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ひとりぼっちのマリア  作者: K.G.Gössner & 絲山雨並
7/10

夢と、現実について。

7 詩人と三人目の魔女


 スターオンスは夢を見た。

 これまでに彼がしてきたたくさんの冒険、そして、これからすることになるのかもしれない、たくさんの出会いと旅の夢だった。


もっとも夢の中のことであるから、現実に彼が体験したことや、この先本当に起こりそうなことと、必ずしもつじつまが合っているわけではなかった。むしろ、全然合わないものの方が多かった。後になって、さめた頭で考えればもちろんおかしなことばかりだったのだけれど、夢の中にいる限り、彼にとってそれは、生々しいほどに自分自身の体験なのだった。


 彼は竜と話していた。

 彼は羽の生えた人々と戦っていた。

 彼は真っ白な海を冒険し、魔物と戦った。

 彼は魔法の力で花の妖精を生み出し、彼女に恋をした。

 黒い鎧に身を包んだ女が、泣きながら、彼を刺し殺した。

 彼は世界を滅ぼす力を手に入れ、そして、それを見つけてくれと彼に頼んだ相手を滅ぼした。

 彼はさえぎる物のない荒野を、ただ一人ゆくあても知れず歩き続けていた。


 彼はいつでも夢を見て、その夢の中で生きているような気がしていた。

 時々、誰か他の人の夢を一緒に見たり、その夢の中に入っていって、次から次へ、渡り歩いていた。


 彼は空を飛ぶ船の中で、仲間たちと(その中にはエッダにとてもよく似た女もいた。間違いなくエッダだと思ったけれど、その女は黒髪ではなく金髪だったし、耳がとがっていた。とりあえず、夢の中ではそれが誰なのかよくわかっているらしかった)次の行き先について口論した。


 そんなたくさんの夢の景色の中で、何度も何度も、スターオンスの目のはしに、心のどこかに、たびたびあらわれかすめる少女の影があった。小柄で伏し目がち、真っ赤な髪と緑の瞳、スターオンスや、その他本当に心を許せる少しの人々の前でしか見せない、遠慮がちなほほ笑み。


 その影を見かけるたび、意識のはしにとらえるたび、夢の中のスターオンスはそちらにむけて手を伸ばし、声をかけ、もっとよくその姿を見ようとした。そして、必ず、そうしようとするたびに決まってその夢の情景はかき消され、次の夢に移っていくのだった。


 次の夢の中で、彼はたくさんの騎士たちをたばねる隊長だった。

 最後の決戦を前に、彼を心から信頼している騎士たちが、整然と武器を構えて居並び、命令を待っている。彼もまた、彼ら一人一人のことが大好きだった。たくさんの、よく知っている顔が、戦いを前に決意を秘めて立っていた。リュートの顔もあった。リュートが鎧を着て整列しているなんて、おかしな気がしたけれど、今はそれが当たり前なんだと、すぐに理解した。


 大きな、激しい戦いになるだろう。スターオンス隊長は胸を傷めた。

 この戦いに勝って、平和な国を取り戻さなければいけない、今がその時だ。

 そのために今まで皆で戦ってきたのだ。

 そのために皆で心を合わせて乗り越えてきたのだ。

 しかし、この戦いで、全員が無事でいられるのは、難しいだろう。

 何人かは、命を落とすかもしれない。


 その全ての責任は、彼にあった。

 もっといい作戦が作れたんじゃないのか?

 部隊の編成は、本当にこれが一番いいだろうか?


 そもそも本当に今、ここで、こんなに素晴らしい仲間たちを、戦わせなければならない意味が、あるのだろうか?


 隊長であるスターオンスにはわかっている。

 今はもう、そんなことを考え直して悩んで、迷っている時ではない。

 今は、やるときなのだ。


 それでも心は傷んだ。

 この戦いで、何がどうなったとしても、全て、自分のせいなのだ。


 彼の手に、誰かの手がふれた。


 小さく、やわらかく、あたたかい指先だった。

 振り返ると、かたわらに彼女はいた。

 赤毛の神官、夢見る巫女、小さき預言者、マリア。

 どんな時も、かたわらに立つ彼女の存在が、心の支えだった。

 その神秘的な能力以上に、その存在が彼の支えだった。

 彼を勇気づけ、奮い立たせ、そして、今、力を尽くして何かを成しとげねばならない、その意味を、思い出させてくれるのが、この小さなマリアの存在だった。


 彼は決意した。剣を高くかかげると、全ての騎士たちが、隊長の動きにならった。

 彼は吠えた。その小さな体、穏やかないつものほほ笑み、詩を愛する少年の、愛嬌あふれるいつもの声からは、想像できないくらいに強く、猛々しい、決意をとき放ち敵をすくませる、戦士の雄叫びだった。


 視界いっぱいに整列する騎士の全軍が、一斉に和して吠えた。

 二度、三度、騎士たちは一体の巨大な獣のように咆哮し、うねり、熱気を放ち、渦巻いた。


 かたわらで、マリアも負けじと吠えていた。

 強く、美しい声だった。



「…スターオンス、スターオンス…」

 どこか遠くから、甘く清らかな声が、ただよってきた。


「…スターオンス、スターオンス…」

 それは彼の名だった。

 聞いたことがある声のような気もしたが、思い出せなかった。

 優しい、少女の声。少しいたずらっぽい、何か知っていることをかくしている人のような声。

 それでいて、あたたかく、甘く、すずやかな香りを放つ声。


 スターオンスは次第に、自分が今は眠っていて、まさに目覚めようとしているのだと気づき始めた。この声と香りをもつ少女は、彼を起こそうとしているのだろう。


 旅慣れた彼は、普段ならどんな場所で眠っていても、すぐに目覚めてさっと動きはじめる技術にたけていた。だから、心地よいまどろみにあらがうすべがなく、まして、すぐそばで見知らぬ誰かが自分を起こそうとしているというのに、もっとこうして目を閉じて転がっていたいという気持ちに勝てないのは、おかしなことだった。


 少しずつまぶしく、白くなっていく景色の向こう側で、騎士や竜や妖精や、エッダに似た女や、たくさんの知った顔がまたたき入れかわり、スターオンスに何事かささやこうとし、次々に光の中に遠ざかっていった。

 彼はそれを惜しんだ。

 もっと、もっと彼らと一緒にいたかった。

 もっと、もっと彼らのそばで、やらなければならないことがある気がして、その思いを手放せなかった。しかしどんなにあらがっても、広がっていく白い輝きが全てを塗りつぶしていく力の方が、ずっと強くて、早かった。


「お寝坊さん、キスしちゃうぞ」

 いたずらっぽい猫のような声が再び耳元でささやき、スターオンスの、ほとんど目覚めかけていた脳みそはその意味を瞬時に理解した。瞬間、彼はバッと目を開いて跳ね上がり、両手でくちびるをガードした。


「そんなに嫌がらなくってもいいじゃない」

 少女の笑い声がこだました。


 不思議な部屋だった。


 壁も天井も床も真っ白で、どこに出入り口があるのか、ざっと見渡した限りではわからなかった。

 窓もなく、身を隠せそうな場所もない(彼はどこでも、まずはそういうものを探すのが習慣だった)。


 ろうそくもランプもなく、窓もないのに、部屋の中は昼間のように明るい。

 白い壁や天井が自分から光を放ってでもいるのだろうか。

 そう思って壁を見つめていると、突然その真っ白な壁に花柄が浮かび上がり、生きている花畑のようにザワザワとゆらめいて香りをただよわせた。


 他には何もない。


 今、彼が寝かされていた白いフカフカのベッドだけ。

 そして目の前に、おもしろそうに彼を観察している少女が一人。


 この部屋と同じくらい、不思議な少女だった。

 年はスターオンスと同じか、少し上だろうか。

 彼は実際の年齢よりもだいぶ幼く見える顔をしているし背も低いので、本当はどうであれ、見た目には、向こうの方がちょっとお姉さんという感じだった。

 褐色のきれいな肌に、青い瞳と純白の雪のような髪が、よく映えている。口元はキリッとして、一見優等生風だが、目元が幼さを宿していて、やんちゃな好奇心に満ちて見える。

 あどけなさと、奇妙な魅力をにおわせるいじわるそうな感じが、同居した印象だった。


 首元から、足先まで、ひとつなぎの白い革のスーツで体をぴったりと覆っている。

 体の形がそのままわかるような服だけれど、まだそれほど成熟していないせいもあって、女の色っぽさよりは、少女の活発さの方が際立って見えた。

 ただその服には、どこにも縫い目やつなぎ目やボタンらしいものが見当たらないので、どうやって着るのだろうかと、妙に冷静に考えてしまっていた。


「君は?」

 まだ覚めきらない頭で、ぼんやりとつぶやいた。


「私のこと、探してくれてたんじゃなかったの?」

 あどけない目だけをニッとほほ笑ませて、白髪の少女が問い返した。

 彼女が首をかしげたり、身じろぎしたり、表情を変えたりするたびに、部屋中の白い壁と天井のどこかがゆらめいて、花を咲かせたり、虹を描いたりした。

 スターオンスは、まだ夢の中でさっきの続きを見ているような、おかしな気分になっていた。


「ああ…」

「思い出した?」

 少しずつ、さっきまで見ていた夢と、その前までの現実との境目が、はっきりしてきた。


 自分が誰で、何をするために、どうしていたのかが、じわじわと意識に追いついてきた。

 そして、はっきりすればはっきりしてくるほどに、心は重く、暗く沈んでいった。

 体中がひどく疲れていて、心はもっと疲れていた。

 どうしてさっき、あんなにも目覚めるのに手間取ったのか、やっとわかった気がした。


「うん…僕たちは、あなたを探してた。でも僕は一人になってしまって、どうすればいいのかわからなくなってしまっていたから……忘れてた」

「ひどーい」

 少女は口をとがらせた。その時スターオンスの中で、何かが跳ねてはじける音がした。


「ごめんよ、ポー」

 少女の目が、くるくるっとうれしそうにゆらめいて、少年の困った顔を映し出した。頬が我知らず赤く熱くなるのを感じて、スターオンスは思わずうつむいた。


「わたしのこと、覚えてるの?」

「いや…」

 口ごもり、頭の中を整理してみる。

 記憶にはない。

 なぜだか勢いで飛び出した名前だった。


「なんだか、さっきの夢の中で見かけたような気がした……気がする。

 それとも、起こしてもらってた時に、何かのきっかけで耳に入ってきてたのかな」

「そうかもね」

 少女は少しつまらなそうな顔をして、ぽすん、と、少年のかたわらに腰をおろした。

 ベッドに並んで座り、二人はしばらくの間、正面の壁を黙って眺めていた。

 見たことのない花ばかりの、花畑だった。


「思い出させてあげたいのはヤマヤマだけど、あなたには今、もっと先にやらないといけないことがあるのよね。だから私のことは、三人目の魔女さん、で十分よ。でも、名前を呼んでくれてありがとう」

 ほっぺにキス。

 スターオンスはますます居心地が悪くなって、うつむいて、もじもじしてしまう。


 おかしいな……いつもは別に、これくらいのことでうろたえたりしないのに……。


 どちらかというと、普段はスターオンスの方が、見知らぬ女の子になれなれしくし過ぎて相手を困らせることが、多いくらいなのだった。

 僕は一体どうしちまったんだ。それとも、相手が彼女だからなのだろうか?

 どうも調子がくるっていた。

 この少女の手にかかると、旅なれ世故たけた自由の人スターオンスも、ただのかわいい小さな弟のようになってしまうのだった。


「やらなきゃならないことが、あるんでしょう?」

 <三人目の魔女>がささやいた。

 スターオンスには、わからなくなっていた。


 リュートと一緒に<しあわせの森>の魔女を手伝うことの方が、もしかしたら大事なことだったかもしれないのに……それでもマリア姫を助けたいと思うのは、小さな自分のわがままなんじゃないかと思うと、気持ちが重くなった。


 図書館の魔女が言ったように、お姫さまが自分からそうなりたいと強く願ってもいないことを、勝手におしつけて、いいことをしてあげたような気になって……その上、その先のことに責任をとる自信がないなんて。自分のことが、ひどくひどく幼稚に思われて、泣きそうだった。


「それでも、会いたいんでしょ?」

 ポーの青い瞳は、全てを見通しているかのようだった。

「そうだね」

 スターオンスは、泣きそうな声で笑った。

「助けてあげなきゃいけないなんて、そんなことじゃなかった。

 ただ僕が、その子に会ってみたいだけなんだ」


「いいんじゃない」

 壁をいろどる花畑が、また、景色を変えた。

「だって結局、よかろうと悪かろうと、ありがたかろうと迷惑だろうと、人と人っていうのは、出会ってみてからしか始まらないんだもの」


「…やりもしないで、こうすれば絶対大丈夫なんていう、ありもしないことを考えて時間ばかり使うなんて、イヤ。結果が出てから、また新しく考えればいいじゃない…」


「別れた友達の言葉を思い出すのって、つらいよね」

 ポーはさびしそうにつぶやくと、ずるずるとくずおれて、そのままスターオンスの膝にちょこんと頭を乗せ、ねそべった。膝の上に、気持ちいい重みと、ぬくもりが広がった。


 本当に猫みたいだ。

 スターオンスはほほ笑んだ。

 夢から覚めてから最初の…もしかしてもっと前から忘れていた…本当に久しぶりのほほ笑みのように思われた。

 大きくて、白い、猫。


「ふたつ、教えてあげる。塔のひみつと、お姫さまのひみつ。

 どちらも、あなたにとって大切な話よ」


 スターオンスの膝の上で、壁の方に顔を向けたまま、少し冷たい口調で魔女がつぶやいた。

 息をのんで、耳をすました。


「お姫さまの部屋の扉が中からしか開けられないのは知ってるよね。

 でも一カ所だけ、外から入れる場所があるの。

 天井よ。塔を外から登って行って、一番上に着いたら、てっぺんにある小さなフタを開けなさい。

 お姫さまの部屋の天井がパカリと開いて、感動のご対面、というわけ」

 スターオンスは胸を躍らせた。

 そして、雲まで届く塔の高さを想像し直して、真っ青になった。

「大変ね。でも、あなたならきっとできるわ」

 魔女の言葉は、まるっきり他人ごとのように、そっけない。


「もうひとつは、お姫さまのヒミツ。

 あの子が、生まれる前の、まだお妃さまのお腹にいた頃の、お話…」


 部屋の明りが、スウッとうすらいで、やがて真っ暗になっていった。

 ただその暗闇の中で、自分自身の姿と、膝にうずくまる魔女の姿だけは、そのままはっきりと見えるのだった。

 魔女はうたうように、つぶやくように、流れる言葉を解き放った。



 むかしむかし、ある国で、お妃さまのお腹の中に、子供が宿りました。

 王さまはとても喜んで、国中からすぐれた魔女を呼び集め、その子の将来について予言をさせました。


 一人目の魔女は、とても忙しい魔女でした。

 だから一番簡単なことだけを、サッサと王さまに告げました。

「生まれてくる子は、女の子でしょう」


 二人目の魔女は、とてもかしこい魔女でした。

 だから、一番言いにくいことを、はっきりと王さまに告げました。

「この子が生まれると、お妃さまは亡くなってしまうでしょう」


 三人目の魔女は、とってもまじめな魔女でした。

 だから、一番大切なことを、王さまに告げました。

「この子には特別な呪いがかけられていて、それは誰にも解くことができません。

 この子は世界に生まれ落ちたあと、ほんの一言でも人の言葉を耳にすれば、たちまち心がこなごなにくだけ散って、バラバラになってしまうでしょう。この子に人の言葉を聞かせてはいけません。そうしたらこの子は一生、泣きながら苦しみながら、人に生まれたことを恨みながら生きることになってしまうでしょう」


 王さまは怒り、嘆き、苦しみ、そして悩みました。

 生まれてくる子は、世継ぎではないのです。

 生まれてくる子は、愛するお妃さまの命をうばうのです。

 生まれてくる子は、一生誰からも話しかけられてはいけない、特別な、呪われた子なのです。


 王さまは、暗い心の中で、この子を生まない方が全てうまくいくのではないかとさえ考えました。

 たくさんの、信頼できる大臣たちも、王さまの考えに賛成でした。


 ただ一人、お妃さまだけが、絶対に、それを許しませんでした。


 王さまとお妃さまは長い長い時間をかけて、話し合いました。

 本当に二人は、お互いのことを愛して大切に思っていましたから、余計に、この話し合いは長引きました。

 王さまには、この子は大事でした。

 王さまには、お妃さまも大事でした。

 王さまには、この国のことも、大事でした。

 たくさんの人の意見を聞きました。

 王さまは自分で旅をして、世界でもっともかしこい賢者のところへこたえを聞きにも行きました。

 大臣たちも、女官たちも、みんながみんな、このことで悩み、考え、自分の問題のように苦しみました。


 王さまとお妃さまは、その上で、もう一度気持ちを確かめ合いました。

 二人はほほ笑み合い、涙を流し、抱き合って、キスをして、そして、この子を生むことに決めたのでした。

 女の子が生まれ、お妃さまは亡くなりました。


 三人の魔女は、王さまの願いを聞き入れて、この女の子の心がこわれなくてもすむように、誰の声も決して届かない、高い高い塔をつくりました。

 お姫さまは今もその部屋の中で、静かに、何も知らずに、ひとりぼっちですごしています。



「カン違いしないでね」

 壁の方を向いたまま、静かな口調で魔女が言った。

「私がこの話をしたのは、あなたの心をくじくためではないのよ」


 スターオンスは動けなかった。

 さっきまで、上向きになりかけていた決意が、また、どうしようもなく容赦のない冷たい大きなハンマーで打ち砕かれた気持ちだった。魔女の言葉も、ほとんど届いてこなかった。


 全てが、身勝手な大人の悪だくみだと思っていた時は、簡単だった。

 自分の体の中に、どんなすごい力でもわいてくるのを知っていた。

 自信、正しさ、お姫さまの笑顔、それらが、彼にただの人間以上のどんな力でも与えてくれる源なのだった。


 それが今、何も残っていない。

 ひとつ、またひとつ、伏せてあったカードがめくれて真実が顔を見せるたびに、彼からその力が奪われていく。


 この旅を始める前、門番と言い争っていたあの頃、彼はヒーローだった。

 今はただの人間、ただの子供だ。

 友達は、それぞれの道を見つけて、行ってしまった。

 自分が勝手に信じていた正しさも強さもどこかに飛んで消えて、今は真実だけが重りのように彼をおさえつけている。


 涙がこぼれた。

 何の涙だろう。

 こんなとき、多分、人は、情けない、という言葉を選ぶだろう。

 英雄の涙ではない。小さな小さな人間の涙だった。

 魔女は膝の上で背中を向けたまま、やわらかい頬を彼の脚にすりつけていた。


「なら僕は、絶対に声を出さない」

 噛み締めたくちびるに、血がにじんでいた。


「それでも僕はあの子に会いに行く。

 あの子に空を見せて、雲を見せて、太陽を見せて、風を感じさせて、そして、世界には、僕がいるんだってことを、知らせに行く。

 何も言わない。何も聞かない。絶対に、言葉は使わない。

 ただ手を握りしめて、抱きしめて、世界には、人のぬくもりがあることを、僕の熱をあの子が感じることができるんだっていうことを、示しに行く。

 誰かが、あの子を守りたいと思ったこと、誰かが、あの子に会いたくて訪ねてきたことを、ただ、見せたい。そのために、僕は行く」


 我知らずポーの肩に置いていた手を、彼女が、そっと握り返した。

 振り向かず、彼女はささやいた。


「皆が、それぞれに正しいと思うことのために旅立って行く。

 忘れないでね。あなたにも、そうする自由がある」

「皆が、僕から離れて行っても?」

「皆があなたから離れて行っても」

「誰かが、そんなことをしても無駄だと言っても?」

「誰かがそんなことをしても無駄だと言っても」

「誰かが、そんなことは、しない方がいいんだと言っても?」

「誰かがそんなことはしない方がいいんだと言っても」

「そのせいで、僕がひとりぼっちになってしまったとしても?」

「そんなことには、絶対にならない」

 魔女が握り返すてのひらに、熱い汗がにじんだ。

「絶対に、あなたは一人じゃない」


 部屋中の壁と、天井と、床が、たくさんの風景を入れかわり立ちかわり、映し出しては消え、うつろい、またたいた。

 空と、山々と、大地と、海と、風と、花と、人々と、街と、虹と、歌と、生命と、喜びと、かなしみと、太陽と。

 二人は目を輝かせてその光景を眺めていた。胸が、あたたかかった。


 スターオンスは、どうしてだか、この小さな魔女にキスをしたい気持ちでいっぱいになって、彼女を見た。少女は膝の上でクルリと仰向けになって、そしていたずらっぽくほほ笑んだ。

「うれしいけど、あの子のために、とっておきなさい」


 少女と部屋が一度にかき消え、視界の全てが一瞬、真っ白に焼き付いた。

 頭がぐるぐるして、二、三歩よろめいた。


 気がつくと少年は、塔の前に立っていた。

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