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ひとりぼっちのマリア  作者: K.G.Gössner & 絲山雨並
9/10

ひとりぼっちのお姫さま。

9 ひとりぼっちのお姫さま


 天井が、聞いたことのない音を立てて開いていくのを、お姫さまはどうすることもできずにただ見ていた。パラパラと、すき間に詰まっていたレンガのかけらやほこりやらが、床にこぼれ落ちてくる。サッと冷たい、そして、胸をかき立てるような外の風が強烈に舞い込んで、くるくると、部屋の中をかきまわした。天井に開いた口から降り注ぐ光は彼女にはまぶしすぎて、彼女はすぐに目を伏せ、うつむいた。


 ただその一瞬、光の向こうに、人の形をした影があるのが見えた。

 お姫さまは、いつかずっと昔に見た夢のことを思い出しかけたけれども、あまりにも長い間忘れたままになっていたので、どうしてもその記憶を掘り出してくることができなかった。ただなんとなく、なつかしい、という印象だけがあったけれど、すぐにそれにもふたをしてしまった。


 人影が、あろうことか部屋の中に飛び降りてきて、彼女の前に降り立った。

 彼女は体をそむけ、目を伏せた。


 ただその影が、ふらふらとよろめいて、苦しそうなのだけはわかった。

 ずっと昔、理由はもう忘れてしまったが、食事をとるのがイヤになって、あまり食べずにいたときがあった。その時は自分もふらふらしたことがあったので、それだけを思い出したのだった。

 お姫さまは考えた。あのときはなんで食べなかったのだろう。


 お姫さまはこの突然の変化に、もちろん驚いた。

 しかしそれは一瞬のことで、すぐにそれを当たり前のことに変えてしまった。

 ベッドを見た。

 いつものベッド。

 間違いない。


 もし、もっと子供の時に、こんなことがあったら、彼女はきっとどんな夢を見たときよりもうれしくて、この変化から一瞬も目を離さなかったに違いない。


 今は、体も心も重く気だるく、ゆるやかに痺れたままになっていて、動くのを嫌がっていた。


 この変化を発見し驚き喜べば喜ぶほど、それがなくなったあとにまた前のまま変わらない時間が引き続きくり返され始めるとき、味わわなければならない苦しみは大きくなる。


 それはもう嫌なのだ。

 それはあまりにも苦しくて、つまらなくて、こわいのだ。


 夢のこと、食べ物のこと。テーブルのこと。彼女はもうそれを覚えていない。

 彼女は、そのほかのどんなことも、覚えておくことをずっと昔にやめたきり。

 今、目の前で起こっている新しいことに対しても、他にどうしていいのかわからなくて、ただ、次から次へ、忘れて消して捨てるだけ。

 そうしなければ、自分の明日を、守れない。



 途切れそうになる意識を必死でつなぎとめながら、スターオンスは夢にまで見たマリア姫についに出会えたのだと、その想いをかみしめていた。

 着地のショックで、足も頭もフラフラするし、目もかすんで、焦点が合わない。

 今、視界は床いっぱいに敷き詰められたじゅうたんの、白いフカフカの毛並みをぼんやりと映し出している。その片隅に、お姫さまの、マリアの、小さな女の子の、白くか弱い、細くてきれいなつま先が飛び込んで来たとき、心臓が跳ね上がった。


 膝がふるえて、もう立っているのは無理だと分かると、自然に膝をつき、よろめいて尻餅をついた。両腕をつっぱって、かろうじて体を支える。じゅうたんのやわらかさが、心地いい。


 少しずつ視界をあげていくと、鮮やかなブルーのドレスと、そのあちこちにちりばめられた宝石が、まばゆくキラキラと光っているのが目に入った。腰の位置はそんなに高くない。でも、もしかしたら、僕の方が少し背が低いのかなと、スターオンスは思った。


 胸の前で組み合わされた手には、汚れひとつない純白の手袋、右手の指にはエメラルドの指輪、左手の手首にはダイヤのブレスレッド。そして、それらが放つどんな輝きにもまけないほど清らかで、滑らかで、ピカピカ光る、肩から肘にかけての、象牙のように白い肌。


 ほっそりとしたやわらかそうな首元にかかる赤い髪の毛が、彼の視線を一気に引き上げた。

 夢にも見た、なんと鮮やかな赤い髪。

 まるで、ルビーの束を頭にかぶっているかのようだ。

 その髪にかたどられた顔のシルエットは、小ぶりで、形よく、上品で、幼さを宿して、そしてその真ん中に、これもまた、絵に描いたように鮮やかにきらめくエメラルドの瞳が埋め込まれている。


 それはまるで、全身を宝石で作り込まれたとびきり豪華な人形のようだった。


 スターオンスは何度も目をこすって、少しずつ、マリアの顔に焦点を合わせていった。

 こすってもこすっても、視界がぼんやりとかすんでいて、二重にも三重にもぶれて見える。


 二人は長い間、そのまま座り込んでいた。

 スターオンスはもう動けなかったし、マリアは他にどうするつもりもなかった。


 やがて部屋に満ちる魔法のぬくもりが少しずつ少年の体の傷みをいやし、鼻孔をくすぐるやわらかいお香の煙が彼の心に活力を取り戻させ始めた頃、ようやく、彼は一息をついて、目をこするのをやめた。


 そして、今度こそ、お姫さまの顔を、正面から、見た。


 最初に目に飛び込んで来たのは、彼女の眉間に深く刻みつけられた、きついしわである。

 

 そして、への字に曲げられた口元である。


 次の瞬間には、彼の目の前で、少女の全ての存在は、ただその二点に集約された。


 うつむいて、スターオンスがそこにいるのを気にするふうもなく、目には、特に何も映していない。何かを考えているようには見えるけれど、楽しいことでないのだけは確からしい。ひどく不愉快そうで、つまらなそうで、そしてそうあることに安心しているような、それ以外の何も近寄らせたくない、そんな目だった。


 スターオンスは焦った。

 さっき思い出していたはずの、得意の笑顔を、確かにうっかり忘れてしまっていたかもしれない。

 心と体に力が戻ってきていたこともあって、彼はそれらをもう一度ふりしぼり、精いっぱいの笑顔を浮かべて見せた。


 お姫さまは、見てもくれない。

 なんとなく、相手の視界のはしにとまったような気配を感じたけれど、それを示してはくれなかった。


 自分があんまりボロボロの格好でおしかけたから、ガッカリさせたのだろうか。

 確かに、白馬に乗った王子さまというにはほど遠い。

 せめて、立ち上がって、優雅にお辞儀をしてみせよう。

 ひと頃は王宮で貴族さまたちの中にまぎれ込み、優雅な身のこなしと立派な作法でお嬢さま方の人気を集めもしたものだ。


 マリアは顔をあげもしない。

 じっと、何か難しいことを思う顔で、下を見て、ただとりあえず、不機嫌そう。


 スターオンスは戸惑った。

 そして、少しだけ、ムッとした。


 けれども、この人が特別な境遇の人間で、自分や他の人たちと同じように考えてはいけないのだと思い直し、その嫌な気持ちをおさえつけた。


 とうとうどうしていいのかわからなくて、少年は立ち尽くし、彼女と同じように、そのままうつむいてしまった。上目遣いに、ちら、と、お姫さまの様子をうかがってみる。


 彼女は、多分、美しい人だ。

 きっと、かわいらしい女の子だ。


 けれど、今は眉間のしわとへの字の口しか目に入らない。

 鮮やかなルビーの髪も、ダイヤの髪どめも、美しいブルーのドレスも、体中に散りばめられたその他どんな宝石も、今は何の役にも立っていない。ただ付いているだけ、ただそこにあるというだけで、スターオンスの目には入ってきさえしなかった。ただ、眉間のしわと、への字の口元と、うつむいたあごだけが、少女の存在を表現する、全てだった。


 なんと不愉快そうであることか。なんとつまらなそうであることか。

 見れば見るほど、それだけがただえんえんと伝わってくる。


 こういう顔を、スターオンスは街でも見たことがあった。

 道で、広場で、店の中で、よく見る顔だ。


 彼が、とびきり嫌いな顔だ。


 アナタが不機嫌なのはよく分かるけど、なんでそれを、街の中で他の人たちに宣伝して歩かなけりゃあならないの、と、問いただしたくなる、あの顔だ。街でそんな顔を見かければ見かけるほど、彼は自分の顔に笑顔を思い出す。


 でも今は、笑えなかった。あの顔が、今、この場所で、この人の顔の上にあることを、頭の中で処理できないまま立っていた。


 この人は今、そんな、世の中の全ての不機嫌な人たちと、それを競うかのようにして押し黙っている。そして間違いなく自分がその中の一番なのだといわんばかりに。

 もちろん彼女は自分ではそんなことを、これっぽっちも考えていない。

 ただ、そうなっているだけなのだ。

 なぜなら、世の中の他の人たちのことなんて、彼女は知らないのだから。


 スターオンスは、自分がここでやってしまった何かが彼女にそうさせたのだと、最初のうちはずっと思っていた。そのためどうにかしなければならないと焦り、座っても立っても居心地が悪くて、情けない気持ちになった。そして、無理に笑顔を見せたり、おどけたしぐさをして見せたりしたが、彼女はピクリとも動いてくれない。


 いつか、彼は、そのことに気づいた。

 彼女はもう、こういう顔なんだ。


 少なくとも、ここにいる間、ずっとこういう顔をしてたから、そのままかたまってしまったのだ。

 僕がここへ降り立つ、ずっと前から、このままなのだ。

 だから、今も、ただ、それを変えられないでいるだけなのだ。


 例えば、彼女の顔の筋肉の様子や、しわの周りの肌の様子を見てみる。

 それはもう最初からずっとそうだったかのように、あまりにも自然に備わって、馴染んでしまっている。それに気づいたとき、彼はやっと理解した。


 赤ん坊のころ、彼女は無邪気に笑う子だった。


 この塔で、自分なりに色々と楽しみを見つけてすごしていた頃、彼女はいつも花のように笑っていた。


 夢を見るのに、飽きたとき?

 コックが料理を間違えたとき?

 光の中に人が現れる夢を、二度と見ることがないとあきらめて、テーブルを壊したとき?


 きっと、そうした少しずつの変化が彼女を喜ばせ、そしてそれが失われていくたびに、少しずつ、苦しみが増えていった。


 世界には、他のものがあると初めて知った頃、何か新しいものが欲しいとわめいていた頃、彼女は苦しかったし、泣きもしたし、不満だったけれども、それでもそこには色々な表情がいつも花を咲かせていた。


 笑顔が花咲く日もあった。

 けれどいつか彼女は、それが、もう与えられない、ということに、慣れるしかないことに気づかなければならなかった。


 いつもいつもそのたびに、ガッカリさせられなくてもすむように。


 そうしてどうにか、ずっとすごしていけるために。


 実は世界のどこかにあると知ってしまった新しいものや、まだ知らない何かに対して、心を閉ざすやり方に、慣れる以外にどうしようもなかったのだ。扉の取っ手に手をかける代わりに彼女は、眉間にしわを刻み、口を閉ざし、うつむいてすごすやりかたで、時間をやり過ごしてきたのだ。


 それが、ついには、彼女自身を表すものになったのだ。


 何を着ても、何を身につけても、どんなにすばらしい姿をしていても関係ない。

 不満足であることと、それを不機嫌に受け入れてつまらなく居続けることが、彼女の顔や名前にとってかわって、彼女自身になったのだ。

 長い長い時間をかけて。

 必ずしもそうしたかったわけではないのだろうに。


 スターオンスはマリアの手をとって、顔を近づけ、その瞳を覗き込もうとした。

 彼女は、わずらわしそうに、みじろいだ。


 ああ、王さま、ダメだったよ。

 あなたのやり方では、この子の笑顔は守れなかった。


 いつなら、間に合ったのだろう。

 彼女が、自分はひとりぼっちなのだと気づいてしまったのは、いつだったのだろう。


 気づいてしまった後で、そのことにあらがうこともあきらめて、本当の本当にひとりぼっちになってしまったのは、いつだったのだろう。


 スターオンスの瞳から、涙がこぼれた。


「遅くなって、ゴメンね…」


 少女の瞳が見開かれ、絶叫が部屋中にこだました。

 少年は、自分が何をしてしまったのか、理解した。

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