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中編

山では、狐の話はよく聞く。

道に迷った村人が、美女に案内されこれ幸いと住まいへついていったが、翌朝家族が探しに行くとそこは荒れ果てた沼地であったという。またあるときは、提灯のあかりと思いついていくと実は狐火であり、突然真っ暗になった足元を踏み外し大怪我をした話もしょっちゅうだ。


「とにかく、美女には用心ということじゃな」

囲炉裏の前で、山伏は酒を飲んでいる。

山への帰り道は三人とも同じだ。伊太(いた)が山伏を送ると言い、結局山小屋で酒盛りをすることになった。


この修験者らしからぬ色男が、珍しく酔っている。

「狐や女の姿のもののけは、人を惑わせるんじゃ。女は、女じゃ。たちが悪いやつよ」

椀になみなみと酒を注いでは、豪快にあおる。

瓢箪を差し出し伊太たちにもすすめてはいるが、ほとんど山伏一人で飲んでいる。

山伏の隣で心配そうな顔をしている伊太を見て、(ぬい)は、やっぱりお人好しだわなどと思っていると、含み笑いが聞こえた。


「伊太も、人が良すぎて騙されんか、恋人が心配しちょるぞ」

縫と伊太を交互に見ながら、山伏は笑う。縫は慌てて否定しようとするが、それより先に伊太が至極真面目に言った。

「恋人じゃあないと言ったろう。縫は妹みたいなもんだ」

他人の目の前でこうはっきり言われ、さすがに縫も気持ちのやり場が無くうつむいた。

「妹か」

山伏が、呆れたように言った。

「縫は、そうは思うちょらんぞ」

はっと顔を上げた縫の口に、何かが触れた。山伏の、細い指。


優しくなぞられ、唇が紅を引いたように濡れる。同時に、酒の匂いが縫の鼻腔をくすぐった。


「…こんなに可愛いのにのう。気持ちを偽ることも隠すこともない、素直なもののけじゃ…」

そう呟くと、山伏はいましがた酒に浸らせた人差し指をねぶり、椀の酒を飲み干す。縫は不意の出来ごとに頬を染め、助けを求めるように伊太を見た。


「縫」

伊太が名を呼んだ。しかし嫉妬は感じられず、極めて淡々とした口調だ。

「帰るぞ。山伏、とにかく、人を殺めぬもののけに手出しは無用だ」

「そうはいかん」

縫が驚いて振り向いたほど、強い口調で山伏が言った。

「おれは、あいつに貸しがある…」

貸し?と縫は静かに問い返したが、山伏は俯き、それ以上はもう何も言わなかった。


**


闇の中、黒い羽を広げた烏天狗二人が木々の間を飛ぶ。

「山伏とのっぺらぼうの間には、何があったのだろう」

縫は、気になりひとりごちる。

結局そのまま山伏は寝てしまった。眉間に皺を寄せた顔を思いだして縫は渋い顔をするが、さあな、と風の中から聞こえた伊太の返事は、いつも通りの口調だ。


枝を避けながら視線を下に移すと、ぼう、と林道に提灯のような灯りが見えた。

「人かしら」

「いや、あれは違うな」

眺めていると、ゆらゆら揺れて突然消えたので、念のためと地上におりた伊太に、ふいと話しかけたものがあった。


「もし」

聞いたばかりで記憶に新しい声の主に、伊太はゆっくりと返事をする。

「なんだ」

縫も伊太の隣に降り立ち、目鼻、そして口のない女を見た。口がないのに二人に再び問いかける。

「顔を、知らぬか」

「顔?」

狐がのっぺらぼうの風貌を真似て、人を驚かし、惑わせているわけではないのか。ひょっとしたら、この問答も惑わせる常套手段なのかもしれない。

「お前の顔の所在は、知らぬ」

それでも、見かけよりはるかに胆の据わった伊太は、聞かれた問いにのみ厳然と答える。

のっぺらぼうは少し考えてから、頷いた。納得したのだろうか。


「それより、山伏…もう一人いた男と、知り合いだと聞いた」

「…誰だ」

「浪人だ。普段は山伏の格好をしている」

女は首をかしげる。

今度は伊太が黙った。代わりに縫が口を開く。

「あなたは、(むじな)?、それとも狐なのか」

さあ、と、曖昧な返事が返ってきた。

「気づけば、顔がなかった。自分が何者かもわからない」

果たしてそれも、他人を撹乱するための戯言かもしれない。女の姿をしているのにも、理由があるのだろうか。そう思いながらのっぺらぼうを見つめる縫のほうに、目のない顔がくるりと向いた。


「そなたも、女か」

縫はびくりと反射的に体を強ばらせながらも頷いた。見えているのかわからないが、気配と声でわかったのか、目鼻はないが顔は縫をじっとみている。

ふ、と表情が曇った。いや、そう烏天狗二人には感じられた。

「紅を、引けて良いのう」

ひとこと、女はそう言った。

そしてゆっくりと伸びてきた手は、再びどこからともなく浮かび上がった灯りに女の体ごと包まれ、ぱっと消えた。

縫は、ずっと立ち竦んでいる。

「縫…大丈夫か?」

伊太が隣を見ると、縫の指は、山伏に触れられた唇をゆっくりとなぞっていた。


***


そしてまたしばらく、のっぺらぼうは出なくなった。

「顔を、探しているのだろうか」

伊太は、相変わらず人のよい町人の風体で、町を歩く。隣を歩く縫はなんとも答えようがない。


「数日前に、山伏に会ったわ」

こちらからは、山小屋にも滝にもわざわざ行くことはないが、たまたま頭上を通りかかったときに、木に装束がかけてあったのを見て、降りて話をした。

元気ではあったが、のっぺらぼうが山伏を覚えていないことを伝えると、しばし黙った後に、そうか、とだけ言った。

「なんだか、寂しそうだった」

伊太は頷いたが、淡々と話す。

「まあ、山伏は宿敵というが、記憶もないもののけをわざわざ手にかけることもないだろう。山伏が退治を諦めたなら、それはそれで良い」

「諦めたわけじゃあ、ないがな」

含み笑いとともに、背後から着物を着崩した男前の浪人が現れた。ざんばら髪は、今日は無造作に束ねられている。

「伊太の言う通りじゃ。ぼんくらなもののけを相手にするのも、張り合いがない」

そう言うと、こぶりな瓢箪から酒を食らう。

「本当の浪人みたいだな」

「当たり前じゃ。おれも最初から山籠りしちょるわけじゃない。山に入る前は、普通の、町によくいる男とおんなし生活をしちょる。まあ」

山伏は、ひとくち酒を飲むと、口角を上げておもむろに縫の顔を覗きこむ。

「今も、男じゃがな」

縫は異性の美醜には無頓着だが、それでも突然、にやりと笑う美丈夫の顔が接近したので、慌てて顔を反らした。

薄暗い中でも、整った顔立ちはよく目立ったが、いよいよあたりが暗くなり、山伏が出てきた酒屋の提灯に火がともる。


「今日は、現れるか」

珍しく、深く息をはいて伊太が歩きだした。

顔と記憶を失った妖怪をどうにか救いたいと、お人好しな伊太なら考えそうなことだ。

あまり長く悩ませるのもかわいそうだから、さっさと現れないかしら、と縫がちょっと不機嫌な顔になると、また背後から山伏の笑い声が聞こえた。

「難儀じゃの」

もうすでに胸の内は読まれているが、それでも気はずかしい。しかし、元気のない山伏を見ているよりは縫の気持ちも軽くなった。


「もし」

そこへ、声がした。

のっぺらぼうの、女の、声。一同は立ち止まり、女が続きを話すのを待つ。

「もし、顔を知らぬか」

どうやらまだ顔は見つかっていないらしい。そして、2回対峙した伊太たちのことも、既に忘れているようだ。

山伏の、舌打ちが聞こえた。縫が横を向くと、伊太は渋面を作っている。


「…まだ、見つからんか」

静かにそう言い、伊太が、女に一歩二歩近づく。

縫は、なにか違和感を感じた。まるで、吸い寄せられるように。もののけの女に騙される人間のように。

反射的に縫は伊太を止めようとしたが、背後から腕を掴まれた。

山伏だ。屈強な力で引き戻され、縫の伸ばした手は空をかすめる。伊太、と呼ぼうとしたが、言葉を飲み込んだ。


「おなごなら、綺麗にしたほうが良い」

そう、優しく言って伊太が袂から何かを取り出した。

あ、と思った。縫にもくれた、合わせ貝だ。

ゆっくりとそれを開いてその骨ばった指に紅をとると、すうっと、優しく、そのなにもない顔に、紅を引いた。

そして、もう片方の袂から取り出したものを、女の顔に被せる。

縫が飽きるほど見慣れた、烏の面。


のっぺらぼうは、女になった。

ただ紅で描いただけの口元が、妖艶に動いた気がした。そして、名を呼ぶ。伊太、と。


伊太は、面に手を添えたまま、じっと女を見つめている。

鼻まで隠れる面と艶やかな口紅をさしたもののけは、もう、のっぺらぼうではなかった。

小柄で武骨な町人とは驚くほど似合いの、ただの女だ。

2人を呆然と見ている縫の横で、山伏の顔には何の感情も浮かんでいなかった。


****


ある時からぱたりと、のっぺらぼうに脅かされた話は聞かなくなった。

代わりに、瓦版に載るまでもない微笑ましい噂が流れた。


変わった面をつけた女と、人の良さそうなどこぞの小柄な若旦那が、橋のたもとで逢い引きをしていると。

女はいつも口元に笑みをたたえ、それはそれは幸せそうだと。

女の引く紅の色は、それはそれは鮮やかだと。


山の朝は、清々しい。

縫は、修験者の装束に身を包み、木立の間を飛び回る。烏の羽が、時折地面に影を作った。

「おう」

地上から声をかけられ烏の面の隙間から見下ろすと、山伏がいた。

「毎日毎日、ご苦労なことじゃの。朝飯は食うたか」

縫が川原に降り立ち、彼を見ると、ざんばら髪が濡れている。彼には、顔を隠す必要はない。縫は面を取った。

「飯は、まだだ。お前こそ朝から滝行か」

濡れた白衣が、山伏の鍛え上げられた肉体に沿って貼り付いている。その胸板の厚みを見てとり縫は目を逸らしたが、山伏は一歩近づき、今しがた焚き火で焼かれたばかりの魚を差し出す。

「伊太とは、寝たのか。この間まで恋人じゃったろう」

にやり、と、いつもと同じように意味ありげな笑いを向けられたが、縫はつとめて平静を装い、魚を受け取る。

「恋人のふり、だ。寝床を共にすることは、任務には入らない」

「ほう」

ずっとにやにやしている山伏を見て、縫はあっ、と、からかわれたことにようやく気付いた。

「のっぺらぼうは、山伏の言うとおり狐だったのか」

口をとがらせ、魚の串をくるくるともてあそびながら縫が聞く。今しがたのやり取りからも、自分なら狐にすぐ騙されてしまうだろう。目の前の色男は笑いをこらえながらも、さあな、と肩をすくめた。

「のっぺらぼうの正体が狐じゃとしても、顔を与えて女にしたのは伊太本人じゃ。女と一緒にいくのを選んだのが伊太の意思か、もののけの妖力か、それは周りが言うだけ野暮なことよ」

伊太の優しさに狐がつけこんだだけではないか、そう思うと縫はやるせなかったが、山伏は縫を横目で見ながら静かに言う。

「憎いか」

縫は、首を横にふる。駆け引きができず、目の前で好いた男を連れていかれてしまったが、それで女を、ましてや伊太を憎んでいい理由にはならない。


そうか、と山伏は優しい顔をした。

「お前は女にしては、素直じゃ。お前が憎いと思わんなら、それでええのかもしれんな」

そう言いながら、山伏は白衣を脱いで上半身をさらした。日に焼けた肌が露になるが、不意に目の前に突きつけられた背中に、縫は無意識に魅入ってしまった。

背中を走る、無数の傷。ひときわ大きく、太いみみずばれのように痕が残る傷はなんとも痛々しい。

この男は、何を思い修験道に入ったのだろう。まじないを扱うためだろうか。案外に優しい山伏には何か似つかわしくないように感じながらも、縫はその逞しい背中にそっと手を伸ばした。

指先で、傷跡をなぞる。

「どうじゃ、惚れたか」

されるがままにじっとしていた山伏が、からかうように言った。何か見透かされたような気まずさから、縫はあわてて視線を手元に落とす。


枝をさされ火に炙られた魚は、ちょうどいい焼き色をしている。縫は、わざと大口を開けて齧りついたが、山伏はそれも面白そうに眺めている。赤面しながらも気分を変えようと辺りに視線を巡らせ、濡れた着物に目を止めた。

「そうだ。羽織を返そうと思っていたのに」

雨よけに借りた羽織は、その後の雨が上がったあと、綺麗に洗って干しておいた。見ればなかなかに上等な品物で、修行に明け暮れる山伏が持つには分不相応な気もしたが、かつて町に繰らしていたと知れば納得もできる。


「いつでもええよ。なんなら縫にやる」

縫、と、不意に名前を呼ばれ、思わず山伏を凝視した。

気のせいかもしれないが、伊太と同じくらい、いや、伊太よりも優しく、「女」として呼ばれた気がしたのだ。

「気のせいじゃあ、なか」

にやり、と笑うさまはいつもと変わらないが、やはりその言葉は何かをくすぐる。

「おれは、縫を女として可愛いと思っちょる。どうだ、おれと暮らさんか」


*****


人間の住む町は、いつも雑然としている。

もののけたちがふらりと現れ、また忽然と姿を消しても、かかわり合わない者たちにとっては関係のないことなのだ。

そしてそれは、もののけ同士も同じなのだった。


縫は、川面を見る。

化粧っ気のない顔がうつっているが、伊太は、そんな縫を可愛いと言ってくれた。

もう、町へ行く必要はない。伊太はたまに天狗たちの住まう山に戻ってくるらしいが、すぐに女のもとへ帰っていく。


(おさ)はこの事態をどう見ているかわからないが、他の者に被害を与えるような騒ぎを起こさない限りは、各々の行動を咎めるようなことはしない。

それは同時に、すべての責任を自らが背負うことに繋がるのだが、それこそ縫が懸念することではないだろう。


川原の砂利をふむ音がした。

「あ」

声に気づいたのか、こちらを向いたのは(くだん)ののっぺらぼう。山伏との因縁から解放され、伊太と、町で男女として過ごしているはすだ。しかし、なぜ山にいるのか。

見ると、面と紅を付けており、着物は濡れている。見えずに川へ入り込んだか、はたまた川の中で何かを探していたのかと考え、思い当たった。


まだ、顔を探しているのか。

その手助けはできないが、女が濡れているのは不憫だ。縫は女に近付き、手にした羽織をかけてやる。


にこり、と笑った気がした。


不思議だ。顔はなくとも、気持ちはなんとなく伝わるものなのだ。

女が去ったあと、縫は袂から合わせ貝を取り出す。

伊太は、紅をひいたほうがもっと可愛いと言ってくれた。

そして、山伏も。


「なんじゃ、羽織を返しにきたんじゃ、なかったんか」

山伏は、山小屋の入り口に立つ縫を見て少し驚いたように言い、笑った。

先ほどまで暗い山道を歩いてきたので、小屋の中の微かな灯りさえ眩しい。すでに夕飯は済んだらしく、食べ終わった魚の骨が焚き火に埋もれるように灰になっていた。

山伏は、空手(からて)で気まずそうにしている縫に優しく声をかけた。

「羽織は縫にやると言ったんじゃから、気にせんでええ。嫁入り道具みたいなもんじゃ」

縫の顔が真っ赤になった。それを見て山伏はおかしそうに笑う。

「うそじゃ。だったらええなと思うてな」

そう言って、顔を近づけてくる。

「羽を畳むと、ほんに人と変わらん。いや、人間の娘よりはるかに綺麗じゃ」


縫は、山伏を見上げる。

伊太より、拳ふたつ分くらい背が高い。近くで見る顔は目鼻立ち全てが整っており、男が見ても見惚れてしまうのではと思うほど、なまめかしい。

「夜更けに、男一人しかおらんところに一人で行くなと、幼なじみに教わらなかったか?」

小屋の中に招き入れ、両手で、立ったままの縫の肩を引き寄せる。

「やっぱり、紅がよう似合うの」

縫は、動かない。

その強ばった紅い唇に、山伏は自分の整った薄い唇をゆっくりと重ねて、軽く口を開かせた。

山伏の手が、縫の体をたどる。縫はしばしじっとしていたが、とうとう抗いきれずに山伏の背中を掻き抱いた。無意識のうちに男の背に爪を立てる。傷跡が、指に触れた。

「一緒に、暮らそうぞ」

笑みを含んだ優しい声が、耳元で囁く。返事をする代わりに、縫はその引き締まった体に身を預けた。










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