どこにでもいる二人が、これから見る世界。
10 じゃがいも
少年はその場にへたりこんだまま、身動きひとつとれずに呆然としていた。
目は見えていたが、何もかもが真っ暗だった。
とうとう全ての力が抜けてしまった。
自分が生きているという実感さえ、思い出せずにいた。
『この子は世界に生まれ落ちたあと、ほんの一言でも人の言葉を耳にすれば、たちまち心がこなごなにくだけ散って、バラバラになってしまうでしょう』
三人目の魔女、ポーは言っていた。
心がこなごなにくだけ散るって、どういうことだろうか。
言われた時には漠然としてよくわからなかったが、今、彼の目の前で、それは実際に起こっていた。
マリアは泣いていた。
そして怒り、悔やみ、悲しんでいた。
絶叫と共に全身が棒のように硬直し、スターオンスが支えの手を出す間もなくバタリと床に倒れた。ビクビクと数回ふるえ、糸が切れた人形のように動かなくなり、あとはそのまま、開いた目からぼたぼたと涙を流し続けた。
大抵は無表情のまま、まるで頭の内側にたまっていた水が、瞳の穴からこぼれ出ているかのように。
そして時々、不意に身をふるわせると、たった今何かに思い当たったという様子で、おびえ、おそれ、おいおいと恨みがましい声を上げ、わめき泣いた。
無表情に涙をこぼし続けるマリアは、まるで本当に人形になったようで、先ほどまでの仏頂面に比べると、むしろこの方が美しく見えるほどだった。だが声を上げてむせび泣く姿は、もう何十年も年をとってしまった人の顔に見えて、いたたまれなかった。
何より少年の目と耳をえぐったのは、彼女の放つその苦しみが、彼もよく知っている、世界の、人間の様々な苦しみを、ひどく具体的に生々しく、まざまざと思い起こさせることだった。ずっと守られてきたものを、今、一番ひどい大渦の真ん中へ、自分の手で放り込んでしまった、そんな気分にさせられるのだった。
スターオンスも泣いていた。ただ後悔だけが、絶え間なく彼を打ちのめした。
(ああ、僕はこういう話を知っている)
体を支えていることができず、床にうつぶせて、じゅうたんに涙をすりつけるようにして、彼は泣いた。まぶたが自然におりてきて、すべてがいよいよ闇に包まれた。
体中どこを探しても、一片の力も残っていない。
そのまま下へ、下へと落ちていく感覚に、ただ飲み込まれるがままに任せるほかなかった。
どこまでも、闇の底へ、ただまっすぐに、沈み込んでいく。
(とても有名な詩。
誰でも知っている、僕も、何度人に聞かせたか分からないくらいよくうたった詩。
死んだ妻をさがして、地獄の王に会いにいく楽士の物語。
地獄の王は彼にいう。
妻の手を引いて地上に上がるまで、一度も振り向かずにいられれば、彼女をそのまま連れて行ってもいいと。
長い暗い地獄のトンネルを歩き続け、地上の光が見えたとき、楽士は思わず振り返って、妻に声をかける。
もうすぐだよ、安心して、と。
それで、すべておしまい。
僕はそれをたくさんの人に語って聞かせ、そして僕もみんなも、自分だけはそんなことはしないって、当たり前のように信じて笑っていた。
自分はそんなことはしないって。
自分だけは、そんなことになるわけがないって。
僕は本当にたくさんの詩を知っている。
人に聞いて、自分で読んで、そして、それを人に語って聞かせて、そうして僕は今日まで生きてきた。たくさんの詩を、この頭にたくわえてきた。
でも、何の役にも立たなかった!
何になるって言うんだ?
こんなときに、まさに今こんなときに、あの楽士の失敗を自分のために生かすことができなくて、僕は一体なんのために、今までそうして詩を学んで生きてきたって言えるんだ。
そうだ、僕は知っているんだ。知っていたんだ。
うっかり、そんなことになるとは思いもしないでやってしまった失敗なんかじゃない。
僕はむかしむかし、誰かがそういう失敗をしたということを、他のどんな人よりもよく知っていたんだ。
誰か、他の人がやったなら、知らずにおかしてしまったかもしれない失敗。
少なくとも僕は、避けられるための知識を前もって持っていたんだ。
自分はそんなことはしないって、思ってた。
自分だけは、そんなことにはならないって、思ってた。
僕はバカだ。
他のどんな人よりも、バカだ。
僕は、多分人類で初めてその失敗をしてしまったあの楽士の、何千倍もバカな人間だ。
そうして全てを台無しにして、全てを失って、その上あの子を傷つけてしまった。
知っているのに。
知っていたのに!
どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう)
闇はみるみる深くなり、スターオンスをわしづかみに取り込むと、そのままずるずると、どこまでも引き寄せ沈んでいった。
今や、それにあらがう力は、ほんの少しも残っていなかった。
どれほどの時が経っただろうか。
スターオンスは、くちびるに猛烈な熱い物体を感じて、驚きのあまり目を覚ました。
涙でまぶたがはりついて、すぐには開かなかった。
ただこの世のものとは思えない、いい匂いがしていた。
やけどしそうに熱いくちびるを反射的にペロリとなめとった瞬間、気を失いそうなほどうまい、何か知っているものの味が脳みそいっぱいにとどろき渡った。
意識が呼び覚まされると、マリアの、哀しい、悔しい、逃げ出したくなるような泣き声が、また聞こえてきた。どうやら、まだすぐ近くにいるらしい。近すぎる気さえする。ところで、このやわらかくて気持ちのいい枕は、もしかして…
目を開くのと同時に、再びあつあつのじゃがいもを乗せた銀のスプーンが口の中につっこまれ、彼は声にならない叫びをあげてのたうち回った。
ここ最近味わったあらゆる苦痛の中でも指折りに衝撃的だったが、しかし、たとえそのまま天に召されても後悔しないくらい、うまかった。
マリアが、自分の膝の上にスターオンスの頭を乗せて、いつの間にか運ばれてきていたらしい食事を、食べさせてくれているのだった。
声を上げて泣いては、次々に何かを思い出し、思いつき、また涙を流し、傷ついて、それでも彼女は食べ、そして彼にも食べさせた。
どう言っていいのか、分からない光景だった。
マリアの苦痛は、相変わらず、スターオンスを悲しませ、苦しめ、悔やませた。
けれど、まるでおままごとで遊ぶ子供のように、じゃがいもを少年の口にあてがってはスプーンをペロリとなめ、次には自分の口にもじゃがいもを運ぶ、そんな彼女の姿は、天使のように輝いて見えた。ひどくちぐはぐで、意味の分からない状況。スターオンスは明るい気持ちと暗い気持ちを処理しきれないまま同時に抱えて、ただマリアの涙から目を離せずにいた。またスプーンが熱い塊を乗せて口にとびこんできた。
スターオンスは体の自由も利かず、ただ半泣きでいもを、口の中で必死に転がした。
二人は苦しみと、じゃがいもを、分かち合っていた。
少女が泣き止む気配はない。
その心の苦しみと傷みは、今すぐ彼女や、あるいは彼が、どうにかできるようなものではないという気がする。
十年以上もの間、うれしいことも悲しいこともなくすごしてきた時間が一度にあふれて押し寄せてきて、その全部を取り戻そうとして溺れそうになっている、そんなふうに、彼には見えた。
それを見ているのは、つらかった。
力を貸したくても、どうすればいいのかさっぱりわからないのは、もっと、つらい。
(でも…)
と、少年は思った。
スプーンが、少女の口の中に入っていった。
この一瞬だけ、泣き声がやむ。
(確かにひどい泣き顔だけれど…)
少年は少女の顔を見た。
自分の瞳にも、また涙があふれてくるのを感じて、彼はそれをこらえながら鼻をすすった。
あたたかい涙だった。
お腹の下の方から、少しずつ、じんわりと、全身に、何かが広がって力になっていくのを感じた。
それは、もしかしたら、さっき一度、完全に失ってしまったはずのもの。
(希望…)
マリアが一瞬笑ったような気がしたが、それはきっと、泣き顔のひとつが何かの拍子にそう見えただけだったのだろう。
なぜだか腕が動いたので、そっとのばして、彼女の赤い髪にふれ、なでてみた。
二人の食事は、そのまましばらく、黙々と続けられた。
スターオンスは泣きながら。
マリアも泣きながら。
女の子一人分の、いつもの食事を、ちょうど二人で半分こ。
全ての皿が空になった瞬間、二人のお腹がグゥと同時に音を立てた。
スターオンスは吹き出した。
マリアは泣き出した。
力が戻ってきた。
誰かの言葉が、心によみがえる。
『やってみるしかない。そのあとで、また新しく考えて、次のことをやるしかない』
誰だっただろう。
でも多分、こんなことを言うのは、エッダだろうな。
少年は立ち上がり、まだ心の半分以上をしめている暗い暗い気持ちを無理矢理奮い立たせて、今度こそ、ほほ笑んだ。
多分、もう彼女の呪いはとき放たれてしまったのだから、この上また、今、声をかけても変わらないだろうとは思った。そうは思ったが、これ以上彼女を苦しめるかもしれないことは絶対にしたくなかったので、とりあえず声には出さず、心の中で何度もあやまった。
(ごめんね。ごめんなさい。本当に、ごめん)
気を失う前に思い出していた、あの詩のことが心によみがえる。
地獄まで行った、楽士の詩。
この楽士は、その後どうなったろう。
どうしただろう。
何千年も昔に、僕と同じ失敗をした人がいたのだな。
きっと、この何千年の間にも、何万人も何億人も、同じことをやってしまったのに違いない。
だからきっと、この詩は今日まで残っているのだろう。
ところでその人たちは、それから、どうしたのだろうか。
立ち上がれなかった人もたくさんいるだろう。
立ち上がって、次のことを始めた人も、きっと、いるはずだ。
何千年も昔から、この地つづきの世界で、そうやってみんな生きてきた。
僕も、その一人だ。
特別でもなんでもない一人。
それでも、何か特別なことのために生きていくしかない一人。
僕が知っているたくさんの詩は、そのためのものだったのかもしれない。
ずっと、そうやって生きてきた人間の、僕も、どうやらその一人に加わったのだ。
『お前はどんなときでも、その中からいいものを見つけて、皆に教えてくれる』
これはリュートだ。
覚えている。
本当に、そうかどうかは自分では分からないけれど、誰かがそう言ってくれたのなら、ましてそれが大好きな友達の言葉なら、そう、本当にそうかもしれないと信じてみよう。
それを支えにして、自信にしてみよう。
泣き続けるマリアを見て、少年は晴れない心の片隅で、そんな、色々なことを考えてみた。
罪の意識は消えないけれど、それに負けてしまって、このままマリアと一緒に泣いているだけではいられないと、彼は顔を上げた。
口の中に、じゃがいもの味が残っていたのに気づいて、舌を転がしてみた。
ありがとう、マリア。
泣いて泣いて、もとがどんな顔だったかも分からなくなってしまった女の子。
もうとても、夢の中にいた理想のお姫さまとは似ても似つかない。
でも、スターオンスが会ったことのある、色々な人に、少しずつ似ているようにも思う。
何をしても全く届かなかったあの仏頂面よりも、今は、二人の間で、何かができるような気がする。これから、次のことを考えて、そのためにがんばっていける気が、今は少しだけ、する。
少女の手を取ってやさしく引き上げると、彼女はうめきながらも立ち上がった。
歩き始めると、まだ膝に力が入りきらなくて、足がふらついた。
彼女に倒れかからないように踏ん張った。
彼女は、泣きながら、多分無意識に、それを支え返した。
扉が、そこにある。
二人はその前に立ち止まって、それを見つめた。
マリアの顔がくしゃくしゃになった。
今にも死んでしまいそうな表情にも見えた。
スターオンスは天井を見上げた。
彼が入ってきた穴が、ぽっかり口を開けている。
マリアもそれを見上げて、くちびるをかみしめて、言葉ではない何かをうめいて、少年の顔を、じっとみつめた。
少年の顔の向こうには、空が見えていた。
少女の白い手が、おそるおそる、取っ手にかかった。
少年は、その手に手を重ねた。
二人はしばらく、そのまま止まっていた。
取っ手にかけていない方の手を、ぎゅっと握り合って、スターオンスは、泣き顔の女の子に、小さな小さなキスをした。
さっきのスプーンと同じ。その一瞬だけ、泣き声が止まって、静かになった。
次にどうすればいいのか、今はわからない。
自分がやったこと、これからしていくことが、正しいかどうかなんて、今はわからない。
『この子は一生、泣きながら苦しみながら、人に生まれたことを恨みながら生きることになってしまうでしょう』
それでも。
二人は、取っ手にかけたその手に、力を込めた。
(おわり)




