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ひとりぼっちのマリア  作者: K.G.Gössner & 絲山雨並
5/10

死と、自由について。

5. 戦士と一人目の魔女


森の中に分け入るにつれ、空気はひんやりと冷たく、薄暗さは増して、三人は先ほどまでの陽気をほとんど忘れてしまった。


じめじめとして空気が重く、風はほとんど吹いてこない。ただ、はるかに上の方で枝々の間をすり抜ける風が、ざわざわと葉をゆり鳴らして鳥たちをおどろかせ、わずかな木漏れ日が異面に描く模様を、ゆらめかせて見せた。


 エッダのカエルが胸の間から再び飛び出して、彼女の細くてしなやかな肩の上や、しっとしとした湖のような黒髪の中を、元気に跳ね回った。

どうやらカエルには、外の陽光の下よりも、この森の方が居心地がいいらしかった。

その嬉しそうな様子に、エッダも表情をやわらげて、機嫌良く歩みを進めていた。


 スターオンスはこの大きな森で迷わないように、方角を確かめたり、木々に印をつけたりして、テキパキと動いていた。彼はそう言うことに慣れていたし、ただ黙って歩いているだけよりも、そうして行動していることで、色々な迷いにつかまらずにすむと考えているらしかった。


 あとの二人は、少年の旅人としての知識と技術と経験を尊敬して信頼していたから、その通りに従うことで、余計な心配はしなくてもよかった。


こうして、一行はゆっくりと、着実に、この暗く冷たい森の中を進んで行った。


 リュートの心だけは、この森の暗さが深まるのにまるでつられるように、どんどん暗く、深く沈んでいった。

周囲の雰囲気のせいもあったが、先ほどの貧しい人々の姿が見えなくなったことで、余計に、彼らに対する想像が心の中で大きくなっていた。


 たとえ余計なお世話だったとしても、少なくとも目の前で人が苦しそうにしているのなら、何か行動するべきだったのではないのかと、一歩、また一歩、あの人たちから離れて行くごとに、後悔が大きくなっていった。

あの女の人がかかえていた荷物は、リュートなら片手だけで二つは軽々運べるような物だった。


 そんなことをして何になる?


 あの人たちは、あの人たちでそれをすることで、生活しているんだ、と、エッダなら強い口調で怒るだろう。


 それも、そうかもしれない。


 しかし、自分ならできることを、その人のためにしないで、そのまま通り過ぎて、それで何を言っても、言い訳のようにも思えるのだった。


 結局、最後まで何もしないまま、自分はあの人たちを見捨てておいて来てしまった。

 その想いが、ついには森の暗さをも追い越して、リュートの心をどんどん暗くしてしまった。


「ここだ」

 スターオンスが立ち止まった。

 三人の目の前に、小さな、うす汚いほったて小屋がたたずんでいる。

 今にもくずれおちそうな小屋は、周囲の陰気な様子にも増してうす気味悪く、まさに魔女のすみかと言った風情だ。

 ただ、あまりにも静かすぎて、本当に中に誰かが住んでいるのかわからないのは不安だった。


「行こう」

 短く言うと、少年は友人たちを促し、先に歩いて扉の取っ手に手をかけた。

 エッダの頭の上で、小さなカエルがぴょこんと跳ねた。



 扉を開けた途端、ドタンバタンと慌ただしく人が暴れ回る音があたりいっぱいに広がった。

 これがどうして、こんなに薄い壁の向こう側では少しも聞こえなかったのか不思議だったけれど、魔女の家なのだからそんなもんだろうと、なんとなく三人ともが納得していた。


 小屋の中は、外から一見したよりも広いように思われた。

 リュートのような大きな男が入っても、特別にせま苦しく感じることのない、開けた印象の空間だ。中はろうそくの灯と、不思議な魔法の光で照らされていて、森の中よりはいくらか明るかった。部屋中、あらゆるところに、たくさんの水晶玉が並べられていて、そのひとつひとつの周りに、書類や巻物や、奇妙な道具が雑多にまき散らされている。


 三人はその水晶玉のあまりの多さに目を奪われ、少なくとも三十の三倍、多分もっとたくさんあるらしい、と考えたところで、数えてみるのをあきらめた。


 スターオンスの頭ほどに大きい物から、拳ほどの大きさの物、よく見ると、カエルの目玉ほどに小さな物まである。赤、白、青、オレンジ、黒、灰色、紫、あるいはその他の色に次々と色を変える物まで、種類も様々だ。


 その全てに、誰かの顔が映し出されていて、そのほとんど全てが、泣き顔か、つらそうな顔をしていた。


 そのたくさんの顔の間を、ドッタンバッタン、書類や道具や薬草をまき散らしながら、魔女が慌ただしく行き来している。その動きがあまりにも俊敏で、ひとときも止まっていることがないため、三人は、それが魔女だと理解するために、しばらく入り口で呆然とその光景を見守らなければならなかった。


 スターオンスよりも小さな体をして、リュートよりも黒い肌をして、エッダよりも長い髪を持つ老婆だった。真っ白でバサバサの髪と、しわくちゃの枯れ果てた顔と手から、相当な老人であることは分かったが、ギンギン燃えたぎる力強い瞳と、水晶玉から水晶玉へとビュンビュン飛び回る身のこなしは、三人の誰よりも若々しく感じられた。


「こんにちは!」

 スターオンスが叫んだ。

 大きな声でなければ、魔女は三人に気づいてくれそうになかったのだ。


「あなた、塔のお姫さまのことを知っている魔女さんですよね?」

「ああっ!?」

 老婆の怒鳴り声はこの上なく、信じられないくらいに不機嫌そうだった。

 髪をブンブンふり乱し、忙しく部屋の中をあっちからこっちへと立ち働きながら、三人の方を見向きもせずに言い放った。


「やかましいよ。あたしゃ見ての通り忙しいんだ。

 昔の仕事のことなんざ、知ったこっちゃないね!」


 確かに魔女は忙しそうだった。

 それは、三人の目にもよくわかった。

 しかし、忙しそうに何をしているのかは、いつまで見ていても分からなかった。


「でも、僕たちはあのお姫さまを、マリア姫を助けてあげたいんです。自由にしてあげたいんです。

 あなたの知っていることを教えて下さい。塔の秘密を、教えてください」


「それどころじゃないっつってんだろっ!」

 魔女の立ち回りにかき消されないように、スターオンスはのどをしぼってわめくような大声で叫んだが、老婆の叱責はそれをいともあっさりと押しつぶした。

 耳と一緒に顔の皮まで破れてしまいそうなくらい、ビリビリ響く怒鳴り声だった。


 老婆のセリフに腹が立ったのか、エッダが瞳を燃やして怒鳴り返そうとした。

 スターオンスが振り返って、それをおさえた。

 今、ここで、この人を相手にケンカをしたって、何の役にも立たない。


 リュートは、黙って魔女の動きを見つめながら、少しずつ、彼女が何をしているのか、なんとなくわかりはじめていた。

 胸の奥が焦げたように傷んで、小さくわき立った。

 水晶の山と、老婆の動きから、目が離せなかった。


「忙しいのはわかります、ゴメンなさい。

 でも、一人の女の子が、ずっと不自由なまま、不幸に暮らしているのを、放っておきたくないんです。せめて、どうすればいいのかだけでも教えて下さい。あの塔を、開きたいんです」

 スターオンスはガマン強かった。あとの二人は、少年を信じて、黙っていた。


 魔女は片時も手を休めなかった。老婆は確かに元気いっぱいで強そうだったが、その仕事を続けるのはひどくつらそうで、苦しそうだった。枯れた顔の真ん中に、大きな瞳だけをうるませながら、魔女は働き続けた。


「不自由な子、不幸な女の子」

 魔女は苦々しげにうめいた。


「よく見てみな。この水晶に映るたくさんの、子供たちの顔を!

 世界中の、あんたたちがまだ行ったこともない、知りもしない国々の、たくさんの子供たちだ」


 リュートだけが気づいていた。

 あとの二人も、魔女にそう言われた途端、急に鮮明にその水晶の中が見えるようになった。


 先刻、畑のはしにくたびれていた子供のような顔が、一斉に、部屋中から彼らを見つめた。

 やせた顔、疲れた顔、希望のない顔、力のない顔だった。

 どの子も栄養が足りなくて、髪や、目や、体にその証拠があらわれていた。

 泣いている顔もあった。もう泣くことを忘れた老人のような顔もあった。

 何の理由でか、手や、足が、欠けている子がいた。

 傷だらけの子、病気の子、心に傷を負った子がいた。

 全員に共通していることは、皆、腹をすかしていて、そして、助けてくれる人が誰もいないということだった。


「まだまだいるんだ。まだまだまだまだ、まだまだまだまだいるんだ。

 映しても映しても、どんなに水晶を増やしても、足りないくらい、こんな子供たちが世界中に満ちあふれているんだ。あんたたちが立っている、立って歩いているこの大地につながるどこかの大地の、その何割かが、こんな子供たちの死んだ体でできているんだ」


 魔女は呪いの呪文を唱えるように叫んだ。


「あたしゃ、この子たちのために働きたいんだ。

 あのお姫さまも、あのままじゃ、まずかった。だからちょいとだけ働いた。

 だが今は、何が問題なんだね?

 この国の何人もが食べられるわけじゃない、いい食事を毎日、なんの不安もなく運んで来てもらえるじゃないか。けがも病気も関係ない。誰からもいじめられることもない。世界中のあらゆる苦しみから……」


 と、言葉を切り、両手を大きく広げて部屋中の水晶を指し示して、


「世界中のあらゆる苦しみから、厚い壁でしっかりと守られているじゃないか。

 そりゃあ、あんなんではなんぞそれなりに不都合もあるだろうがね!


 あたしに言わせりゃ、後回しなのさ、後回し!


 あたしにゃ、それよりもいそぎの仕事が何千万とあるんだよ!」


 そう言われると、スターオンスもすぐには言い返せなくなってしまった。

 さっきの農園での想いがよみがえってきた。これまでの人生で見て来た、あるいは見過ごして来た、たくさんの悲惨が、心の中をギュッとわしづかみにしぼりつけた。痛かった。


「何が不幸か、何が苦しみか」

 魔女は歌うようにつづけた。


「それを考えるのは大したことさ。

 少なくとも、何も見向きもしない奴よりは、立派なことさ。

 だがね、私には見えちまうんだよ、聞こえちまうんだよ。

 そういうことを考えるよりも先に、もっとどうしようもなく、もっとマシに生きられないんではかわいそうでいられない小さな魂たちのことがね。

 少なくともあたしには、そのためにちょっとは何かできる力があるんだからねえ!」


「オレに手伝わせてくれ!」

 リュートが叫んだ。スターオンスは両手で顔をおおった。エッダは唇を強く噛みしめた。


「あなたの言う通り、オレたちの目的は後回しかもしれない。

 オレは、その仕事がしたい。あなたの力になって、その仕事をしたい。

 それにオレがあなたを手伝って、少しでも早くその子たちが救われるなら、後回しにしたあのお姫さまのことだって、その分、少しでも早く助けられるのかもしれない」


「いい心がけだ、でかいの!」


 魔女はそう言うと、相変わらずテキパキバタバタと働きながら、リュートに、ずっと前から彼に与えるべき役割が用意してあったかのように、次々と指示を与えていった。


 リュートはもう振り向きもせずにその仕事にとりかかり、打ち込んだ。

 今は魔女とリュートは、あとの二人の目の前で立ち働く、もの言わぬ風景のようになってしまった。エッダが何か声を上げたが、その声はもう誰にも届かなかった。


「次の魔女のところへ行こう」

 スターオンスが力なくつぶやいた。


 こんなに落ち込んだ少年の顔を、エッダは見たことがない。

 エッダはリュートに友情を持っていたけれど、今、彼を置いていく決意をするとしたら、このスターオンスの表情だけで、それが十分な理由になった。


 スターオンスも、そして多分エッダも、心の中に、魔女の言うことが間違っていないこと、リュートが正しいことのために働こうとしていることを、理解する部分を持っていた。

 何故、今、自分がそれに参加しないべきなのか、それを説明する方が難しいくらいだった。


 だから、大好きな親友に、やさしい戦士に別れも告げずに、二人は小屋をあとにした。


 泣きたい気分だったが、お互いに涙を見せるのはためらわれて、ガマンしあった。


 小屋の戸を閉めた途端、まるでここでは何も起こらなかったかのような静寂が舞い降りた。


 ケロロ、と、エッダの胸の谷間で、カエルの声だけがもの悲しく鳴った。

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