ひとりぼっちじゃない盗賊。
8 ひとりぼっちじゃない盗賊
旅人にして詩人にして盗賊のスターオンスから見れば、その塔をよじ登っていくこと自体は、それほど難しくなかった。
彼はこれまでにいくつもの城壁を乗り越え、王宮にもぐり込み、時には切り立った岩壁を這い上がり、手がかりのない氷の壁をよじ登ったことさえあったから、それに比べれば、このレンガ造りのでこぼこした壁などは、楽すぎてつまらないくらいだった。
ただ、その高さだけが問題だった。
『強い願いだけが、何かを変える力になる』
たしか、二人目の魔女が言っていた。
エッダはカエルの呪いを解きたくて、それについていってしまった。
ところであの魔女自身は、自分で、そんなにも強くはっきりと、迷いのない願いをもって行動したことがあるんだろうか。
今や彼には迷いはなかった。
不安はあったけれど、心配もあったけれど、もう、やるしかないと決めていた。
以前のような、英雄的な勇気や力はもう出てこなかった。
けれども、今は絶対に、負けるつもりがなかった。
「またお前か、何をする気だ?」
塔の下で意識を取り戻したとき、最初に聞こえたのは、門番の怒鳴り声だった。
槍を構えてすごんでいたけれど、最初の魔女のあの怒鳴り声に比べれば、蚊が鳴いているようなものだった。むしろ、ああ、あの時と同じ人だ、と思うと、妙に安心してしまった。なつかしいうれしささえ感じた。実際、あれから何日くらい経ったのだろうか。
「ちょっと上まで行って来ます。迷惑はかけませんよ」
力いっぱいほほ笑んで、塔に駆け寄る。
久しぶりに、こんなふうに笑顔を人に見せた気がした。
待て、と叫んで門番がかかってきたが、スターオンスはねずみのような素早さでサッと塔にとりつくと、まるではじめからそういう生き物であるかのように(例えば、木を這う虫のように)スッスッと手がかり足がかりをさぐりあて、上へ上へと登って行ってしまった。
門番は焦って、目を丸くして、怒鳴りつけた。
待て、待て、と何度も叫んで、槍を手放し鎧を脱いで追いかけるべきだろうかと、少しだけ考えた。上へ上へとあがっていった少年の姿が豆粒よりも小さくなってしまうと、門番はついに黙り込んで、気恥ずかしそうに周囲を見回した。
何事かとおどろいて遠巻きに様子をうかがっていた人々が、サッと目をそらして逃げて行った。
門番は、ずれた鎧を直し、威厳を保った風をして、また扉の方へ戻って行った。
そうとも、扉を守るのが私の仕事だ。
やれることはやったが、塔を登って行ったものを、追いかけて自分も登るなんて、それはこの仕事の責任ではない。門番は自分で納得して、満足した。
それに、どうせ上までなんて、登れやしないだろう。
スターオンスがもし、自分でうたう詩の主人公だったなら、こんな塔を登るのはあっという間のことだっただろう。
もちろん、主人公に苦難はつきものだ。
強い風に振り落とされそうになったり、塔に巻き付いたイバラに苦しめられたりするかもしれないし、怪鳥ガルーダや、ドラゴンが飛んで来て、行く手を阻んだりするかもしれない。それでも主人公は決してくじけず、困難をすり抜け、立ち向かい、乗り越えて、ますます力強く上へ上へと登って行くのだろう。
塔を登り始めて、三日か、四日が過ぎた。
かすむ視界を、目を細めて見定め、上を見て、下を見る。
てっぺんはいまだに雲の中。地面の方が、多分、まだ近い。
もっとちゃんとした準備をし直して、再び挑戦するためにいったん戻るとしたら、今がそうする最後のチャンスかもしれない。そんな考えが、もう何十回、頭の中で回転したろうか。
腹は減っていた。けれど、これまでの人生で、もっと食べられない時だってあった。
それよりも、のどのかわきの方がつらかった。
雨が降ってくれれば、とも思ったが、しかしそうなれば体は冷えるだろうし、壁は滑りやすくなるから、きっと、余計につらくなるばかりだろう。これも、もう何十回も考えたことだった。
昔、砂漠を旅した時に、本当に死ぬギリギリまで水が飲めなかったことがある。
それに比べれば、たかだかまだ三日。四日か?
とは言え、こればっかりは簡単に慣れるものではなかった。
自分で自分をごまかすのにも、限度がある。
指先はしびれて、今にも全部の力が抜けてしまいそうだった。
足は何の前触れもなく突然ふるえ出して、足がかりを踏み外す。
体中が、今、何をしているのかを不意に忘れてしまう、そんな瞬間が来るような気分が離れなかった。ただしがみついているだけで上にも下にも行けず、じっとしているだけの時間が、少しずつ長くなってきていた。
空腹にもかわきにも増して、耐えがたいのが眠気だった。
ただでさえ、少しでも気を抜けば踏み外して落ちてしまいそうになるのに、眠るなんてできるわけがない。
食わず、飲まず、眠らず。
指先のしびれが、体中に染み広がっていく。
心臓が変なゆれ方をしている。
自分が何を見ているのかも、何を考えているのかも、だんだんよくわからなくなる。
息をするのさえ忘れそうになって、あわてて空気を吸い込んだ拍子に、その勢いではずみをつけて、一歩二歩、上へにじり寄る。
そして、また動けなくなる。
ひとつだけ、楽になる方法がある。
それだけは、どんなに腹が減っても、のどが乾いても、眠くて意識がもうろうとしても、はっきりとわかっていた。
手と足をはなして、落ちてしまえば、すぐに全部おわる。
きっと、下につくまでに簡単に意識を失うだろう。
痛いとか、苦しいとか、何も思う必要はないだろう。
体中の苦しみが一瞬でなくなって、何も考えなくてもよくなって、おしまい。
これまでの人生で、もう死んでしまいたいと思うことが、彼にもあった。
彼の友人や、ちょっと知った他の人たちからも、よくそんな言葉を聞いた。
色々な悩み、色々な苦しみ、色々な事情がそれぞれにあって、皆、戦っていた。
中には、残念なことだけれど、本当に死んでしまった人もあった。
ただ少なくとも僕は…スターオンスは考えた…少なくとも僕はこれまで、ここまで戦ってみたことはなかったな、と思う。
苦しくて、どうにもならなくて、なにもかも無理だとふさぎ込んだ時、それでもここまでのことをやろうとまではしなかった。
もちろん状況は違う。
しかし一方で、なにかここから先はできないことだというラインが勝手に自分の中にひかれていた気がする。
なんだ、やってみればなんだかできてしまうこともあるんだな。
もう十分かな。
もう自分を許してやって、楽になっても、もう、今ならいいかもしれないな。
でも、ここまでやってるんだから、どこまでできるか、もうちょっとやってみるか。
他のみんなは、どうなんだろう。
他の人のことは、分からないや。
気がつくと、また体が登り始めていた。
ここまる一日くらいの間で、何度ももうダメなんだろうと考えたけれども、ずいぶんと順調に進めているのでおかしかった。
ふうん、人間の体って、このくらいのことなら、まだ動くんだな。大したもんだな。
誰かが言ってたっけ。絶対にやるんだっていう、強い願いが、多分、今の僕にはあるんだろう。
本当かな。
風は冷たく、それから何日目かにはとうとう降り出した雨が、少年の体をさらに凍えさせた。
雨が頬に降り落ちた最初の一瞬、パッと目が覚めて助かったような気がしたけれども、そのあとしきりに全身を叩き続ける水滴に耐えるうち、みるみる意識はまた遠のいていって、今度こそダメだと思った。
全身の力を集めて、ひたすらにしがみついているのが精いっぱいで、雨が降ったらのどをうるおそうと考えていたことなんて、完全に忘れていた。
やがて雨があがり、雲間に虹がかかる頃、彼はまたずるずると塔を登り始めた。
空気が薄くなっていくのも、深刻な問題だった。
ただでさえ、心臓も肺も弱っていて、普通に息を吸い込む力も足りないくらいだった。
めまいがし、吐き気がした。
頭痛がして、耳鳴りがした。
心臓は追いつめられていく一方で、何度も不規則にけいれんしていた。
あまりにもそれらのことが一度におそいかかってくるものだから、ついにはそれら全ての苦痛がもうどうでもよくなってしまった気がした。
彼はリュートが好きだった。森の魔女のことも、嫌いじゃなかった。
いつか、一緒に働くことができれば、もちろんその方がうれしいに決まっている。
でも、僕にはやりたいことがあった。
彼はエッダが好きだった。図書館の魔女のことは、尊敬できる人だったと思う。
カエルがどうなったかは分からないけど、うまくいって、エッダが幸せになれたら、本当にいいと思う。僕にももっと手伝えることがあったのかな。あの魔女には、もっといろんなことを教えてもらえたかもしれないな。
でも、僕にはやりたいことがある。
彼はポーのことを思い出していた。かわいい、素敵な魔女だった。
僕たちはお互いのことを、なぜだか、少しずつ知っているらしかった。結局、彼女が僕に勇気をくれた。もっと、お互いに、知り合えたら、もっとうれしい気持ちになれたかもしれない。僕が今、こうして上へ上へと進めているのは、僕自身のため、マリアに会いたいため、マリアのため、そして、そしてあの魔女のことを、裏切りたくないため。
彼女がくれた勇気を、裏切りたくないためだ。
僕は今、本当にやりたいことのために、動いている。
そのためにみんなとは別れ別れになったけれど、でも、本当だ。
僕はひとりぼっちじゃない。
太陽が彼に力をくれた。
中と外と、両方から、スターオンスは自分がどんどん熱くなっていくのを感じていた。
きっと行ける。今なら、行ける。だから、行くしかないんだ。
何日も何日も、彼は登り続けた。
手は血だらけになり、服はボロボロになり、顔は落ちくぼんで、死人のように青ざめていた。
どんなに勇気をふるいおこしても、雨と風と空腹とかわきと眠気とが、それをくじいて奪っていった。そのたびに彼は動けなくなり、また奮い立ち、登り、またくじかれた。何度も何度も彼は奮い立ち、何度も何度も、またくじかれた。
彼は泣いた。泣きながら塔の壁に這いつくばり続けた。泣いても泣いても、助けはなかった。
つらいことの方が、大きくなるばかりだった。
友人たちのことを思い出して心をあたためても、もう今は彼らがいないのだと思うと、またすぐに冷めてしまった。そんなことの繰り返しが、何日も何日も、続いた。
スターオンスという名の美しい少年は、もうほとんどいなくなっていた。
壁を登る、血だらけの枯れ木のような生き物が、黙々と、太陽に近づいていった。
何日が過ぎたのか、もうあの門番も数えるのをやめていた。
あるとき、ある瞬間。
少年を責め立て苦しめ続けた全てのものたちが、この生き物をくじいて止めることを、あきらめるその時が来た。
少年は、塔の頂上に立っていた。
ポーが言っていた通り、そこには入り口らしい取っ手がついていた。
ようやくたどりついた屋上にうつぶせに倒れ、淡い空気を何度も呼吸した。
少なくとも、もう力を抜いても落ちることはない。それを思うだけで、今にも全身の神経が切れて、なにもかもがはじけ飛んでしまいそうだった。
ちょっとくらい眠っても、大丈夫かもしれないと思ったが、何が理由でここまでのことが台無しになるかもわからないと思うと、こわくてできなかった。
『旅はいつでも、最後がかんじんなんだ』
これまで旅路を共にしてきた人たちと、様々なとき、言い交わし合ったその言葉が、血と空気が足りなくてもうろうとする頭に、鮮やかにひらめいた。
長い旅ほど、つらい旅ほど、最後の最後に気をつけなければならない。
さんざんな苦労をした後で、最後に、家の扉の前で馬に蹴られたんでは、目も当てられない。
今こそが、その時だ。
スターオンスは頭をゆすっておさらいをした。
自分が何をするべきか、そして、何をしてはいけないのか。
そうだった、とにかく、しゃべっちゃいけない。言葉はなし。
それでもって、相手をこわがらせないように、笑顔で。
彼は長年磨き上げた得意の笑顔を、疲れきってやつれ果てた自分の顔の中から、どうにか探しだし、掘り起こして、そこに精いっぱいの愛情をこめてみた。目は落ちくぼみ、頬はこけて、くちびるはカサカサ。どうしたってひどい顔だろうけれど、会えてうれしいんだってことくらいは、きっと、どうにか、伝えることができだろう。
大丈夫、旅の疲れに、僕はまだ負けていない。
熟練の旅人らしく、今こそ、最後をやりとげよう。
ここからこそが、本番だ。
彼はもう一度、冷たくかすんだ天空の大気を思い切り胸に吸い込むと、取っ手に両手をかけ、そして、その手に力を込めた。




