前編
その男の子を意識し始めたのは、小学校の高学年だった。
それくらいの歳の子供にとって、父兄参観日と言えば来てくれる家族を比べ、誰かを貶めては優越感に浸る者もいたりする。実際、彼の所は祖父母であろう歳の行った二人連れが見に来ていて、その事で他の男子に随分とからかわれていた。なにしろ彼は古びたアパートに住んでいるそうで、普段から貧乏人だとからかわれていたのだから、その延長だったのかもしれない。
私には母が居らず父が見に来てくれてはいたけれど、普段から声もかけてはもらえないのだから、世間体を気にしての行為である事は窺い知れた。私を気にかけてくれる家族はいないものだから、彼が羨ましいと思ったのだった。
だからと言って彼と親しくなったわけでも無く、ただのクラスメートのまま卒業して、私が私立の中学に進んだこともあって接点が無くなってしまっていた。
それでも何故だか彼、三条佑斗君の事は今でも忘れる事が出来ないでいた。
私の家は世間一般で言うお金持ちの家である。
家は代々続く貿易商で、今は海外にも支店を置くほどに手広く商いをしている中堅商社。父は数年前から社長職に就いていて、社長就任と前後して再婚もしている。
実の母は私が小学校に上がった頃、家を出て行ってしまった。その前から私の世話はお手伝いの美弥子さんが見ていてくれて、両親共に私には無関心だったので悲しさは感じなかった。
義母には息子がいるのだが、これが父にそっくりな顔をしている。おそらく私にとっては腹違いの弟と言う事なのだろう。父に可愛がられているところを見ると、私はもらいっ子なのではないかと思ってしまうほどだ。当然、義母にも義弟にも居ない者のような扱いなので、中学を卒業すると同時に独り暮らしを余儀なくされた。
自宅に近いが、年季の入ったアパートが『明日から私の家』になると伝えられたのは、卒業式を終えて帰宅した玄関先でのことで、引越しの手配も済んでいるとも言われて部屋に入れば、目を腫らせた美弥子さんがダンボール箱の脇で頭を下げていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様のお言いつけで、勝手ながらお荷物を詰めさせていただきました。また、今日をもってお暇を頂く事になりました。長らくお世話になりました」
「こちらこそ。幼い頃から美弥子さんにお世話して頂いたので、こうして無事に中学を卒業する事が出来ました。これまで育てて頂き、ありがとうございました」
「もったいのうございます。お嬢様、どうぞお元気で……」
「美弥子さんも、お元気で」
渡されたメモとスマホの地図アプリを頼りに、小さなバッグをひとつ提げてアパートの管理人室らしい一号室を訪ねると、三年振りだが間違う事のない三条君が立っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
お金持ちって不自由なものだと思う。
子供も大人も上辺だけの気持ちの悪い笑みを浮かべて、すり寄って来るのだから始末に負えない。ましてやお零れに与れないと解ったとたん、手のひらを返したように嫌われ者に転落してしまう。同じ後ろ指を指されるなら貧乏人の方がまだ良いと、幼心に思ったのは小学校の高学年だった。
同じクラスに柏木紗理奈さんと言う女の子がいた。
彼女は家が裕福らしく、着る物も持ち物も華美な物が多かった。運動会や遠足などでお弁当を持参する際は、高そうな食材の料理が程よく詰まった物を持ってきていて、よくクラスの子におかずの交換を迫られていた。
あれは修学旅行を間近に控えた時だった。彼女と同じ班になった女子がお揃いのバッグを持って行こうと言い出し、彼女に人数分揃えるように迫ったのだが、彼女は一言「お小遣いも貰った事が無いのだから、無理」と突っぱねた。
それからだろう。彼女にすり寄っていた者は態度を一変させ、クラスで孤立させられた。僕自身、貧乏人だの親無しだのとからかわれていて、やはりクラスで孤立していたものだから、手を差し伸べたって焼け石に水だったと思う。それでも変わらぬ態度で接する僕に、すまなそうでいて少し嬉しそうな表情を見せる彼女は、少しは救われたのかもしれない、と自惚れを抱いたりもした。
彼女は結局、中高一貫の進学校に中学から進むことになり、卒業式後に握手したのを最後に会う事は無かった。
彼女の自宅は同じ学区とは言え、その端と端で偶然ですれ違うとかは無かったけれど、噂だけはよく聞こえてきた。義母や義弟に蔑ろにされ、実父には相手にもされない、お可哀想なお嬢様だと、そう言った侮蔑の噂ばかりだった。いつか手を差し伸べられるようにと、それだけを思って三年間を頑張って来たのだ。
彼女はそのまま上の学校に進むらしいので、同じところを受験して合格した。
同じクラスは無理かもしれないけれど、また接点を持てればと勝手に思っての行動だったが、幸運が転がり込んできた。彼女は実家から出されてしまう様で、家賃の安い物件を義母が探しているとの事だった。
ならば、と伝手を頼って行動に移す。
我が家の収入先として古びたアパートを持っていて、大家として一階に僕が住んでいるのだが、現在借り手が居ない状況だった。家賃を安めに設定して、不動産屋に進めてもらうように頼んで回ると、建物も見ずに契約してもらえた。
さあ、彼女を迎える準備をしよう。
彼女が初めての一人暮らしで困る事のないように。
なにかあれば頼ってもらえる様に。
彼女が幸せになれる手助けができるならば、高校の三年間を無駄にしたって惜しくないのだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇
たぶん驚いた顔をしたんだと思う。苦笑い気味な三条君に向かって、改めて真面目な表情を取り繕って挨拶をする。
「あの。今日からこちらでお世話になります、柏木紗理奈と申します。えっと、大家さんはいらっしゃいますか?」
「久しぶりだけど、僕の事を覚えているかな?」
「うん。小学校で一緒だった三条佑斗君だよね。あなたもこのアパートに住んでいるの?」
「ここは僕の家だからね。えっと、一応は大家の三条です。もっともこんなに寂れているので、今入居している人は居ないんだよね。玄関先ではなんだから、とりあえず入ってもらえるかな」
「お邪魔します」
一応は大家って言っていたけど、ここで独り暮らしをしているのだろうか。本人に聞いたわけではないので確かではないが、ご両親は他界されていると聞いた事があるし、実際に参観日などでご両親を見たことが無い。いや、あの年配のご夫婦がご両親ならば見たことがあると言えるけれど、可能性は限りなく低いだろう。
外観の見た目とは裏腹に、玄関も広くて今風にリフォームされている。家扉の先に広がるリビングも広く、もしかすると一階全てを使ってリノベーションされているのかもしれない。
「中は広いし綺麗にリフォームされているんだね」
「面倒をみてくれていた人が高齢になった時にね、思い切ってリノベーションをしてもらったんだよ。何しろ、それまではトイレは共同だったし風呂も無かったからね。もっとも、直しが済んだくらいで持病が悪化して、施設に移っちゃったから少しもったいなかったかもしれない」
「私の借りる部屋は元のまま、かな」
古いのは我慢できるけれど、流石に『廊下の先にある共同トイレを使って』とか言われたら躊躇するし、毎日銭湯に行くとしても歩ける距離にあったかどうか記憶にない。
一人暮らしを期に小遣いを貰える事になったけど、諸々込みで二万円なので出費は出来るだけ抑えたい。そう、家賃と光熱費、学校に掛かる費用以外はその中でやり繰りしなければならない。スマホはそのまま持ってきたけど、回線は解約されているので如何にかする必要もある。
「安心して。二階もリノベーションしてあるから、風呂もトイレも完備されている。ネット環境もちゃんとしていて使い放題だし、オール電化だからキッチンも使い易いと思うよ。ところで、上に三部屋あるんだけど希望はある?」
「希望って?」
「柏木さん以外に借りている人がいなくてね。階段が近い方が良いとか日当たりが良い部屋希望とか有れば、引越し屋が来る前に決めてしまいたいなと」
ずいぶんとニコニコしながら話しているけど、それってアパート経営的に問題があるって事ではないのだろうか。まさか卒業を待たず、出て行ってくれとかに成らないよね?
「事故物件でなければ大丈夫です」
「面白い事を言うね。大丈夫、過去を遡ってもそう言った事は無いから。それなら三号室が良いかな。非常口もあるから」
「非常口? 窓から逃げられるの?」
「内鍵の付いた扉を開けると、梯子でここに逃げてこられるよ。大丈夫。こっちからは入る事が出来ないし、そもそも玄関の予備鍵は僕が管理しているから」
「それって、全面的に信用しないと成り立たないじゃない」
「大家と店子の関係ってそんなもんでしょ。僕が信用ならないなら別の人を立ててもいいけど」
離れていた三年間で変わってしまっているかもしれないけれど、あの頃の優しさが無くなってしまってはいないだろうと思うし、大家がマスターキーを持っているのも当然なのだろうから、否は無い。
とりあえず部屋を見せてもらって、最終的に決めればいいだろう。
「なら、そこと角の部屋を見せてください」
「はい、鍵も準備してあるから行こうか」
促されて一旦外に出て、外階段を上がって二階の外廊下を進む。パッと見、音が響くのかと思ったらそうでも無い。鉄板剥き出しでは無く、コンクリートが敷いてあるからしっかりした感じがある。これなら、外を歩く音が聞こえる事も無いだろう。
案内された三号室は一番奥の部屋で、一階と同じように綺麗にリフォームされていた。間取りは1LDKにトイレと風呂が別になっている。リビングダイニングは十畳ほどだろうか、カウンター式のキッチンも開放感があって日当たりも良い。なにより脱衣所に洗濯機が置けるし、乾燥機能付きのユニットバスは独り暮らしには助かる。
正直なところ、古めかしい外見から洗濯機は廊下だろうと思っていたし、あの両親が探してきた物件だから、もっと酷い所だと半分諦めていたのだ。
件の非常口は台所の床に在り、言われなければ床下収納の扉に見える。
「ここ、開けても良いかな」
「うん。使い方を見せるね」
三条君がしゃがみ込んでロックを外し、つまみを引き出して扉を持ち上げると、階下の壁に沿って梯子が据え付けてあった。覗き込んで見回せば、廊下の突き当りになる様だ。
「本当は、僕の部屋にするつもりで付けたんだよ。でも、下が空いてしまったからそのまま誰にも貸していないんだ。それに他の部屋より少し広いんだよ」
「これで家賃はいくらなの?」
「ん? 他の二部屋は管理費込で五万円。築年数から言えば高めだけど、内装を加味すれば安いはずだよ。この部屋は家賃の設定は無い。こんな仕掛けがあるからね」
「私なんかが、借りてもいいの?」
「それは。引越しが終わったらちゃんと話すよ」
「そう。ならお言葉に甘えてしまおうかな」
何か訳がありそうだけど、それはこちらも訳ありなので詮索は躊躇ってしまう。正直なところ、いきなり一人になってしまう寂しさや不安もあって、見知った人からの厚意がとても嬉しかった。
トラックの止まる音で外に出ると、引越し屋のトラックから人が降りてくるところだった。
「すいません。脇の駐車場がそっくり使えますから、そっちにトラックを入れてもらえますか」
「おい、車まわしとけ。えっと、柏木さんで間違いないですね。部屋はそちらでよろしいでしょうか」
「はい。よろしくお願いします」
ダンボールが七箱とベッドに学習机。あっと言う間に搬入は終わってしまう。
荷物の少なさに驚かれるかと思ったけれど、三条君は特に驚いた様子もなければ聞いても来ない。借りた部屋の寝室にはクローゼットが備え付けられていたので、ベッドと机を入れても圧迫感は無かった。しばらくはダンボール箱から直接着ようかと思っていたけれど、服はつりさげる事が出来たので下着を入れる箱でも用意しよう。
「えっと。驚かないけどみんなこんな感じ?」
「いや。家電を持ってこなかった人は初めてかな。その聞き方だと、別に届くって感じじゃないよね」
「うん。荷物はこれだけ。家電や調理用品は、リサイクルショップでも見て回る様かな。どれくらい買えば運んでもらえるんだろう。あまり予算も無いんだよね」
「荷解きは後回しにして、少し話をしようか」
◆◇◆◇◆◇◆◇
柏木さんを連れて部屋に戻り、ダイニングテーブルに着くように言い置いて、コーヒーと茶菓子を持って向かい合って座る。
緊張している様なので和ませたいが、生憎とそっちのスキルは乏しいし、少々込み入った真面目な話をしたいので我慢してもらおう。
「どこから話そうかな。……そう。柏木さんの家の噂話を聞いていてね。それが事実だったんだろうとさっき確信したんだ。柏木さんとご家族は上手く行っていなくて、疎まれているのだろうって」
「そうね。あまり気持ちのいい話ではないけど、小さい頃からかまってもらった事は無いし、再婚してからは疎まれている感じだったわ。中学も公立に行きたかったけれど、有無を言わせず受験させられたのだって、父が世間体を気にしただけだったから」
「僕はね。知っているかもしれないけど、両親は幼い頃に他界していてね。母方の祖父母に育ててもらっていたし、このアパートも遺産のひとつなんだ。一般的な家庭よりもお金は有るけど、それを隠してきた。君なら判るだろうけど、お金にすり寄ってくる人間が、僕にはとても醜く見えて嫌いだった。君はそう言った関係性の中でも、曇る事も無く凛として見えた」
そこでカップを持ち上げると、少し伏し目がちに彼女が口を開く。
「そんな恰好良いものじゃないよ。道理を知らない子供だったから。でも、敬遠されても苦では無かった。あなたが手を差し伸べてくれたし、板挟みになったら生きていけないと思ったから、友達よりも親を取っただけ」
「うん。卒業式の時、君の表情から力になれたのかもと自惚れた。お互いに親と縁が無いけれど、それでも僕の方が恵まれていて。だからこそ、君が幸せになれる手伝いがしたかった。あの頃はそれが許されなかったけど、今なら出来るのではないかって思った」
「気持ちは嬉しいけど、誰かの負担に成りたいわけじゃないの。迷惑は、かけたくない」
スッと顔を上げた彼女は、真っ直ぐに僕を見てそう言い切ると、フッと表情を緩めた。
「私ね。あなたにちゃんとお礼が言いたかったの。あの時手を差し伸べてくれてありがとうって。ちゃんと一人で立てる様になった時、お返しが出来るように成ろうって思っていたの。だからこうして出会えて、こうして接点ができたことが迷惑かも知れないけど嬉しかった」
「なら、ちゃんと一人で立てるよう、手助けさせてほしいな。生活費がどうなっているかは判らないけど、あれを見る限りまともな生活なんて送れないんだろ」
聞きだしてみれば、食費だけに宛てても日に七百円に満たない小遣い。それも切り詰めなければ携帯の通信費も捻出できないし、家電を買い揃えるなど夢のまた夢だろう。箱の中身が分らないけれど、鍋など無ければ料理さえできないではないか。
やはりと言わざるを得ないだろう。
想定内の状況なので、有無を言わさずにいくつかの提案を飲んでもらう事にした。
まず洗濯機は、こちらで用意すると押し切った。引き払う際に置いて行ってもらえば良いし、『うちの洗濯機で一緒に洗う訳にもいかないでしょ』と言えば、顔を赤らめて了承してくれた。
テレビは使っていないのが有ったので、これも貸す事で部屋にもって行ってもらう事になった。
携帯の契約は、僕の方でSIMを追加購入して与える。格安回線で、家族わりにすれば安いからと納得してもらった。そもそも、なにかあった時の連絡が出来ないのは大家として困ると言えば、納得せざるを得ないだろう。費用については体で払ってもらう事になった。
体で、と言っても家事を担ってもらうのだ。一人分も二人分も手間は変わらないからと、夕食を一緒に作って食べる事にした。料理をあまりした事が無いと言っていたので、教えてあげるからと承諾してもらう。
「本当に迷惑では無いの?」
「しばらく独り暮らしだったから慣れたとはいえ、寂しい事には変わりない。想定内だから気に病む必要も無いよ」
「想定内なんだ」
「金持ちの柏木さんが安い借家を探しているってね。どうやら娘を独り暮らしさせるようだって聞いて、あえて古い間取りの契約書で値引いて良いからって契約を取ってもらった。案内も断ったそうだよ。『あぁ、あのぼろアパートね』で終わったそうだよ」
「もう、悲しみさえ感じないわ。いっそ縁も切ってくれって言えないのが悔しい」
ここまでされても泣く事も出来ないなんて、今までどれだけ冷遇されて過ごしてきたのだろう。いや、考えるのは止そう。一緒に前を向いて進んで行ければ良いのだから。
「夕食は蕎麦でも食べに行こうか。家賃収入の復活を祝して奢るからさ」
「えっと。うん、ありがとう」
◆◇◆◇◆◇◆◇
歩いて行ける所にこんな美味しいお蕎麦屋さんが有ったなんてって驚いたけれど、この辺りでは人気のお店なんだと教えられて、気に入ったならまた来ようねって言われてしまうと、なんだかお付き合いしている気分になってフワフワしてしまった。
彼と私は大家と店子の関係だし、彼は優しいから手を差し伸べてくれているだけだと思うと、この気持ちに蓋をすべきだと少し落ち込んでしまう。それに気付かれてしまったのだろうか、帰り道でスッと手を繋いできた。
「美味しいものを食べてせっかく笑みがこぼれたと思ったのに、帰り道で沈んでしまうほどの不安は何だろうか」
「えっと……。主に生活かな。世話してくれていたお手伝いさんが居たから、出来ない事も多いと思うし、三条君に甘えてばかりって訳にもいかないでしょ」
「甘えてくれるのは全然かまわないよ。貸し借りだとも思わないし。なんだろう。柏木さんに頼ってもらえるのは、なんだか嬉しいんだよね」
「うん、ありがとうね。ところで、明日の朝食を買いたいんだけど、コンビニに寄ってもらえるかな」
コンビニの場所は知っているけれど、そことアパートの間に薄暗くなりそうな場所が有って、独りで通るのが少し不安だった。遠回りと言えないくらいなので言ってみたのだが、あらぬ方向に話が進んでしまった。
「朝はパン? それとも白米?」
「家ではパンだったけど、ご飯の方が好きかな。おにぎりだったらゴミも少なくて済むよね」
「なら食べにおいでよ。毎朝炊いているし、みそ汁と卵焼きくらいなら用意できる。他に食べたいものが有れば言ってみて」
「十分だよ。でも、なんで」
「年寄りと暮らしていれば普通だよ。高校では弁当を持って行くつもりだから、もう少しおかずも増やさないとだけど」
「そうなんだ。そうだ、食費を渡さないとね。そんなには出せないけど……」
「いらないよ。住んでもらえば収入は増えるし、それを使えば懐は痛まない。独りの食事は寂しいから、付き合ってもらえるなら嬉しい。むしろ僕が払うよう?」
それって甘えていいのだろうか。いやレンタル彼女とかではないから、お金を払う必要はないけど、家賃から食費を出すって実質収入減じゃないのだろうか。未入居と比べるのは違うと思うのだけど、あれ?
話はそこで止まってしまって、結局は真っ直ぐに家に帰る事になった。
翌朝スマホのアラームで目覚めると、身支度を整えて三条君にメッセージを送る。まだ電話が使えないし、メールアドレスも取直しになるので、今使える連絡手段はSNSだけなのだ。無料通話機能もあるけれど、まだ寝ているなら起こしてしまうのは忍びない。それでも送って直ぐに既読が付いて、『いつでもどうぞ。カギは開いてる』と返信されれば、彼の方が早起きだっただろうと察せられる。
昨晩荷解きをしたら出てきた、私が使っていた茶碗や箸を携えてお邪魔すると、彼は台所で卵焼きを焼いているところだった。
「おはようございます」
「おはよう。箸と茶碗は奥の食器棚にあるから、好きなのを出して。冷蔵庫に納豆とかもあるから、好きなのを出してくれて構わないよ」
「お茶碗と箸、カップは持ってきたので洗わせて」
「どうぞ。卵は甘いのにしたよ。冷蔵庫になめ茸の瓶詰と大根おろしが入っているから、醤油と一緒にテーブルに出しておいて」
土鍋で炊いたご飯にワカメと長葱のお味噌汁、厚焼き玉子となめ茸の載った大根おろしに、お新香は大根の葉を使った浅漬けだそうだ。お米は夜に研いでおいたらしいけど、六時には起きて支度をしていたらしく、それはここ数年の日常ルーティーンだと笑っていた。
どれも美味しくって、なぜだろう涙が零れてしまった。もしかすると美弥子さんの味に近いものを感じたのかもしれない。三条君は零れた涙には触れずにいてくれて、味は如何かとか量は足りるかなんて、およそ十五歳の男の子には思えない質問を繰り返した。
「今日の予定は買い物?」
「えっと。衣装ケースが欲しいのと、ケトルくらいは有った方が良いかなって。ホームセンターだったら纏めて揃うと思うの」
「だね。昼前にさ、従姉のお姉さんが来るんだ。定期的に様子を見に来てくれるんだけど、車で来るから買い物に付き合ってもらうと良いよ。本人もその心算だから」
「でも、わるいよ」
「でもトイレットペーパーとか重い物もあるだろうし、いろいろ心配していたから相手してやって」
◆◇◆◇◆◇◆◇
三条君の従妹さんは、三船智子さんと言う大学生だった。来て早々に三条君の頭をガシガシと掻き乱し、背中をバンバン叩きながら「女の子と優雅に朝食だなんて気取っちゃってさ」とか言ってからかった。私に対してはニッコリ笑って名乗ってくれて、なにかあったら遠慮なく相談してねと言ってくれた。
腕を取られて拉致されるように車に乗って出発したけど、正直なところとても助かった。思っていた以上に独り暮らしには必要な物が多くて、あっと言う間に手持ちのお金が底を突きかけた。そういった事からも、両親の私に対する扱いの酷さを実感させられた。
アパートに戻れば三条君がテレビの設置を終えて、三人分の昼食を用意してくれていた。智子さんは当然のように味付けにダメ出ししながらも、思いっきり食べていたのが面白かった。
三条君には話していないが、智子さんから教えてもらった事がいくつかある。
彼は小学校の頃からずっと私の事を気にかけてくれて、智子さんを含めて親類などに相談していたそうだ。『だからと言って、恩を感じて無理に好意を寄せる必要なんかないんだよ』って真剣な表情で言ってくれたけど、せっかく蓋をしようとした思いが飛び出そうになって、少し空気が重くなってしまったのは申し訳なかった。
古びたアパートは立て直すだけの蓄えが有ったそうだけど、彼の我儘でリノベーションで留めたそうだ。その理由の一つとして、私が行き場を無くした時に匿えるようにしたのではないかと言い出す。もっとも、その考えは智子さんが言い出した事で、その時は誰も信じなかったらしいが、事ここに至っては真実味が増したと笑った。
そんなだから、金銭面も含めて甘えたって良いからねって言ってもらえたけど、さすがに甘えてばかりはいられないだろう。