクロになっていく世界を、何も言わずに見ていた。
美しいものは言葉にしない方がいい。
そんな彼女の想いの源流は幼い雪景色にあるのだ。
彼女が退院した日も雪は降っていた。優しく、軽く、けれども多少の狂気を孕みながら音もなく降っていた。
「何して遊びたい?」と母親が訊ねた。
「何もしないよ」と眼を輝かせながら彼女はそう言った。
彼女はその言葉の通り、雪を眺めるだけで、何もしなかった。ふわふわと落ちて積み重なっていく様を、兄やその友達が雪だるまを作ったり季節の子供らしい遊びに興じている様を、達観したように眺めていた。
彼女が動いたのは雪が雨と交ざり始めた頃。雪は融解し、アスファルト上に汚らしく広がっていた。その灰色になった雪の上を嬉々とした表情で跳ね回っていた。
「どうして嬉しそうなんだい? もう雪は白くないよ」
兄はそう訊ねた。
「綺麗なものは自分から荒らしてはいけないの」
彼女はそう答えた。
つまり、彼女は雪が雨と交ざって灰色になる時を待ち侘びていたのだ。その崇高な精神に兄は何も言えなかった。
同年の十二月下旬のことだが、彼女の家に犬がやって来た。父親が知人から譲ってもらったもので、犬種は不明、左耳がずっと垂れたままの犬だった。クリスマスプレゼントとして彼女が受け取り、名前を「ミゾレ」と名付けた。ミゾレは懐っこい性格で、すぐに彼女と一緒に寝るまでになった。彼女もミゾレを可愛がり、何もしないでも一緒にいたのだった。
相変わらず雪が灰色になるまで外に出ない彼女だったが、いざ灰色になれば、ミゾレを連れて近くの林に出掛けて行った。迷うといけないので大抵は兄か父親が一緒だった。林を奥に進むと傾斜し始め、その上まで行くと古い堰堤に辿り着く。既に放棄され、人為的に水は流れていないが、何処からか川の支流が繋がっているようで、ちょろちょろと水が流れているのだった。そして、冬になれば水は凍り、ちょっとしたスケートリンクのようなものができ上がる。そこに「行っておいで」と彼女はミゾレを放ち、自分は近くの岩に腰掛けて、ミゾレ、或いは同行していた兄が滑ったり転ぶ様を眺めていた。
よくよく思えば、下へ落下する危険もあったのだが、ミゾレは運良く落ちなかった。彼女も落下を危惧したことはなかった。高低差は五メートルほど。運が良ければ助かるし、悪ければ死ぬだけのことだ。
しかし、ミゾレは運が良くなかった。
数年後、彼女は小学生になった。小学生になっても大人しく、何処か達観した様子の少女だった。成績は上の方だったが、それは心臓の関係で激しく運動することができず、休み時間は専ら図書館にいたり、予習をしていたからだ。友達がいたが、それは両手の指で数えきれる程度の人数だった。男子からの渾名は「アイスマン」だった。どうやら、名前に「氷」という字が入っているという点と、あらゆる事象に対して冷えきった見方しかできないと思われていることが由来らしい。実際、彼女は興味のない事象や人に対しては悉く知らなかった。流行りの芸能人やファッションも知らないし、最終的にはクラスメイトも殆ど憶えていなかった。単純に必要性が希薄だったからだろう。
小学生時代の彼女の楽しみと言えば、本を読むか、ミゾレと戯れるかだった。戯れると言っても、何もせず一緒にいるだけなのだが。
四年生の時、彼女は飼育係になった。飼育係は飼育小屋のウサギの世話をするという係で、ペアで担当する。ペアになったのは、活発で基本的にツインテールだった少女だ。名前は憶えていない。
ウサギの名前は「ピョン」だった。誰にでも浮かぶありきたりな名前だった。ピョンは名前に反して殆ど跳ねず、虚無を眺めるタイプのウサギで、彼女たちが与える餌にのみ反応を示した。
彼女はピョンのことを素直に可愛いと思った。真っ白な毛並みが美しいと思った。だからこそ、彼女は世話をしなかった。
「ちゃんと世話してよ」とツインテールの少女が言うが、それは彼女の価値観に反することだった。美しいものに手を出してはいけないのだ。
彼女が積極的だったのは、ピョンが死んだときだった。彼女はツインテールの少女よりも積極的にピョンの埋葬を行った。彼女の担任が「優しい子なのね」と彼女の頭を撫でながら言っていたが、その時の彼女の頭にはクエスチョンマークが飛び交っていた。
ただ、美しくなくなったから手を出しただけなのに。
彼女はそう思ったけれど言わなかった。口にする必要はないと思ったし、口にすれば反感を買うと直感的にわかったからだった。
冬になり、雪が降り始めると、彼女は外に出ること、学校に行くことを極端に嫌がった。雪で綺麗に飾られた世界を荒らしたくはなかった。これは毎年のことで、上級生にもなると親も黙認し始めた。文筆家の父親が彼女の価値観を大切にすべきと言ったのだ。家にいても彼女が勉強を怠らなかったのも一因だろう。
ミゾレは段々と年老いてきたように見えた。以前のように堰堤まで行くこともなくなり、家の中、彼女の傍で丸まっているだけだった。
六年生の冬。卒業まで三ヶ月となった頃。ミゾレは死んだ。
運の悪いことに老衰ではなく、あの池に落ちて死んだのだ。それも彼女の見ている前で。ゆっくりと、それは映画のワンシーンのように滑り落ちた。その時、彼女は救う素振りは見せなかった。
彼女は動けなかったのではない。動かなかったのだ。
彼女からすれば、ミゾレは何とも判断のし難い境界線上にいる存在だった。毛並みもピョンほど美しくはない、明るめの茶色だった。それに、ミゾレは犬種の定かでない雑種だったし、左耳が垂れたままという欠陥を抱えていた。だからこそ、「ミゾレ」という名前を付けたのだ。けれど、一方で美しくもあった。それは彼女の理解の中にはない感覚での美しさだった。理解可能な汚さと理解不能な美しさの境界線上でゆらゆらとしていたのがミゾレだった。
わからないものには触れない方がいい。そう思ったから、彼女はミゾレと戯れあったりはせず、ただ一緒にいるだけに留めたのだ。
彼女が動かなかったのはミゾレに触れるためだ。彼女は灰色に変わる雪やピョンの死で学んでいた。いくら美しいものでも死んでしまえば美しくはない、と。
彼女の思惑通り、命のなくなったミゾレには抵抗なく触れることができた。引き上げられたミゾレの亡骸は氷のように冷たかった。それとは対照的に彼女の心は急激に熱を持った。
死とは強迫観念からの解放だ。
彼女の中で何かが帰着し、何かが失われた。
美しいものに触れたいと思う心の反抗で触れない。そんな彼女に終止符を打つのが、まさに死だった。
彼女は泣いた。ミゾレの亡骸を前に泣いた。
悲しかったのではない。
嬉しくて泣いたのだ。
それは奇しくも雪と雨の交ざる日だった。
その後、池は埋め立てられて、今も昔も何もなかったかのように平らになっている。この池は祖父が造らせたもので、彼が存命の頃は立派な錦鯉が優雅に尾鰭を揺らしていたらしい。
ミゾレの墓は池の跡地にある。彼女が立てた小さな墓標が目印だ。
彼女は中学生になり、一家は引っ越すことになった。雪の多く降る緑や白の地から、ビルが立ち並び熱の籠った灰色の地へ移動することになった。祖母と父親はこちらに残ることにし、彼女と兄と母親が引っ越すという形になった。その理由を彼女はまったく知らないし、興味もなかった。取り敢えず、流れに身を任せておけばいい。彼女はそう考えていた。
中学生になっても、引っ越しても、彼女は彼女のままだった。通っている学校はビル街の傍にあるが、住んでいる家は山に程近い片田舎のような場所だった。彼女は休みになると、その山の遊歩道を歩いて過ごした。
彼女の「美しいもの」の定義も変化しつつあった。その定義は拡大し、彼女の自由が縮小した。
「美しいもの」は生きているもの全てだ。
彼女はそう考えた。
人も犬も植物も何もかもが生きている。彼女はそれらに触れることを厭うようになった。触れたら神様から怒られてしまう、そんな風に厳格に境界線を定めてしまった。
無論、彼女の定義には自分も入る。
彼女は自分の存在さえ触れることのできない遠いものにしてしまったのだ。彼女は中空に浮いた状態となり、意識は他方に分散していった。不安定で不確かな存在が彼女を構成する全てだった。
そんな彼女だが、山や森は違った。そこでは命が溢れ、フィールド全体が「生きている」のだ。彼女はその「生きている」環境下に自分を置いて、自分の存在を安定させようとした。
休日、森の中で佇んだ状態で、ただ、命が鬩ぎ合ったり、調和したりする「生きている」音を耳に注いでいた。
辛かったのは平日。学校に行かなくてはいけない日。彼女の家から学校までは電車を使わなければならなかった。電車の中には当然ながら人がいる。まして、かつて彼女が住んでいた地と違って車内の人口密度も桁違いだ。彼女は遠くなりそうな意識を保ちながら学校へ通った。
学校も学校で同じ状況だった。彼女は極力、他人との関わりを持たないことにしていたが、それでも、他人は関わってくる。
席が近かった若草という女子生徒がいた。若草は彼女と同じような価値観の持ち主だった。だが、似た価値観ということは、互いに不干渉だったということだ。若草も彼女もクラス内で孤立していたが、両者ともそれが理想的な状況と言えた。誰にも干渉されず、ただ、「生きている」自分の存在に苦戦する時間を過ごせる環境。苦痛は自分自身という最低限のもので抑えなければならないのだ。
中学二年生の冬。
彼女の学校に行く頻度は極端に減っていた。一週間に一回、多くて三回。母親には自身の思想を話し、理解を得られた。担任のみが煩かった。
休んでいても成績は高い。それならば文句は言えない筈だ。だが、担任は「学校は人間関係を築く場所」と主張し、彼女に登校するように促した。担任としては真っ当なことかもしれないが、その担任の主張が、彼女が吐くほどに嫌悪し、自身の否定をせざるを得ない環境への誘導である以上、認めることはできなかった。
一度、面談をすると言われ、仕方なく学校に出向いた。その時に乗った電車で若草を見た。若草は彼女の正面に座り、本を読んでいた。去年と変わらず同じクラスだった筈だ。
若草が視線に気付いたのか、こちらを向いた。赤いメガネにショートボブの若草は客観的に見れば可愛らしい姿をしているだろう。
若草が立ち上がり、彼女に近付いた。彼女は戸惑ったが、その稀有な干渉を受け入れることにした。
「横、いい?」
彼女は頷いた。若草が少し社交的になっているような気がした。そして、それは気のせいではなかった。
「曲輪さんは学校来ないの?」
若草はそう訊ねてきた。
「うん」
「勉強はしなくていいの?」
「家でしてるよ」
「今から何処行くの?」
「学校。面談があるんだ。若草さんは?」
「塾だよ」
「……何だか、変わったね」
「そう?」
若草は眼を大きくして言った。
「きっと、ようやく環境に適応できたんだよ」
若草はそう言った。
彼女は何も言えなかった。
「じゃあね、曲輪さん。機会があったら学校でね」
若草はそう言って降りていった。
緊張の糸が飛んで、彼女は溜め息を吐いた。心肺が今にもストライキを起こしそうだ。起こされたら起こされたで、自分自身に触れる良い機会ではあるのだが。
彼女は駅を降り、重い足取りで歩いた。この街には「生きている」ものが多過ぎる。そして、それは山と違って全体ではない。「生きている」ものと「生きていない」ものとが斑に存在している。彼女にとって極めて悪い環境だった。
面談では彼女は自分の想いを吐き出した。けれど、担任は理解する様子がなく、仕舞いには精神病院での受診を勧めてきた。
「曲輪さん。君の言ってることはぜーんぶ精神の話だから。そういうの通用すると思ってるなら甘いよ。まずは病院で受診したら? 精神なんてすぐに平常になるでしょ?」
彼女は担任のこの言葉を受けてすぐに学校を出た。
そして、電車に乗り、家の最寄り駅で降りて、家には帰らずに山へ向かった。もう空は薄暗かった。それでも、心臓が捻られ、肺が圧迫される気持ちのままよりずっと良い。大いなる命の中に入って、そのひとつだと実感したい。
彼女は樹々の柱が四方八方にある木の葉の絨毯に仰向けになって、空が段々と色を沈めていくのを眺めた。空は生きていないけれど、まるで生きているかのように美しく、その姿を自在に変える。自分も美しい中に浮かぶ雲となりたい、と思うのは空を見る度に生じる願望だった。
彼女は眼を閉じた。ひとつになるのがわかる。
ひとつになって、ふたつになって、よっつになって、ひとつになる。
そうして、意識はブラックアウトする。
気付けば視界は白くなっていた。うっすらと雪が舞っていた。彼女は日を跨いで森の中に寝ていたということになる。そうして、生き続けてしまっているのだ。
彼女は家に戻った。母親が慌てて奥から飛び出して来て、彼女を抱き締めた。どうやら、自殺でもしたのではないか、と不安になっていたらしい。半ば間違いではないが、取り敢えず、放浪していたとだけ伝えておいた。それもまた事実だ。
そういえば、学校はそろそろ冬休みだ。いつからだろう。まぁ、いつからでもいいのだが。
彼女はこの冬休みの期間に父親のもとを、かつて住んでいた地を訪れてみようと考えていた。目的は明確ではなく、理由付けをするのなら、些細な郷愁に襲われたからだ。
彼女が家に帰った日から雪は降り続けた。そして、彼女が行く日にも雪は降っていた。
灰色の空、灰色のホーム。真っ白な雪が物理法則の随に降りてくる。その混沌とした視界に滑るように新幹線が入ってくる。彼女はそれに乗り込み、もっと雪の白い場所へ進み始めた。
新幹線の中ではずっと外を見ていた。風景が高速で移ろう様は生きていないが美しかった。それは、その景色の一瞬一瞬がその場限りで儚いものだからだろう。雪を被った自然が彼女を引きずり込もうとする。彼女も抵抗はしない。けれど、残酷にも、冷たいガラスが彼女と自然とを乖離させているのだった。結局、四時間ほど、外を見ていた。
やがて、新幹線は速度を落とし、彼女の目的の駅に到着した。
駅の駐車場では父親が待っていた。
「久しいな」
「うん」
「随分と大人になったな」
「そうかな」
彼女は父親の車の助手席に乗り、今度は前から後ろへ流れる景色の移ろいを楽しんだ。故郷の一帯は米所で、流れる景色の殆どが雪に隠れた稲田である。何処か古臭く、懐かしい景観が彼女を静かに刺激した。
「母さんは元気か?」と父親。
「元気だよ」
「そうか。ところで、氷魚は進路どうするんだ?」
「わかんない」
「私のように文を書けばいい」
「私が?」
「そう。氷魚なら文学の才能があると私は踏んでいるんだ。でも、気が向いたらでいい。そうでないと良い文は書けないからな」
彼女は少し眠った。車に揺られながら。
灰色の空からは真っ白な雪が降っている。それは先に降り積もった白に静かに着地し、白を作るひとつとなる。
彼女はぼんやりとした夢を見た。
アスファルトを歩く自分。自分の歩いた跡は悍ましいほどに汚れている。自分の痕跡という下品なマークがくっきりと残っている。声を出さずに叫んだ彼女は浮遊し始める。アスファルトがどんどんと下になる。そして、彼女は薄氷の下を揺らす鮎の稚魚となる。それの名前は氷魚。そう、彼女のことだ。
彼女が眼を醒ますと、そこは懐かしい家の車庫だった。
「起きたか」
父親は運転席で執筆作業をしていた。彼女が起きるのを待っていてくれたのだろう。
彼女は眼を擦り、車から降りる。不定期の頭痛が脳を揺らす。まるで楽器のように、まるで星のように。
見えるのは銀世界。それは「美しい」という言葉以外が蛇足になるような景色で、彼女は涙を流した。
自分がこんな世界に立っていいのだろうか。
涙は頬を伝って消えていく。
振り返ると父親は先に家に入ったようだった。
彼女は注意深く歩き出した。雪は彼女の踝ほどまであり、歩くのにさえ苦労しながら、池の跡地に辿り着いた。跡地には拙い墓標。その下にはミゾレが眠っていて、起床の時を待ち続けている。
彼女は墓標の前に蹲った。墓標は雪を被って重そうにしている。
彼女は眼を閉じて、在りし日の思い出を再生する。
ミゾレは自分を責めるだろうか。恨んでいるだろうか。でも、それでも仕方がない。仕方がないことなのだ。彼女は自分を肯定できないし、否定もできなかった。
ふと、気配を感じて振り返る。
そこには、何もいない。けれど、何とも懐かしい温かな影が、真っ白で冷たい雪の中にいるとわかった。そして、彼女は歩き出す。彼女が歩けば影も歩き出し、やがては彼女を越して前に出た。しんしんと雪の降る昼下がりを見えない影に誘われてゆらゆらと歩いていく。
街を歩いても誰も見えず、次第に民家もなくなり、彼女は山道を歩いていた。影は一定の距離を置いて進む。彼女のことが嫌いというわけではないようで、彼女が止まれば影も止まった。
雪の結晶が彼女の肩に留まった。彼女はそれがじわりと融けていくのがわかった。彼女の温度によって、美しいものが美しいまま融けていく。彼女は少し微笑んだ。影が振り返った気がした。
雪の積もった山道は、いくら確立された道であるといっても、傾斜や木の根、小さな岩などがあり、安易なものではない。しかし、彼女はそれらに妨げられることなく進めた。それは先導する影が彼女のためにルートを選んでいるからに違いなかった。
きっと、影はこの日を待ち侘びていたのだろう。何度も何度もルートを精査してくれたのだろう。
「……ありがとう」
彼女が無意識にそう呟くと、不可視である影が嬉しそうにしているのがわかった。懐かしい気配を湛えて揺れるのだった。
ああ、そうか。
彼女は歩き出す。ただただ美しい白の世界を、足跡もないままに。
やがて、傾斜を登りきると、そこには予想していた懐かしい風景があった。今は雪で平坦になっているが、ここは放棄された堰堤だ。
彼女は近くの岩に腰掛けた。そして、息を吐く。
美しい世界。
今、彼女はその世界に侵略を試みているのだ。現にここまで歩いてきた。あの頃でさえ、雪が降り、世界が灰色になるまでの間は来なかった場所だ。それを彼女は導かれて歩いてきた。ここは「生きている」世界で、彼女を受容してくれる。それにやっと気付けたのだ。
結局、何もかもが美しい。
真っ白な雪景も、灰色の駅のホームも、赤い夕焼けも、青い空も、黒い夜も、無色透明な他人も自分も、何もかもが美しさを内在させる「生きている」存在なのだ。
彼女は自分が恐れていたものがわからなくなった。
何処か遠くで弾けたような気がした。
視線を前に向ければ、影が楽しそうに走り回っている。走り回って、走り回って、思い出と一致する。
「……ごめんね」
彼女が無意識にそう呟くと、不可視である影が嬉しそうにしているのがわかった。懐かしい気配を湛えて転がるのだった。
彼女は立ち上がり影の方へ。
汚れのない白を意識して踏み締める。
影は離れない。彼女のことを待っているかのように。そして、彼女が影の傍に膝をついて、撫でても逃げなかった。とても嬉しそうに身体全体を震わせるのだった。
「ミゾレ。遊ぼうね」
彼女がそう言った瞬間から、影が色を取り戻し、明るい茶色になった。左耳が垂れたままだ。
彼女はミゾレを抱き締める。ミゾレも幸せそうな顔で応える。疎らに降る雪がふたりを祝福しているようだった。
「あの時は……ごめんね」
ミゾレは首を振る。
もう大丈夫、という言いたげに。
彼女は仰向けになった。ミゾレも彼女の傍に横たわる。
空が青くなり掛けている。
青い空から数えるばかりの雪が落ちてきている。
やがて、灰色の鈍重な雲は姿を消して、光差す青に空は移り変わった。最早、雪は降っていない。白い世界がキラキラと宝石のように、或いは希望のように輝き出す。
「晴れたね」と彼女。
彼女は立ち上がり、空を仰いだ。
意識が途絶える兆し。
彼女はふらふらと歩き、前のめりに倒れる。
彼女の前には、落差五メートルの大気。
ミゾレが駆けてくる。
彼女の消え行く意識は、青の中をミゾレが飛んでいる姿を記録した。
青い水面下を鮎の稚魚が透明に泳いでいる。
やがて、無慈悲に水面は遠退いていくのだった。
彼女が目覚めたのは病室だった。背中が痛むのを感じた。
「お、気がついたか」
父親がいつもと変わらない顔で言った。
「あの堰堤の上から落ちた状態で見つかったみたいだ。良かったよ、本当に偶然、人が通り掛かって。仮に誰も来なかったら凍死は免れなかっただろうしな」
彼はパイプ椅子に腰掛けた。
「背骨に罅が入っているらしいが……退院自体はできるだろう。氷魚も家での療養の方がいいだろう?」
彼女は何も言わずに頷いた。
ずっと、自分の経験したことが夢なのか現実なのか考えていた。でも、きっと、あれは現実で、それは背中が痛むから確かだと思う。
そうであって欲しい。
そう願う彼女だった。
やがて、また雪が降り始めた。それは数日の間、外界との距離感を無効化していた。
雪は三日間降り続け、その白さが灰色になるころに彼女は退院した。背中が痛かったけれど、無理して見上げた空の青さを彼女は知っていた。
あの落下の時の青。
宝石を砕いて鏤めたような、限りなく美しい青。
車の排気ガスで雪が融ける。走った痕跡で汚れていく。彼女はまだ躊躇いつつ辛うじて白い雪の上を歩いた。
秩序の崩れていく音を伴わせながら、一歩一歩確かに、それでいて脆く不確かなままで。
彼女は埋められた池の上に立った。
そして、そこにある墓標を見た。
それは壊れていた。
「雪の重みで壊れたのかな」
父親がそれを見て言った。
「そうかもしれない」
彼女は小声でそう言った。
雨と雪の交ざる頃の景色が頭を過ぎ去った。