前編
のっぺらぼう。
手にした瓦版を見たとき、烏天狗の伊太は驚いた。
筆ですらすらと描かれた女性の姿、その筆致は顔の部分で急になくなる。
目がない。鼻がない。口もない。
「夜になると、橋のたもとに現れるんじゃて」
修験者の格好をした若者は、山小屋の前から町を見下ろすと、面白がるようにそう言った。
「橋?目がないのに橋を渡ったら危ないだろう」
こちらも修験者の格好をしている伊太は、心配そうな顔をしている。人が善すぎる友人を見て、山伏は大笑いした。
「お前は本当に良いやつじゃの。逆じゃ、こののっぺらぼうが橋で人を驚かすから、慌てて逃げた者が川に落ちるやらで大騒ぎになっちょる。しらんかったのか」
ははあ、と伊太はもう一度瓦版を見た。
「顔のないのっぺらぼうは、昔は他の町でたまに出たそうじゃ。不思議な話よ。人間ではないじゃろうが」
「ああ、長からも聞いたことがあるな。貉が化けている場合もあるらしいが、そもそも俺は貉を見たことがないんだ」
大天狗や九尾の狐ほど長生きだと遭遇したことも何度かあるようだが、まだ25、6年ほどしか生きていない伊太は、一族の中ではひよっこだ。
「おれは、貉におうたことはある。ずんぐりした狸のようなやつじゃ。悪さしとったがな、根は悪くなかった」
くくっ、と、山伏は思い出し笑いをしている。
**
この山伏は、たまに山奥までやってくる。
隣の山との境あたりに沼があり、少し先の滝で修行をしていた彼とは、山あいを飛び回っていた伊太が羽を休めようとたまたま降りたった時に出会った。
にやりと片方だけ口角を上げて、舐め回すような目付きでこちらを向いた様は、修行僧とは思えないくらい不穏なものだったし、肩までのざんばら髪から覗く整った顔立ちはいかにも女が放っておかない類のもので、禁欲的な生活を想像できないほどに俗っぽかった。
そして、烏天狗の伊太は、驚くほどお人好しだ。
滝行を終えた山伏が、漆黒の羽を持つ異形に気安く話かけると、こちらは烏の面を額まで上げて人間相手にやすやすと素顔を晒し、さらには、修練のあとはさぞ腹が減っているだろうと、初対面の美丈夫に手元の飯を差し出した。
「口が無ければ、こんな美味いものも食えんなあ」
そう言って今日も、伊太が持参した握り飯を、山伏は当たり前のように頬張る。
「そうさなあ。本当に世の中にはわからないものが多いな」
「烏の羽を持つお前が、何をいっちょる」
真夏の昼ひなかでも、短髪に頭襟を被り、修験者装束をきっちり着こんで錫杖を携えている烏天狗は、日々滝に打たれる山伏より、よほど悟りを開いたような涼しげな表情だ。
伊太は、やや装束を着崩したまま飯を食べる山伏を見た。大口を開けて物を食べたり、笑うさまですら絵になる。
さぞかし女が寄ってくるだろう、と本人に聞いたことがあったが、意味ありげな笑いとともにはぐらかされた。
伊太自身、まだ伴侶もいない。若い頃はそれなりに相手もいたし、たまに羽を畳み町へ出ると、今ももちろん綺麗な娘に目を奪われるが、それだけだ。
いつか同じ烏天狗と所帯を持つのだろうが、笑顔が可愛い娘が良いなどと思い、ふと気になったことを言ってみた。
「女なら、化粧はしないんだろうか。口も無ければ、紅も引けない」
伊太の真面目な顔と口振りに、山伏はにやりと笑う。
「それこそ、描いたら良かろう。女は化けるんじゃ。化けもんも、人もな」
***
「それで、伊太がのっぺらぼうを、退治するのか?」
縫が、伊太を見上げながら呆れたように言った。
振り向いた勢いにつられて、一つに束ねた黒髪がするりと弧を描く。烏の羽と同じ色をした、つややかな長い髪だ。
幼なじみからすると、伊太の人の良さは単に要領が悪いだけに見える。
現に、長の言い付けに適当な言い訳をすることもできず、腕試しにもならない上に、女を手にかける気まずさしかない任務を任されることになった彼は、端からは貧乏くじを引いたようにしか見えなかった。
伊太は、先ほどまで座っていた枝からひらりと飛び降りると、立ったまま軽く首を回した。
「退治とまではいかないだろうな。俺らの目の届くところから、いなくなればそれでいい」
どこまでも善良な幼なじみの物言いに、縫はため息をついた。
「確かに、人を驚かすだけの化け物をやたらに攻撃する必要もないだろうけど。けど…」
まあまあ、と、興奮気味の妹分を、こちらは穏やかに制す。
「そうだ、縫は、紅は引かないのか?」
縫の顔が、さっと赤くなる。今年で23になるのに、男っ気もなく、見せる相手もいないからと、化粧もしない。
「…急に何を」
「いやあ、のっぺらぼうは紅を引けばどんな美女にもなると、山伏が言うからさ。のっぺらぼうすら紅を引くのに、可愛いお前が化粧しないのは勿体ないだろう」
伊太は悪気無く、そして無意識に誘い文句を言う。
「…可愛い…って…」
「町のおなごよりお前のほうが可愛いと、俺はいつも思ってるが」
縫は、もう何も言えない。この幼なじみの鈍感さには、いつも苦労しているのだ。
しかし、伊太自身の気持ちは自分のそれとは違うだろうと、縫も自分の気持ちを伝えるのを躊躇していた。
のっぺらぼうは、貉が化けたものだという。女の姿になるということは、雌なんだろうか。
「どうせ化けるなら、とびきりの美人に化けたらいいものを」
うん?と不思議そうな顔をする伊太にもう返事はせず、縫は立ち上がる。
目線が並んだ。
小柄な伊太と同じくらい、縫は女子にしては背が高い。
そんなことは意にも介さない伊太に、行くか、と笑顔で促され、縫は頷く。
「宜しくな、縫」
今、二人は修験者の装束ではなく、町人のような着物姿だ。
伊太は、縫の手に小さなものを握らせた。
町で売られている、紅が入った合わせ貝。
「これからしばらく、町では恋人だ」
****
もののけが出没するのはだいたい何どき、と相場が決まっており、のっぺらぼうが出るのは橋のたもとだという話ではあるが、毎日きっちりと現れるわけではない。
そんな物騒な夜に、町人がただ一人ふらふらと歩くのは余計に怪しい。
そのため、誰かに見られても男女の逢い引きを装えるよう、伊太は縫に同行を頼んだのだ。
「…私が相手じゃあ、釣り合いが良くないだろう」
高下駄を脱いでも、二人とも草履では同じことだ。普段このように並んで歩くことはないので、真横に惚れた男の顔があるのが落ち着かない。
「別に関係ないだろう。本当の恋人ではあるまいし」
不意にこちらを振り向かれ、驚いてしまった。伊太がそれをみて、ははっ、と笑う。
「それよりな、やはり縫は紅をさしたほうが良い。よく似合う」
幼なじみとして、仲間として、それ以上の意味を持たない口振りでなんとも心を揺さぶることを言う伊太を、縫は、ずるいと思った。
日が暮れ、あたりは闇。
もののけは出ず、1日目は、任務も女心も空振りに終わった。
*****
「また昨日も、出んかったか」
いつもの滝行を終えた山伏は、ずぶ濡れの白衣のまま川原に腰をおろした。
「もののけも、気まぐれなものよ」
隣に立つ烏天狗の伊太を見上げながら、にやり、と山伏は笑う。
水に濡れた肩までのざんばら髪の間から、艶っぽい目元が覗いた。
「烏天狗が退治にきてると、もののけの間で噂になっちょったりしてな」
「まさか」
それは任務を遂行する上で具合が悪い。そもそも、烏天狗の存在というのはすぐに気づかれるものだろうか。
「わからんかどうかは、わからんよ」
不敵な笑みが、よく似合う。
「そういえば、お前は俺を見ても特段驚かなかったな」
「驚く理由はなかろう。天狗の山に天狗はようさん飛んでいる。お前みたいなお人好しがいるのには、驚いたが」
「そうか。貉やらなにやら、俺よりはるかに様々なもののけと会っているんだな、お前は」
見かけに反して豪胆な山伏は、自分が知らない土地でどのようなもののけに出会ってきたんだろうか。
そして、その修行の道中を、どうくぐり抜けてきたのか。
伊太がそう思い珍しくじっと山伏を見つめていると、彼はにやりと笑い、伊太に背中を向けた。
おもむろに濡れた白衣を脱ぐと、伊太の眼前に異様な紋様が現れる。
「この傷は、消えないのか」
みみずが這ったようなあとが、大小さまざまに数十箇所、背中一面にびっしりついている。ただの刀傷ではない。
「もののけどもの、念じゃからな。なあに、修行の一環じゃ。たいしたことはない」
この山伏は、あちこちを放浪しているのだと聞いた。天狗の山の神気にもあてられず飄々と過ごす彼は、人が入り込まない奥地での修行を常としているのだろう。
そのような生活では行く先々でもののけに遭遇するのは必然と思え、またこうして烏天狗とも平然と話をしているということは、今までに命を脅かさんと近寄るもののけを、見事に退治してきたということかもしれぬ。
「ほんに、いろんなやつがおった。獣や、植物の精。河童や鵺もいた。ときたま、こちらの考えを読むものもおったが、あれは手強かった」
これがその時の傷やもしれんな、と、からからと笑いながら一際大きな傷をさする。苦戦した様子すら懐かしい思い出のように話す山伏に、伊太は素直に感心した。
「伊太こそ」
そんな烏天狗に山伏は苦笑する。
「烏天狗なのに、もののけを退治するおれに、普通に接するのじゃな」
ああ、と伊太も笑った。
「山伏からは、殺気は感じられなかった。もののけとはいえど無闇に殺めているわけではないのだろう。お前はいいやつだ」
人のよさそうな顔だが、さらに目がなくなるくらいの笑顔になる。
山伏は、そんな伊太にまたにやりと笑いかけると、枝と枝に無造作に渡した杖に、水気をぎゅっと絞った白衣をかけると、そのまま座り込み飯を食べ始める。
「うん、美味いな」
「縫が、作ってくれた」
「お前の、恋人じゃな」
「町ではな」
ふはは、と山伏が笑う。
「その娘は、お前を好いておろう。わかっていてそ知らぬふりをしてるんなら、たいそう罪作りじゃの」
何を、と、伊太は平然と言う。
「縫は幼なじみで、妹みたいなものだ。男っ気がないから近くにいる俺相手に錯覚してるだけで、他に気の合う男ができたらそちらにいったほうが良い」
「本当にそう思うか」
「ああ。良い娘だから、俺の相手はむしろ勿体ない」
「本心か。伊太はつくづく人が善いの。そのうちに騙されるぞ」
山伏は呆れたように言うが、伊太にはよくわからないらしい。
「そうか?まあ、俺たちは、人間よりは裏表を使い分けられるほど器用にはできてないからな」
自然の中に身を預けて暮らすもののけには、破滅に繋がるような感情は不要だ。人が抱く、猜疑心や、嫉妬も。
「伊太は、真っ直ぐじゃな」
ほう、と山伏は善良な烏天狗の横顔を見て、意味ありげに呟く。
「女は、そうとは限らんがの」
******
「もし」
それは、突然声をかけてきた。
そうだ。暗闇の中、考え事をしながら歩いていて、この先が橋ということを失念していた。
「もし」
もう一度、声を掛けられた。若い、女の声。
恐る恐る振り向くと、長い髪と、女物の着物。すらりと伸びた手足から察するに、さぞ美人だろう。
しかし、若者が見たその顔の中に、造作を形作るものは何もなかった。
「薬屋の男が見たのは、やはり顔が無い女だそうだな」
伊太と縫が橋のたもとに駆けつけたときには、すでにのっぺらぼうはいなかった。
伊太は町人の格好がよく似合う。小柄な、人の良い若旦那が、行きつけの茶屋の娘とでも逢い引きをしているような、周りからはそんな風に見えているだろう。
「驚かされた、だけ?」
訝しげな縫の問いに、ああ、と言いながら、歩を緩める。
「薬屋は走って逃げたが、追いかけてはこなかったそうだ。このあたりらしいけどな…思ったより早い時間に現れるとは」
薬屋が半狂乱で叫びながら走る道々で、のっぺらぼう、という言葉が聞こえるや否や、人々は長屋に引きこもり、店はのれんを下げて提灯の明かりを落としている。
あたりはすでに暗く、人っ子ひとりいない。
「あ」
ぽつり、と雨が降ってきた。不意のことで傘の備えは無く、このままでは濡れてしまう。
橋は緩やかな曲線を描き、向こう側はよく見えない。
もののけの気配は感じられず、仕方なしにこのまま引きかえそうとしたところに、ふと、人影が現れた。ゆっくりと、橋を渡ってくる。
来た、と身構えた烏天狗2人に向かって、その影が手をあげ合図をする。
「おう、お二人さん。ようお似合いじゃな」
暗闇には合わない、陽気な声だ。
山伏姿とはうってかわって、どこぞの浪人のような風体をしている。ざんばら髪はそのままに、着物と袴をやや崩し気味に着て、羽織は手を通さずに肩にかけている。そして、手には、杖。
どこかちぐはぐな格好だが、不思議とその整った顔立ちは夜の町によく馴染んでいた。
「山伏。お前、なぜここに」
「なあに、一度は見てみるのもよかろう。その、のっぺらぼうをなあ」
そうして少し首を回し、山伏は伊太の隣にいる縫を見る。
「おまえが、縫か。成る程美人じゃ。紅がよう似おうちょる」
暗い中でも表情はぼんやり伺える。慣れぬ化粧姿を初対面の男にじっくりと見られていることに、縫はなんともいえぬ気持ちになった。
「今晩はもう、出んのじゃないか」
さっぱりとした山伏の言葉に、伊太も、ああ、と返事をする。
「お前は町に泊まるのか?」
「いや、おれは山に戻る。おまえらも帰るんじゃろう」
そうこうしているうちに、雨足が、やや強くなってきた。
あ、と縫が顔を上げようとすると、その頭をすっぽりと覆うように羽織が優しく掛けられた。いつの間にか、目の前に山伏がいる。
「…ありがとう」
「濡れたら風邪を引く。せっかくの化粧も落ちてしまう」
はにかみながら礼を言う縫いに、山伏は優しく笑いかけた。
「可愛いのう。そうじゃな、伊太には勿体ない」
隣にいる伊太は何も言わない。
山伏は人の姿をした異形二人をじっと見、体の向きをくるりと変えると、背中を向けたまま先ほどのように軽く手をあげた。
「また、明日な」
*******
翌朝、縫は、水溜まりを避けながら、山道を散歩していた。
雨の日は、羽が濡れて飛びにくくなるため畳んでいる。
こんなときは、獣たちも寝床でじっとしているはずだ。縫は、あたりをつけた木のうろを覗きこむ。
狐の親子と目が合った。
狐たちは、天狗たちの気配はわかるようで、あえて逃げたりしない。縫が笑いかけると、尾をひと振りして挨拶を返してくれた。
かわいいなあ。そう思って、のっぺらぼうを想像する。
貉が化けているかもしれないと伊太は言っていたが、同じ化けるにしても、狐が化けるのは大概が美男美女だ。その色香で人間を惑わし取り入るのは容易く、また、一部の人間は、騙されるのを楽しんでいるふしもあるが、騙すのも騙されるのも、縫にはよくわからない。
縫は、雨に濡れた林を見渡した。艶やかに光る葉が、水溜まりに影を落とす。
水滴は美しい波紋を作り、そこに映る娘の顔をいたずらに揺らしている。
袂に手を入れて小さな合わせ貝を取り出した縫は、水溜まりの中の自分を見つめ、そっと、紅を引いた。
夕刻になり、伊太と縫は待ち合わせて町に向かう。
雨は上がったが、今日はのっぺらぼうは出るだろうか。
「出たところで、取り押さえられたらいいんだがな。貉の姿で逃げられたらかなわない」
伊太は優しい。あくまで、相手を傷付けずに済ませる方法を最善と考えている。
この優しさは、皆に向けられたものなのだ。それが、縫にはよくわかる。だから今日も逢い引きをしている「ふり」をする。好意を意識しないからこそ、「ふり」を上手に演じられる。
「滑稽だわ」
思わず声に出してしまい、あ、と思った時、数歩後ろから山伏の含み笑いが聞こえた。
見透かされたような笑いに、縫は不機嫌な顔をしたまま自然と早足になる。あわてて伊太が縫に追い付いた時、橋のたもとにいる人影が目に止まった。
伊太が、さりげなく縫を背後に匿う。
「もし」
女の声だ。
「もし」
もう一度。
「なんだ」
伊太の声が低く答えると、人影が三人のほうを向いた。
顔は、ない。
「もし」
そう、再度のっぺらぼうが言った瞬間、縫の横を疾風が過ぎた。山伏が放った、杖の起こした風。しかし、のっぺらぼうに突き刺さるかと思えたそれは、伊太の羽団扇により矛先を変えられ、橋のあちら側に落ちた。
「山伏、なんのつもりだ」
伊太いたは山伏を見た。山伏は特段悔しそうな顔もせず、悪びれた様子もない。
「なに、手助けじゃ」
「危害を加えたわけでは、なかろう。杖をおさめよ」
「おさめるまでも無いなあ」
山伏の言葉に伊太が背後を振り向くと、すでにのっぺらぼうの姿はなかった。
「…伊太!」
縫に呼ばれて伊太が振り向くと、ゆらり、と灯りが見える。
「鬼火じゃ」
吐き捨てるように山伏が言った。いつものらりくらりと話す口振りからは想像もつかないくらい、嫌悪感を露にしている。
「あいつとは、因縁があるんじゃ。俺の背中の傷が、うずいたんじゃ。あいつが憎いとうずきよったんじゃ」