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後編

この女は、狐だろうか。

自分は、化かされているのだろうか。


伊太(いた)は、そうではないと思った。自分には、化かされるほどの裏は無い。だが、自分の名を呼んだこのもののけに、興味はある。

「伊太は、優しい」

のっぺらぼう、とかつて呼ばれた女は、烏の面を付けたままそう言う。いや、口は紅で描かれているから、声はそこから発せられる訳ではないはずだ。

しかし、聞こえる女の声もまた、優しい。


夜は、まさに逢い引きをする男女のように、伊太は女と、橋のたもとで話をする。

(ぬい)といるときとは違い、女は伊太の話の先を読むように言葉を紡ぎ、寄り添い歩く。

いつも、てらいない態度で年下の幼なじみを意図せず困らせてしまう青年にとって、女と過ごす日々は何とも心地よかった。


**


(ぬい)

山伏に呼ばれて、我にかえった。

昨晩あまり眠れなかったので、うとうとしていたらしい、と慌てて顔を上げると、山伏は滝壺から一歩抜け出し、川原に座る縫に向かって歩いてくる。

「毎日付き合わんでもええ。寒くないか」

枝にかけた白衣を無造作に取りながら山伏は聞いてきたが、縫は首を横に振った。山伏と過ごすようになり幾日か経つ。風は秋めいてきたが、烏天狗の体を持つ縫は、多少の風に耐えられぬほどやわではない。

むしろ、適度な風は慣れ親しんだもので、肌に心地よい。


山伏は、紅をさした縫の唇に、優しく自分の唇を重ねる。

「山伏は、女を抱いて良いのか」

縫は、周囲に何者もいないことを確認し、照れながら聞いた。

烏天狗特有の羽は、いまは畳んでいる。山を離れ、地上で暮らす娘には、体より大きな羽は不要だった。

そして、人間の男に抱かれるときにも。

縫は、山伏の均整のとれた体を見る。毎日のように滝に入る姿は、禁欲的な修験者そのものだ。しかし、山小屋へ戻れば毎夜、縫を抱く。

「おれは人間じゃ。欲望に忠実な、俗人じゃ」

にやり、と、整った顔をやや歪めて笑う。縫はそれを見るたび、他意はなくとも伊太の屈託無い笑顔を思い出してしまう。

「何を、考えてた?」

山伏が意味ありげに言うが、縫は寝不足の気だるい様子で微笑した。

「ゆうべの、もののけのことだ。人のすみかをああいう風に襲いに来るものなのか」

ああ、と山伏は納得したような顔をした。

「あんなのはしょっちゅうじゃ。しかし縫の攻防は見事じゃった。流石じゃな」


昨夜、山伏の腕の中で眠っていた縫は、小屋の外に気配を感じた。目を開けて戸のほうを見ていると、気配はゆっくりと山小屋の周りを足音も立てずに回っていく。


ずん、とそれ(・・)が、屋根にのし掛かった。山伏もすでに目だけで気配を追い、手で何やら印を形作りながらもののけの様子を伺っていたが、天井がめりめりと音を立ててたわみ、室内の二人目掛けて迫ってくる。次の瞬間、巨大な足が屋根をぶち抜き二人を押し潰した。いや、そのように見えた。

縫は、足の下敷きになる一瞬前に、山伏の杖を掴み戸を開けて外に飛び出していた。夜空に漆黒の羽を広げてそれ(・・)の頭上まで飛び上がり、杖を振り下ろす。

甲高い獣のような声がしたが、構わず今度は屋根すれすれのところを横になぎはらった。

気配は、獣の声とともに木立の方に飛んで行き、そのまま尻尾を巻いて慌てて逃げていく。それは比喩ではなく、縫には文字通り太い尻尾が見えた。


「狸が人を化かしているところを、初めて見たわ」

ははは、と山伏は大笑いする。

「化かされてはいないじゃろう。その前に追い払ったんじゃから。俺の出番はなかったなあ。良いところを見せようとしたんじゃが」

冗談めかして言う山伏に縫は微笑で返すと、白衣越しに背中の傷を見た。山伏も勿論あれは狸の仕掛けた幻覚とわかっており、杖は無くともまじないでたやすく撃退できるのだろう。少なくとも、あんな狸に苦戦するとは思えない。今日、縫が寝不足なのは、こんな余計なことを考えているうちに夜が明けてしまったせいである。

「傷だらけの山伏では、不安か?安心せえ。今はそんなにやわじゃあない」

背中への視線を感じたのか、にやり、と笑う山伏に、縫はそれ以上は聞かず、羽を広げた。ゆうべは久しぶりに飛んだので、軽く動かし全身と馴染ませる。


ふわりと、しかし力強い風を顔に感じた山伏は、その手を漆黒の羽に優しくかけた。

「見事じゃな」

自分の山では羽を撫でられることもないから、気恥ずかしい。

「もののけに生まれるというのは、どういう気持ちじゃ」

手をかけたまま、山伏が問う。

「どう、と言われても」

気づいたら羽があった。教えられずとも空を飛べた。

そして人間と話す機会も、とんとなかった縫は、自分は至極普通だと思っていた。

「おれは、修行をしても縫みたいに自在に空は飛べんからな」

優しく、異形の形を確認するように、山伏の指が動いた。縫は、羽を畳む。なにか、畳まなければならない気持ちに、なったのだ。

「なんじゃ、畳んでしまったか」

山伏の笑顔は、優しい。

そうして、指でそっと、紅が引かれた縫の口をなぞる。

「おまえは綺麗じゃ。ずっと傍に置いておけたら、どんなにええかのう」



***


伊太(いた)は、 昼間は可能な限り、女とともに山へ行く。

のっぺらぼうが町に出たのが夜だけであったのは、女自身が山中で過ごしたというかすかな記憶を頼りに、明るいうちに山を歩いていたからであったらしい。

「なにか、わかるやもしれん」

面をつけ紅を引いた女は、自分のものではないにしろ、顔を得たことで、まずは自分が何をしているもののけであるかを思い出したようだ。

自分は、山で人を化かすことを楽しみとしていたと。

初めて会う相手の名を呼び、見せかけの情で、惑わし、誘う。


「見よ」

伊太が女の言う方向を見ると、沼の中に男が呆然と座っている。もう水浴びをするには涼しすぎるので、きっと狐に騙されたのだろう。伊太が近寄ると、綺麗な娘に誘われたのに気付いたらここに、と半べそをかいているので、近くに落ちていた着物を渡し、村への道を教えてやった。


「人間の男は、美女に弱いというのは本当だな」

その、伊太の物言いがまるでひとごとのようだったので、のっぺらぼうは可笑しそうに笑った。

「人の顔色を読むのは、たやすい。人は弱いから、何を求めているか、何を怖がっているかが手に取るようにわかる」

女は、伊太のほうを向く。

「伊太は、逆だろう。人には優しいが、気持ちを読むのは得意ではなさそうだな」

やや意地悪そうな言い方だが、それは伊太自身やや思い当たる。

女を知らないわけではないが、女の気持ちというのはわからない。そう考えるとき、思い出されるのは決まって縫の顔であった。

女は、縫は山伏といると言った。

やや複雑な気持ちは、幼なじみを思う兄貴分としてのものだろう。

しかし、縫がなぜ山伏の元へ行ったのかは、この鈍感な烏天狗には全くもってわからないのであった。


****


「縫は、可愛いな」

濡れた体のまま、恋人を抱き寄せる。今日は白衣をつけずに滝に入っていたのだ。剥き出しの、背中の傷痕が痛々しい。

「疼いたり、しないのか」

浅い傷もあるが、盛り上がったままの大きな傷は、体に刻まれた時にはさぞ深いものだったろう。縫が優しく背中を撫でると、山伏はさらに腕に力を込める。

「昔の傷じゃ。そのうち無うなる」

年月とともに、薄くなるという意味だろうか。

山小屋には、狸以外にも様々なものが来た。あるときは大蛇が小屋を幾重にも巻き、あるときは見せかけの炎に包まれた。

そのたびに山伏は呪術を扱い撃退するが、もののけと対峙することが多い割には、様子を見る時間が長い。

傷跡からはそれなりに、壮絶な過去は想像するに難くないが、それを聞いても、いつもにやりと意味ありげな笑みとともにかわされる。

もののけの種族とはいえ、統制の取れた山で過ごしてきた烏天狗の縫には、山伏の歪んだ笑みの裏を読むことはできなかった。

伊太の笑顔は、裏も表も無いものだったから。


「伊太に会いたいのか」

びくり、と縫の体が動いたが、山伏は縫を抱いたまま離さない。

伊太と比べてしまうのは、男っ気が無い中で接する時間が長い幼なじみという関係上、仕方ないと思うが、いまの恋人の前で顔に出てしまうのは縫をさすがに気まずくさせた。

山伏は、そのまま耳元で囁く。

「おまえも、どこぞへ行ってしまうのか」

縫は首を振る。おまえも、とはどういうことだろう。考えても答えは出ず、そのままきつく抱かれていたため、山伏の肩に紅がついた。

血のようだ、と縫は思った。


*****


伊太は、女のあとを歩いている。

昼間でもうっそうとした林の中を、女は時折立ち止まりながら、進む。

何か、記憶の手がかりはないものか。物なのか、人なのか、それすらわからずにひたすら歩く。


女は、伊太はわかりやすい、と言う。

「おなごの烏天狗が何をしているか、気になるだろう」

責めるわけではなく、からかうような女の物言いに、伊太も心を見透かされたようで、なんとも気まずい。しかし、それは幼なじみとしての心配なのも事実だ。

「幼なじみというのも、厄介だな」

ふふ、と、笑われた。女というのも厄介だ、と伊太は苦笑した。


「あのおなごは、良い娘だ」

そう言って、着ていた羽織の袖をつまむ。あの晩、暗闇でしか見ていない伊太には、これが山伏のものとは一目ではわからなかったようだ。

「あの娘と寄り添えるものは、さぞ幸せだろう」

伊太は、頷いた。

「俺のような鈍い男より、縫の気持ちを汲むことのできるやつはどこかにいるだろうな」

自嘲気味に笑う伊太のほうを向き、女もおかしそうに肩を揺らす。

「鈍い、か。そうだな。鈍いくらいがちょうどいい」


見えない割には迷いなく歩く女の足元に、不恰好に曲がった枝が横たわっている。

伊太が危ない、と思ったとき、女は枝を自然な仕草で跨ぎ、再び歩く。

気配を感じるのだろうか。

女の勘というやつか、そう伊太は思い、そんなことを考えた自分が可笑しくなった。


「女の勘か」

伊太が、立ち止まった。言ったのは、女である。今自分が思い浮かべた言葉は、行動や会話から予想できる類のものではない。

伊太の背筋がすうっと冷えた。


「伊太」

優しい、女性の声だ。狐か、貉か。

「狐でも、貉でもない」

そうか、そうなのか。

「お前は、人の頭の中を読むのか」

あえて口に出した伊太の言葉に、女は頷いた。

「しかし私も」

女が言った。

「私も、真に人の気持ちを読むのは、得手ではない」

面を付けていて見えないはずの表情が曇り、嗚咽をもらした。女が口元を袖で覆うと紅が取れたが、何もない口元から、悲壮な声がする。


肩を抱こうとしたが、躊躇われた。 心を読めるもののけが、他の者への気持ちで心をかき乱されている。

伊太は空虚を感じた。おのれには、わからないことだ。


もののけの女を憎いと言った山伏の顔と、いまだ妹のように愛しい縫の顔が、思い出された。


******


夜、寝床の中で、縫は山伏のからだに触れる。

しばらく一緒に過ごすうちに、縫はいろいろなことがわかってきた。

山伏の、強さ、優しさ、弱さ。

時折、煙にまくような話し方をされるため、縫にも山伏の本心がわかりかねるところがあった。

しかし、打算や戯れで男と寄り添えるほど、縫は器用ではない。


その大きな、傷だらけの背中をいつものように撫でていると、山伏が呟いた。

「女のもののけは、なぜその姿を選ぶのかのう」

人の中身に近い感情が、外見を選び、繕うのだろうか。


「おれは、人の女の駆け引きが苦手じゃった。黙っていても女は寄ってくるが、本心がわからん。本心がわからんもんに、本音はさらけ出せん。人間の女は懲り懲りとまで思うようになり、山に籠るようになったんじゃ」

山伏が、体の向きを変え、縫の体を抱く。

「ある時、もののけに会うた。うっそうとした林の中で、紅を引いた口元だけがやけに鮮やかで、それで女じゃとわかった」

縫はいま、紅はさしていない。

紅をさすと、元からもののけの者がさらに女に化けるのは、なんとも不思議だと縫は思った。

「退治てくれようと思ったが、その紅い唇が、おれの名前を呼んだんじゃ」

あの女が、伊太の名を呼んだのを思い出す。

自分が山伏に名を呼ばれた時の、胸のざわつきを思い出す。


「その瞬間、おれは楽になったんじゃ。心を読むもののけなら、おれは本音を隠す必要はなかろうと。殺されるなら、それも良かろうと。殺してくれ、と頭の中で話しかけた」

縫の指に、山伏の傷が触れる。

「じゃが、あいつはおれを騙そうとはせず、命もとらんかった」

山伏はなおも淡々と話している。

「しばらく一緒に過ごしたが、こちらの考えを読み先んじて行動するもののけての暮らしは、おれには新鮮じゃった」

考えを読む、か。

伊太は、優しく、こちらの心をくすぐるようなことを言うが、それは縫の気持ちに合致する結果に繋がるわけではなかった。


「しかし、おれの本心は、どこか違うところにある。うわべを取り繕うことに慣れたおれの気持ちは、もののけにも読めんかったようじゃ」

山伏が、自嘲気味に笑った。

「おれは、あいつのことが憎くなった。頭の中は読むが、わかってはくれん。憎い相手を手にかけようとしたが、さすがに先を読まれてはとどめはさせん」

背中の傷が、ぞろりと動く。

「そうして、まじないで退治てくれようとしたが、攻防の末にあいつは逃げた」

縫は、手を止めた。


「おれの背中には傷が残り、あいつは顔を失った」

そうして、女はのっぺらぼうになったのか。

「おれの好きな、おれの名を呼んだ紅の似合う口を失って、おれのことも忘れたんじゃ」

女が自分のことを忘れていることを知った時の、山伏の寂しそうな顔を思い出す。ああ、そうか、と縫は得心した。

「おれは、ただの人間じゃ。いくら修行を積んで、まじないを使っても、人間のままじゃ」

背中のみみず腫れが、縫の指先を弾いた気がした。

縫の体は、強ばっている。山伏の感情が、痛いほど伝わってきた。


「縫。おまえは可愛い。可愛いからこそ、憎らしい」

山伏の腕に、力がこもる。


「そして、他の男のことを忘れられんおまえを抱いてるおれは、なんと弱いことよ」


*******


縫は、羽を広げた。

勢いに任せて飛び上がる。ひとまずは山伏の小屋から、そして山から離れないと。 そう思ったが、何故かうまく羽ばたけぬ。

町が見えたところで地上に降り、駆け出した。

着物の裾が乱れるのも構わず、その白い太腿までも露にしながら、ひたすら、夜の町を走った。

「縫」

なぜか、山伏の声が耳元で聞こえる。

山伏は羽を持たない、飛べるはずはない。しかし、夜空を突っ切り一直線に町へ来た縫の近くに、気配を感じる。

伊太、伊太は、どこだ。

「伊太を探しておるな」

静かな、抑揚のない声だ。しかし、手が伸びてくる気配は無い。

「縫、おまえの羽はとても綺麗じゃ。だが闇と同じ色をした羽は、お前には似合わん」

目の前を塞がれた。これは、山伏のまじないか。

「羽など持たずに、おれの傍にずっといてくれ」

逃れようと必死にもがいた指先に、覚えのある隆起が触った。山伏の背の傷。

無意識にたてた縫の爪に、山伏の血が滲む。

縫の背中には、大きな手の感触がある。毎夜、可愛いと自分を抱いた、山伏の手。

その手が縫の羽を、もいだ。



痛みで、意識が飛ぶ。背中をぬめりとしたものが伝い、その感触で我に返る。驚くほど滔々と流れる、自分の血。

「もし」

聞いたことのある声だ。橋のたもとで、伊太を呼んだ声。

「縫、動くな。傷に障る」

ああ、伊太もいる。装束を着ている姿を見るのは、久しぶりで懐かしい。その手甲をつけた手に制されたが、縫が無理やり体を起こすと、山伏と、羽織を着たのっぺらぼうが向き合っているのが見えた。

烏の面から見える口元は、何も描かれていない。


「久しぶりじゃの」

山伏が、整った口の端を歪めて笑う。

先ほどまで縫の行く手を阻んでいた手に、血がべっとり付いている。あたりには、黒い烏の羽根が散乱していた。

顔の無い女が眉をひそめた。眉も無いが、何故かそう見えた。

「口振りは、変わらないな。そして、中身も」

のっぺらぼうが、悲しげな声で言う。

「顔を、受けとりに来た」

少し前の縫にはわからなかったかも知れぬ、情をかけた相手に向ける、女の声。

それを鼻で笑うように、山伏は答えた。

「思い出したか」

女は、頷いた。

「顔を、お前に預けたんだったな」

「ああ、そうじゃ」

山伏が、女に一歩近づいた。

「おかげで、背中が疼いてたまらん」

かつて好いた男に向け、女は語る。

「お前は、優しい男だった。人としては憐れなほど、優しかった。本心をさらけだすのを恐れ、周りの顔色を伺い、相手を傷つけることを厭う」

はは、と男は嘲笑うような声をだした。

「弱いだけじゃ。まじないを会得しても、もののけの情に流されて一息には仕留められん。おまえがおれの背に残した傷が、もののけの心を読み、おれを躊躇わせるんじゃ」

縫は、山伏の背中の無数の傷を思う。殺生をためらう、優しさが付けた傷。

女の顔が、憂いを増したかに見えた。

「心が読めても、助けにはならなかったか」

山伏は肯定も否定もしない。女は言葉を重ねた。

「本当に、憐れよの」

「今さらじゃ」

山伏が、杖を構えた。

女が、右に体をずらすと、ほぼ同時に、山伏も体を同じ方に向ける。

しばし、双方その場からは動かず、膠着したまま時が流れた。

諦めたように手を動かした女をみて、山伏はにやりと笑う。

その時、錫杖の音が鳴り響いた。


伊太が山伏の背を突き刺したのだ。


********


伊太は、真っ直ぐじゃな。

いつしか、彼はそう言った。自分の気持ちにすら惑わされる山伏の自戒からくる言葉。

裏表ない心根のまま、この世を渡り生きるもののけの伊太には、山伏の羨望と諦めを含んだ言葉を心から理解できないのもまた、仕方のないことだった。


女は、すでに亡骸となりうつ伏している男の傍に、膝をつく。

男の背に疼いていた一際大きな傷痕は、無い。

ゆっくりと、山伏の、かつて愛した者の背から流れた血は、すでに少し乾き始めている。女はそれを指先に取ると、烏の面の下から覗く、形のよい自分の唇をなぞった。

そっと、紅を引くように。

そのまま、何事もなかったかのように立ち上がると、伊太と縫に一礼をして去っていった。

優しい笑みを、口元に浮かべて。


**********


流れるような薄い雲が、空を覆っている。

縫の羽は幸いかろうじて背中と繋がっており、しばらく安静にした後に完治した。

(むじな)では、なかったな」

「ああ、そもそも俺は貉を見たことが無い」

「私もだ」

伊太と縫は修験者装束に身を包み、山の頂上近くに座って町を見下ろしている。

それほど寒くないこの地域にも、じきに雪が舞うだろう。

「狐でも、なかったな」

うむ、と頷き、伊太は手を伸ばした。

縫が、寒い、と言ったわけではないが、ごく自然な動作で幼なじみの肩を抱き寄せる。

「…あたたかい」

「そうか」

人の善い笑顔が、すぐ隣にある。

「伊太は、さとりのようだ。こちらの気持ちをくすぐることを、口に出す前にさらりとする。しかしそれは良くない」

「何故だ?」

「期待させるだけだからな」

そうか、と、分かってるのかどうか、わからない返事がかえってきた。

「顔を取り戻したさとりは、山へ戻ってどう暮らすんだろうか」

縫は、遠くを見た。

女は、さとりであった。その名の通り相手の考えを悟り、惑わすもののけだ。

さとりは、女は、山伏のことを優しいと言った。優しく、弱い彼は自らの命を断ち、さとりに顔を返そうとしたのだろう。その気持ちが読めてしまうさとりもまた、辛かったに違いない。

だからこそ、伊太はさとりの代わりに山伏を討った。

「悲しいか」

伊太が、縫の顔を見て優しく言うと、縫は困ったように笑った。

「顔に書いてある。お前は昔から隠し事ができないから、難儀だな」

じゃあ、と懐から烏の面を取り出した。

「顔を隠せば、大丈夫か」

はは、と、伊太は苦笑した。

「顔を見ても、見なくても、気持ちを読めても、そうでなくとも。真に相手と心を通わせるということは、なんと難しいことよ」



山伏は、幼なじみを忘れられぬ縫を、憎いと言った。

自分では、山伏に心から寄り添うことはできなかった。

縫にもまた、悔いが残る。


「さとりは、山伏を好いてたな」

ああ、と縫も同意した。

「山伏は、縫を好いていたぞ。本当に」

え?と、縫は動揺する。

「縫も山伏を好いてたのに」

ぽつり、と伊太は呟いた。すまなかったな、と。

その悲しげな、後悔するような横顔に裏は感じられず、縫は、静かに首を振った。


縫は、伊太に体を預けた。伊太も、幼なじみのからだを優しく引き寄せる。

いまはまだそれぞれが、去っていった別の者を想っている。

しかし、こうして隣にいれば、気持ちはやがて、通じるだろうか。


ちら、と、空に白いものが舞った。





山伏と紅・了



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