虹零す白銀は夢見る宝石
「大公閣下。準備は出来ております。……が、本当にお一人で行かれるので?」
「うむ。しつこいぞルーカス。侍女共も護衛と共に下がらせてあるのだろう?」
「ええ、抜かり有りません。しかし半刻も余裕はありませんよ。それに、彼女が本当に大人しくしているかは……」
「くどい。俺一人でも十分だと言っているのを、お前達がどうしてもと言うから連れて来たのだ。そうでなければ足手纏いなぞ置いて来たが」
「分かりました……」
やれやれと深く溜息をついた大公の側近ルーカスは、首に掛けていた薄い色のゴーグルを装着する。彼は後ろで束ねた亜麻色の髪を隠すように黒いローブのフードを目深に引き下ろすと、美しい装飾が入った杖を持ち直し、その手を小さく振った。
「ご武運を!」
直後、ズドンッ! と建物の向こう側から音がする。振動する大地と空気に顔を向けることなく、ルーカスと揃いの黒いローブのフードを被り直した男は闇に紛れるように走り出した。
王宮はとかく大きく、迷路の様相を呈している。「表」と呼ばれる執政を行う区域は大勢の一般人の出入りがあるために単純な構造になっているが、奥に行くにつれて、つまり王族の居住区域は警護の面を考えて複雑になるように設計されている。
もちろん近道や隠し通路も同じく盛り込まれた造りになっているので、王族や一部の警備兵にのみ簡単に奥と表を行き来できるルートが教えられているのだ。
短期間で頭に叩き込んだその機密事項の中から、男は最短で最深部に行けるルートを思い出しながら足早に進んで行く。
複雑な廊下はどこも明かりが消えて暗く、本来なら暗くなると自動で点灯するようになっている魔導式ランプはすべて沈黙を保っていた。非常用の魔石ランプは男が魔法で消していくので、月のない今夜は殊更暗い。
さらに窓もない隠し通路を幾つか経由しながら人の気配に耳を澄ましてみるが、今のところ計画通り廊下には誰も居ないようだ。周辺の部屋の中には僅かに人が居るようだが、物々しい雰囲気に怯えているようで出てくる様子は無かった。それも最深部に近付くにつれて途絶え、小さな厨房らしき部屋を通り過ぎるとすっかり無人になる。
いや、と男は足を止めた。
もっと奥、何もないただの壁に見える突き当たりから、複雑で膨大な魔術の気配を感じる。そのまま入口を探して通り過ぎてしまうと「最奥」に辿り着けないことを、彼は事前に知っていた。
「この辺り、か?」
コツコツ、と幾つかの場所を杖の先で突いた後、何の変哲もない一か所を見定めると杖を構え直す。
「…――、――……、――……」
低く、密やかに紡がれた呪文は歌に似ている。
誰も聞くことのない言葉達は杖の先に集約され、次の瞬間、光の波紋として壁に広がった。
再度。
そしてもう一度。
壁に埋め込まれた魔術機構が、光に侵されるたびに波打ち、淡く光り、崩れて行く。
これこそ男を大公たらしめ、そして生まれながらの不遇を強いたギフトスキル。
【変革齎す神の両手】。
使いようによって禍福のどちらにも転ぶ大いなる力。そう、例えばこんな風に、国を挙げて護っている宝を手に入れることが出来るような。
ほんの子供の頃は色々と思う所があったものだが、光と闇が必ず隣り合うように、幸も不幸も紙一重だと教えられてからは開き直った。スキルそのものが使用者の思考一つで左右される取り扱いの難しいものだったから、尚更納得したのだ。
『――善と思えば福を齎し、悪と思えば災いに成るのですよ、小さな勇気ある方』
そう諭したあの声は、揺れるカーテン越しにも美しかった。
自分には歌う事しか許されないと小さく零した、顔も知らない年上の少女。幼かった男を震えるほどに心揺さぶった、自由を知らない深窓の姫君。
今でも思い出せる、泥の中を這いずり回るような日々の中でもひと際輝かしい一瞬を夢見るたび、どうして彼女の制止を振り切ってあのカーテンを開けなかったのか悔やむばかりだった。せめて名前を訊く時間があったなら、ここに至るまでがもっと早く穏便に済んでいただろうに。
この焦燥もあと少しで終わる。
歯車の形に並んだ魔術式が形成する魔術機構が幾重にも侵入者を阻みながら、脆く崩れ去っていく光景を黙って見つめ続ける。
男が四度目の呪文を唱えようかと焦れ始めた頃、唐突に抵抗が止んだ。
男の眼の前から縦に光が走り、そのまま壁だった所が左右に割れていく。さながら扉のように。
男が構えていた杖を下ろした時、現れたのは漆黒の闇だった。
「……誰ぞ在る」
足を踏み出さずに静かに声を掛けると、一寸先も見えないような暗闇の向こうで身動ぎする気配がした。さすがに知らない男の声に答えるほど馬鹿ではないらしい。
杖の先に【灯り】の魔法で光を灯し、男は慎重に何も見渡すことのできない空間へと足を踏み入れた。
どういう訳か、部屋の中は廊下の薄明かりを入らせず、入口部分から切り取ったように闇が広がっている。杖の先に灯した光も拒むかのような濃い闇で、殆ど足元しか見えなかった。仕方なく光度を上げてみるが、それでも半径二歩分ほどしか広がらない。
「どうぞ足元に……お気を付け下さい」
艶やかな声だった。
三歩進んだ所で聞こえた相手からの言葉は、何故か警戒の色は薄い。むしろこちらを案ずるかのような内容に訝しく思いながらも歩を進めると、重苦しい闇の中を何とか照らしていた灯りが、数歩先に人影を映し出した。
どうやら小さな丸テーブルの横、椅子に黒っぽい色のドレスを着た女が一人座っていたようだ。
男は立ち止まり、ゆっくりと杖を持ち上げて行く。
品良く座した女は美しい顔立ちをしていた。きっちりと首元まで肌を隠してなお豊かさが分かる胸と裏腹に、薄く微笑む顔は清廉だ。穢れを知らぬような顔の造形と、女らしく熟れた肢体のアンバランスさが一種危うい。
男の情欲を煽るような見目をした女は、闇の中でひっそりと微笑みながら目を閉じていた。
男は眉を顰めた。
「【宝石の魔女】殿、で合っているか」
「申し訳ありません、眩しいのです」
「何?」
「……私が目を開けるには、その光の強さは、少し、眩し過ぎるのですわ」
成るほど、と男が最初の光度まで落として見るが、女は首を振った。
「いいえ、すべて消して下さいませ。貴方が何も見えなくとも。暗闇の中でこそ、【宝石の魔女】たる証が良く見えるのです」
「ほう……?」
半信半疑だが、気配を探った限り彼女の他には誰も居ない。彼女も動揺することなく微笑み続けている。何処かに罠が張られているのでも無いようだった。これでこちらを嵌める為の演技ならば、余程度胸のある姫君である。
徐々に光度を落として行くと、それに合わせて女は徐に立ち上がった。
そして完全に灯りが消えると、辺りは絵の具を塗りたくったような闇に包まれる。
男の口から、ほう、と溜息が漏れた。
暗闇の中、僅かな光を集めて七色の光を零す瞳は、まるで夢を見ているような白銀だった。濡れ羽色の艶やかな髪と同じ色をした睫毛が縁取り、さながら宝玉のように小さな顔に収まっている。
これこそが、大国の王女でありながらも彼女が公に秘匿される最たる所以――、【宝石の魔女】である証。彼女の魔力の根源。
一瞬ごとに色を変える輝きが、透き通るような白い頬に落ちているのを暫く見つめていると、不意に白銀の瞳が揺れてこちらを見た。そこで漸く、茫洋と漂う視線がひたりとこちらを見据えたのに気付く。
男は思わず口を開いていた。
「お前、目が見えたのか?」
「いえ、……ええ、はい。これくらいの暗闇ならば、光に惑わされず物を見ることができます。それでもぼんやりと、ですけれど」
なるほど確かに、ハッキリと視線が合っている訳ではなかった。それでも「見られている」感覚はある。
「ふん。常人とは違って闇の中でしか見えないのか。本人は不便そうだが、俺は明かりが要らなくて良いな。結構明るいぞ」
「それは良う御座いました」
ふ、と微かな笑顔は普段と変わらず。作り物のような顔からは特に不快に思ったようでも無さそうだった。もちろん、こちらは半分以上本気で言ったのだったが。
男は闇を照らす眼に引き寄せられるように一歩踏み出した。もう数歩詰め寄って、女の豊かな胸部が己の鳩尾に当たりそうな所で立ち止まる。大柄な男より頭一つ分低い彼女は、女にしては背が高かった。
「ここまで来れば俺の顔もハッキリ見えるか?」
「ええ、さすがに」
「俺はどうだ? お前の想像していた通りの貌をしているか?」
その白い頬に手を添えてみる。男が肌の滑らかさに目を細めて尋ねれば、吐息が交わりそうなほどの近さにか、彼女もまた目を細めた。
「ええ、勇敢なる迷い子よ。その金の髪はまるで獅子の鬣のよう。その眼は若葉の色ですね。声も、背丈も変わっても、いつか昼の中で逢ったあの子を見ているようですわ。あの、カーテンの向こうで逢った、私と同じだったあの子。……世界の広さに目を輝かす、若き獅子の望みは得られるや?」
眼から零れる光が、彼女の薄紅色の唇も浮かび上がらせている。王女の声を話半分に聞き流して、その柔らかそうな唇の動きをずっと見ていた。
閉じられてしまうのが惜しくて、親指の腹で唇の端をゆっくりなぞる。微笑みに模られた口元が、そっと小さく開かれる。
彼女は動かなかった。こちらを推し量っているのではなく、すべてを許容しているようだった。
ふにふにした感触を弄びながら、かつて少女だったこの女に恋い焦がれたいつかの少年は、存外楽しいと感じていた。
「望み? 俺の渇きを、お前は知っているというのか、アリアメルラ王女」
「ええ。私の名はアリアメルラ・ラ・バステラム。バステラムの第一王女にして、【宝石の魔女】。……いつの日か、貴方が此処へ来ることを知っておりました。この『檻』を壊す日が来ることを。その手が、私に伸ばされる日が来ることを……」
どこか熱に浮かされたような言葉尻は、男の口の中へ消えた。
掌と頬、唇だけがお互いの熱を分け合う。冷えた心まで蕩かすように。欠けた未来を補うように。吐息だけ絡ませて、視線だけ交わらせて。
男が舌先でそっとアリアメルラの柔い表面を湿らすと、彼女はうっとりと眼を閉じる。
途端に降りる暗闇に、男はただ落胆した。
暗闇こそが彼女を飾るドレスだとしても。月光さえ彼女の眼には目隠しに成り得るのだとしても。
いま目の前に居るのが彼女だと確信できない夜の帳は、お気に入りの玩具を取り上げられたようだった。
男は一度体を離すと、今度はしっかりと柳の様な腰を引き寄せてその顔を覗き込む。男の硬い胸板で、彼女の豊かな胸が窮屈そうに押し潰されたのを感じて少し気分が上向いた。
上等だが薄い生地は、女らしい体のかたちをはっきりと浮かび上がらせている。背中から臀部へかけて手を滑らすと、きっちりと着こまれたその布の下の温度まで伝わって来るようだ。
「アリアメルラ王女」
「はい」
「『汝、【宝石の魔女】たるや?』」
「……『其は秘中の花。やがて咲きたる雫は泉に落ちて、夜明けを告げん』」
「『汝、【宝石の魔女】たるや?』」
「『其は安寧の標。風に依りて眠り就き、静寂を生む』」
「『汝、【宝石の魔女】たるや?』」
「『其は天を分かつもの。地を分かつもの。人を分かち、其の智を分かつもの』」
「『汝、……【宝石の魔女】、たるや?』」
「――……『吾は総べる者。世の理を解し、真を呑み込み、森羅万象を授ける神の妻である』――……っ」
今度こそ、サージェリウムは本能のままに唇を奪った。荒々しく口腔内を蹂躙されてアリアメルラが苦しげに喘ぐ。それすらも封じるように抱き締めると、彼女の手が行き場を求めて彷徨った後、縋り付くように背中に回った。それも段々と力を失って行くのが稚く、愛おしい。
柔らかな肢体が未知の感覚に怯え、竦み、やがて甘く震えるて堕ちるまで、男はその唇を貪っていた。
「……時間か」
「……ふぁ、んぅ、」
不意にどこかで、ワッと声が上がったのを合図に顔を上げる。
ついでに闇の中へ憶測で手を伸ばし、魔石ランプがあっただろう場所に向けて小さく光魔法を放つと、過たずオレンジ色の明かりがぼうっと部屋を照らした。
目を落とすと、腕の中でぐったりと体を預けるアリアメルラはすっかりと上気し、胸元がやや乱れていた。サージェリウムが思わず布地を引き千切りかけて、さすがに思い止まった結果である。ただ、布製の柔らかいコルセットは大きく膨らむ胸を散々揉みしだかれて、抵抗空しくドレスの中で撓んでいた。
「王女。今の問答が【宝石の魔女】を得るための契約で間違いないか?」
「は、い……。ただびとが、【聖なる魔女】を配偶するための、神が定めた、条約で御座います……」
「ふん」
忌々しくも面倒な手続きだ。
ついでに、顔と手以外の全てを覆い隠すデザインのドレスが鬱陶しい。貞淑を求める貴族子女らしい型とは言え、胸元も手首も詰まり、スカートをたくし上げても膝上まで上がらないのは、破けない包装紙のようだ。
さっさと脱がしてやろうと考えながら、男は未だ力の入らないアリアメルラの体を抱き上げた。
「行くぞ。そろそろ陽動がバレる」
「――お待ちを……」
「ん?」
「貴方の、名を……」
「ああ、言ってなかったか。俺の名はサージェリウム・オーギュスト・ド・ロンドバル。ロンドバル公国国王だ。そうだな、ジルと呼べ」
「ジル……」
アリアメルラは噛み締めるように呟くと、晴れやかに笑った。サージェリウムが初めて見る、彼女の人間らしい笑顔だった。
「では、私はアリア、と」
「うむ」
それが世界に災厄齎す二人の、始まりの夜である。