選択と、情熱について。
6.美女と二人目の魔女
「なるほど、話は、よくわかった」
二人目の魔女は、丸い眼鏡の奥で灰色の瞳をスッと細めると、落ち着いた声でつぶやいた。
手に取った長いキセルに唇を付け、口の中に煙をためて転がすと、ぷすうっとそれを吹き出した。
机の上には本の山。両の壁にも本の山。部屋中全部、本の山。
痩せぎすで、チリチリの髪を適当に伸ばしているが、身なりはきちっとしていて、立派に見えた。
足下を、健康そうな黒猫が身をくねらせて行ったり来たりしている。
ときおりエッダの胸元にその黄色い目を走らせてゴロゴロとのどを鳴らしたが、カエルは最初に引っ込んだきり、そこから片目も出そうとしなかった。
スターオンスとエッダは、客用の広いソファの上に、並んでちょこんと腰かけている。
少なくともこの上品そうな老女は、二人を客として扱って、話を聞いてくれたので、気持ちはいくらか楽だった。二人とも、もうできるだけ、リュートのことは思い出さないように気をつけていた。
「ところであんたたちは、お姫さんを助け出して、そのあと、その子をどうするつもりなんだい」
煙をぷかり。
二人ともタバコは苦手だったが、この煙は何か心を落ち着かせる、なつかしい、いい匂いがするので、むしろもっとかぎたい気持ちにさせられた。そんな二人の若い客をじらすように、魔女はゆっくりと、キセルを味わっていた。
「あんたが……」
と、スターオンスを見て、
「親代わりにでもなるのかい?
今まで何不自由なくいいものを食べて来たお姫さまをいきなり連れ出して、ろくに言葉もしゃべれない彼女に何か説明して、もっと自由な素敵なくらしを、させてやれるのかい?
あんたは旅人だろうが、あちらは旅どころか、部屋から出ることさえ知らないお姫さまだ。
しばらくは、街で静かな家でも借りて、あの子の食べる分まであんたが街で働いて世話でもするんでなけりゃあねえ。そうでもなけりゃあ、あんまり身勝手で無責任ってもんだと思うがね」
スターオンスはうつむいた。
彼は経験豊富な、たくましい自由な旅人だったが、街の中で十分な仕事を見つけるのは、確かに難しい想像だった。まだ立派な大人と認められる年ではないし、そもそも、よそ者だからだ。
それでも自分のことだけは何とか、なんとでもなるだろうが、二人分は簡単じゃない。
まして相手が他に何にもできない、何にも知らない子ならばなおさらだろう。
その上、そんな境遇ですごす意味を、相手に言葉で説明することが出来ないのだ。
「新しい王さまも、おえらい役人たちも、何も考えないで、ただめんどうくさいだけであのままにしてるわけじゃあないのさ。あの人たちだって、まるきり自己中心的なバカってわけじゃない。どうすればもう少しマシか考えて話し合ってみて、とりあえずは、手出ししないでそのままにするのが一番マシらしいと、どうにか決めたのさ」
煙をぷかり。
「まァ、無能には違いないがね」
また、ぷかり。
「だからって、あんたの方が知恵があるってわけでもあるまいよ」
この魔女の言葉はおだやかで冷静だったが、少年の心をこっぴどくやっつけるという点では、前の魔女の怒鳴り声より何倍も強烈だった。
何も言い返せなくて、スターオンスはすっかり黙ってしまった。
頭の中で、どうすればいいか、どう言い返せばいいか、色々な言葉を使って探してみたけれど、結局は同じところをグルグル回るばかりで、何の役にも立たなかった。そしてそもそも、今ここでそれを聞かれてあわてて考えてみている時点で、もう自分の負けだという気がして、顔が上がらなかった。
「あの子を出してやることはカンタンさ。
だが、出したあとの責任を、誰もとれないんだ。
誰にどうとらせればいいのか、誰にも正解が出せないのさ。
それくらい、あのお姫さまは特別な人間になっちまった。
なにもおえらいさんのためだけじゃない、あの子のタメってだけを考えたって、実はどうしてやるのが、今のままよりもいいはずだなんて、誰にも言えないんだよ」
足下でネコがミャアとうめいた。
柱にかかった時計の針が、チックチックと音を刻んでいる。
スターオンスの唇は白くなっていた。
誰よりもしゃべるのが得意な男、誰よりもたくさん言葉を知っている詩人、誰よりも、自由の素晴らしさに自信をもっている若者は、今、確かに、お姫さまをどうするのがいいのか、全然わからなくなってしまっていた。
時だけが、流れて行く。
この魔女は何も急いでいない。
ただ煙を味わいながら、静かな目で若者のこたえを待っている。
ただよう紫煙の香りが、スターオンスの胸を騒がせた。
「そうかもしれないけど」
決然と口を開いたのは、エッダだった。
「そうかもしれないけど、でも、やってみるしかないと思う。
した方がいいと、私の心が決めているの。
だからそれは、やってみることでしか、変えられないと思う。
無責任かもしれないけど。
でも、どんなにちゃんと準備したって、いざお姫さまに会ってみたら、全然違うことを望むかもしれない。誰にもわからないことを、それでも何か変えるべきだと思うなら、やってみるしかないじゃない。
それでうまくいかないことが出て来たら、きっと出てくるんだろうけど、そのときにまた新しく考えて、そのためにまた新しく、一生懸命に動くしかない。
そうすることでしか、こんな責任なんてとれないと思う。
やりもしないで、
こうすれば絶対大丈夫なんていうありもしないこたえを探して時間ばかり過ごして、
そうしている間にお姫さまの人生の時間はすり減っていく。
私はイヤ。
やってみて、それから考える」
エッダの言葉は、スターオンスには心強かった。
あまりにも予想外に心強かったので、思わず目頭が熱くなった。
この素敵な女性が、こんなにもたのもしく見えることに、彼は自分でも驚いていた。
スターオンスは、自分のことでなら、確かに、彼女が今言ったような考え方で行動することができる。思えばいつか、迷っている誰かに対して、自分も同じように言って元気づけたこともあった気がする。
エッダの今の言葉にしても、もしかしたら、そんな過去のスターオンスの姿や言葉から、彼女なりに取り込んで出したものかもしれないとも思えた。
ただスターオンス自身には、他の人のことで、自分一人のこと以上のことで、例えばマリアのことで、それを同じようにそのまま当てはめる度胸が、今はなかった。
だから、このやさしい友人が、今、決然とそう言ってのけたことに、彼は勇気づけられた。
そうだ、やってみるしか、ないことじゃないか。
「それに、私は思うの」
エッダの心についた火が、彼女自身を燃え上がらせた。
「どんなに今が悪くないと人からは思われているとしても、どんなにその先に苦しいことがあるのだとしても、少なくとも人は、自分でそれを選び取らなきゃ、ダメなんだと思う。
お姫さまがたとえ、何もわからない特別な子でも、それでもやっぱり、何か選べるものが、道が、他にもあることを、示して、選ばせるべきだと思う。
私には、お姫さまが今、不幸なのかどうか、自由になったら幸せなのかどうかなんて、どうでもいい気すらする。
ただ、お姫さまも、自分で選ぶべきなんだと、それは本当にそう思うの。
だから、選ぶ自由さえ何もない今の状態だけは、変えたいの」
しゃべりながら、エッダはどんどん強くなっていった。
彼女は黙って考えるより、言葉に出していきながら考える方が、得意らしかった。
白い頬はほんのりと紅潮し、月夜の空のような瞳には、彼女らしい、強さと情熱とが宿っていた。
胸元でカエルがジタバタともがいた。
中にいると、心臓から伝わる熱のあまりの熱さにのぼせてしまいそうだが、外に出ると猫ににらまれるので、居所がなくて弱り果てていた。
魔女がほほえんだ。
自分の娘を見る母親のような瞳だと、スターオンスは思った。
嫌な予感が心の底ににじんだ。
「わかる気がするよ、娘さん」
老女は、眼鏡を光らせた。
「あたしゃね、そういう、何かをしたいっていう、強く願う気持ちってやつが、好きなんだ。
あたしくらいになると、そういうものはどんどん小さくなっていく。
あまりたくさんのことを知ってしまうからね。
そういう、強い新しい気持ちが、もっとほしいと思ってもね、なかなかむずかしくなる」
エッダの胸元から、熱さに耐えかねたカエルがプハアと顔をのぞかせた。
とたんに猫がミャアと鳴き、あわててまた、中に引っ込んだ。
「特別に、塔の秘密をひとつ、教えてやろう。あんたたちにとって、重要な話のはずだ」
エッダは赤い頬にパッと笑顔を咲かせ、少年を振り返った。
自分の力で友人に成功をもたらしたという思いが、彼女の心をほころばせ、喜びで満たした。
スターオンスも、感謝と友情の眼差しでエッダにこたえ、ほほ笑んだ。
ただ、その胸の奥にじわじわとわきたつ不安は、少しずつ、広がりつづけた。
「あの部屋の扉ね、カギ、かかってないんだよ」
沈黙が舞い降りた。
二人はあまりのことにあっけにとられて、ぽかんと口を開いたまま、呆然と魔女の顔を見つめた。
魔女は気のない様子で煙をひと吹きすると、皮肉な目を眼鏡の奥からのぞかせて、ニヤリと笑みを浮かべた。
「王さまが代わったとき、ひとつだけ下された新しい命令が、それさ。
だから、あの子は自分がそうしたいと思えば、いつだって扉を開けて、勝手に出て行くことができるんだ。
何しろカギがかかってないんだからね。
ほんのはずみにでも、取っ手にちょいと手をかければ、扉はいつでもすぐに開く。
つまりまあ、今のあの子は”閉じ込められているお姫さま”であるのと同時に”自由なお姫さま”でもあるというわけさね。
家来たちも、そうなったら止めないことになってる。
あの子が、自分から出て行きたいと思って出て行く分には、手出し無用。
その結果どうなったところで、それはもう、誰の責任でもないというわけだ。
それが、あの子の選んだ人生だったと、そういうわけさ」
「そのことを、あの子は知っているの?」
「教えようがないのさ。
言葉は通じないし、カギをはずしても、扉自体は中からしか開けられない仕組みになってるんだ。
誰も間違って中に入らないようにね。
ただ、少なくとも、扉の方からいつも食事やらが運ばれてくるのはわかってんだから、少なくとも、そっちの方に何かがあることくらいはわかっているはずなんだがね。あの子にちょっとでも、そういうことをしてみたいという気持ちがあるのなら、自由はいつでもあの子のものさ。
まァ、塔を出た途端に追いはぎに襲われようが、
食べ物を見つけられなくて倒れてしまおうが、
もう王さまの責任じゃないなんてのは、あんまりだとは思うがね。
少なくとも、出ようとすれば、出ることはできるのさ、できちまうんだよ。
どうやらまだ、ほんの少しも、そうしたいと思ったことはないみたいだけどねえ。
だからあたしゃ、あの子のことにそんなに興味がないんだ」
二人は、考えがまとまらず、前にも増して頭の中がゴチャゴチャになってしまった。
そればかりか、心の中まで、グチャグチャだった。
わけのわからない感情が、次から次へとわき出てきて、まじり合って、どんどんわけがわからなくなっていった。
ひとつだけ、何のためにこんなことをしているんだろう、という思いだけが、変に具体的に、心の上の方でチラチラとひらめいた。スターオンスはそれをおさえこもうとした。エッダは、それを頭で考えようとした。
魔女の灰色の瞳が、ギラリと光った。
「あたしはね、強い願いを持っている人間が好きなんだ。
結局、それだけが、限られた人の時間の中で、何かを変えられる力の源だと思うのでね」
エッダの混乱した心のまん中に、まるで雷が落ちたかのように、ひとつのはっきりしたある想いがあらわれ出た。カラを突き破り、混乱の中にまばゆく強い光を放ち、熱く白く燃えたぎり、他のどんなものよりも激しく強くかたく、心の中を食い荒らして全て飲み込んで、ただそれひとつだけに全てを染め上げてしまうほどの、あるひとつの想い。
彼女の顔が、ぱっと花色に輝いた。
全身に、熱い情熱の血が勢いよく送り出され、駆け巡り、その中心で、心臓はドンドンと音を立て、力を解き放った。そのあらゆる全てをかき集めてただ一点に押し固めたような輝きが、瞳の根元で爛々ときらめいた。
「じゃあ、彼を、戻せるの?」
スターオンスは知っていた。
それは、リュートのことではない。もちろん、スターオンスのことでも。
エッダの全身から押し寄せてくる情熱、スターオンスの知る限り、女性の肉体からしか感じたことのない、燃え立つような憧れの力が、今や部屋の空気を一色に染めていた。
魔女も心なし頬を赤らめて、嬉しそうに娘の笑顔を見つめている。
エッダのてのひらの上には、一匹のカエルが、たたずんでいる。
猫は、魔女の足下で大人しくただのどを鳴らしていた。
「強い呪いだねえ。強い強い呪いだ。
きっと、これまでどんな魔法使いに見せてもとけなかっただろうねえ。
お嬢さん、あんたの旅の目的は、いつも二つあった。
その一方は、いつもかなえられなかった。
それでもあんたはあきらめず、ふてくされもせず、よく、もうひとつの他の目的のために、いつでも頑張ってきたよ。じゅうぶん過ぎるくらいさ。
自分の本当の本当の望みじゃない目的のために、いままでよく頑張ってきたよ」
魔女の言葉はとても甘くてやさしくて、さっきまでの理知的な老女のそれとはまるきり違っていた。
あたたかい笑顔をエッダに向けて、猫をあやすような声で語りかけながら、眼鏡の奥の灰色の瞳が、一瞬、意地悪そうにスターオンスを見た。少年には、なすすべもなかった。
実際のところ……カギが開いているという真実を聞かされた瞬間から、スターオンスは魂が抜かれたように放心して、心も体も麻痺してしまっていた。周囲で起こっていることのほとんどに対して、何にも、反応したり、判断したり出来なくなってしまっていた。
だから今、長年の友人が、彼女の旅のもうひとつの大切な目的について、ついに希望を見いだしたことについても……その結果、スターオンスとの共通の目的の方が見失われることになるのだとしても……どうすることもできないでいた。
「あたしになら絶対できる、とまでは言い切れないが、あんたのその、強い強い、熱くてまっすぐな想いの力があれば、可能性はあるよ。少なくとも……」
今度は真正面からスターオンスを見据えて、
「その、迷いだらけで、自信がなくて、何がしたいのかもうよくわからなくなっちまってるボーヤなんかよりは、よっぽどよっぽど、望みがあるってもんさ」
魔女は立ち上がり、エッダに近寄ると、頬をひとつなでた。
エッダの瞳は、てのひらの上のカエルを燃えるように見つめている。
二人は何も言わず、扉を出ると、地下の研究室の方におりていった。
時計の針だけが、スターオンスに、まだ自分が意識を失っていないことを教えてくれていた。
だがそれもあやしいものだ。
黒い猫は、魔女についていった様子もないのに、もうどこにもいなくなっていた。
冷たい汗と、指がきしむほどにむすんだ握りこぶし。
魔女の吐き残した煙の香りと時計の音。
スターオンスはただ一人、息もできずに、呆然とソファにかたまっていた。




