第1話
トボトボと、下を向いて歩く少年。
すれ違いざまに、その少年を見つめる、サラリーマン風の男性。
「キミ、ちょっと良いですか?」
おもむろに、男は少年を呼び止めた。
「……え?」
少年が不思議そうに振り向き、顔をあげると、そこには、満面の笑みを浮かべた男の顔があった。
近いっ! 顔が近い!! この人、絶対に変だ!
「あ……た、たすけ」
助けて! と叫ぶ前に、男は少年の口を右手でふさぎ、左手の人差し指を立てて、左右に振る。
「チッチッチッ……大丈夫。私、怪しい者では無いですよ?」
怪しいだろ! そんなヤツ今どき居ないだろ!?
少年がそう考えている事は、実は男にはお見通しだった。だから、男が次に発した言葉はこうだ。
「あはは。ちょっと変わっているとは良く言われます」
……ちょっと? と、ツッコミを入れる前に、男は続けた。
「もちろんですが、キミに危害を加えるつもりはないんです。何か悩んでおいでのようでしたのでね? つい声を掛けてしまいました」
ハッとした表情の少年と、やっぱりね! と微笑む男性。
「私の名前はケン。もしよろしければ、キミの悩み、聞かせてもらえませんか?」
まだ、完全に男を信用したわけでは無かったが、その表情と声に、不思議な安心感を覚えた少年は、ポツリとつぶやく。
「漢字の、テストが……」
「テスト、ですか?」
「うん。今日、漢字のテストがあるの。僕、すっかり忘れちゃってて……さっき思い出したんだけど、ぜんぜん勉強してなくて……」
なるほど。良くあるパターンだ。
……だが、それだけの事で、はたして先程のような表情になるのだろうか? そう思ったケンは、更に詳しく聞いてみた。
「それから? なにかまだ、あるんでしょう?」
驚いた表情の少年。しばらくの沈黙のあと、小さな声で言った。
「点数が悪いと、ママに……ママに怒られるの。たたかれたり、つねられたりするの」
はい確定! 今回のターゲットは、この少年だ!
つま先から頭のテッペンまで、舐めるように見たら、それが合図。
3……2……1……
〝Let's Oventuarer〟!!
「なるほど、よく分かりました。ですが私には、キミがなぜ落ち込んだり、悩んだりしているのか分かりません」
「……え?」
「なぜならキミは、素晴らしい目と耳と、頭を持っている! 今まで私が見た小学生の中でもトップクラス! 抜群のクオリティです!」
「そ、そんなこと……」
「ノンノンノン! 否定をされては困ります! だって、最高であるキミが、自分を否定すると言う事は、キミ以外の小学生〝全員〟を否定するという事だから!」
少年の頬が、心なしか赤くなっている。
ケンは、更に続ける。
「キミは何も恐れることはない。結果がどうであろうと〝素晴らしい存在〟であるキミが出した答えなのだから、素晴らしい宝物なんです。それを咎めようとする者にこそ、天罰は下る!」
最後にケンは、こう締め括った。
「キミの見たもの、聞いたことは、決して頭から消え去る事はないんです。大丈夫。全部、キミの頭の中にありますよ。それを素直に出せばいいだけです」
>>>
わかる! 全部わかるぞ!
漢字テストの答案を見た少年は歓喜した。
『大丈夫。全部、キミの頭の中にありますよ。それを素直に出せばいいだけです』
……まるで頭の中にある辞書を、自由自在に調べていくような感覚。今まで見た事のある漢字は、全部思い出せる! 僕ってスゴイ!
すべての欄を埋めたあと、少年は今朝出会った男性を思い出していた。
「ケンさん、ありがとう。僕、やれたよ!」
安堵と達成感の中、教壇で答案の回収を指示した先生から、終業のチャイムと共に思わぬ言葉が発せられる。
「それから……この前の算数のテストを返すぞ。名前を呼ばれたら取りに来るように!」
>>>
「この点数はどういう事なの?!」
鬼の形相で、少年を叩き続ける女性。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 許してください!」
少年が許しを請う声と、ビシバシという尋常ではなく大きな音が鳴り響く。
「許さない! 絶対に許さない! こんな点をとるようなバカを生んだ覚えはない!」
「痛い! 痛い! うええええん! 痛いいいい! やめてママ! 助けて!」
今日返された、テストの結果が気に食わなかった母親は、少年の体を力いっぱい叩き続ける。
「このバカ! このバカ! これでもか! これでもか!」
「いぎぃ! うぐうっ! いだいぃ! いたいよぉ!」
……少年の体には、無数のアザや切り傷、さらには火傷の痕まであった。
それは、昨日、今日できたのではなく、以前から何度も、繰り返し、母親につけられた物だ。
「死ね! この無能! 死ね!」
「いやぁぁっ! やめっ! やめてっ! いだいよ!」
『ピンポーン』
チャイムの音だ。カメラ付きドアホンには、警察官の姿。
「……はい、あの、何でしょう?」
『夜分すみません。ちょっとよろしいでしょうか? ご近所の方からご連絡頂きまして、何やら〝悲鳴〟や〝泣き声〟が聞こえるとの事でしたので……』
マズい! 声が漏れていた!?
いや、実は以前から、繰り返し繰り返し、虐待による少年の悲鳴や、母親の罵声を、近隣の住民に聞かれていたのだ。
「いえ、あの……ウチは別に何も?」
『……念のため、開けて頂いてよろしいですか?』
「はい、少し待ってください」
……くっ! このまま玄関を開けたら大変なことになる!
母親は、慌てて子どもに指示をする。
「服を着て! 早く! おまわりさんが来たけど、アンタは出てこなくていいからね!」
いそいそと身だしなみを整えて、玄関への扉のノブに手をかけた母親。
……こちらを振り返り、少年を睨む。
「いい? もしもおまわりさんに呼ばれて、何か聞かれても、絶対に余計なことは言っちゃダメ。ちょっとでも喋ったら、ぶっ殺すからね? ほら、小さい声で繰り返しなさい。〝僕、何も知らないよ〟。はい!」
「ぼく、なにもしらないよ」
「ふん。演技もへたくそね。まあいいわ。絶対に余計なことは言うな!」
パタパタと玄関へ向かう母親。少年はドアのガラス越しにそれを見ていた。
「お待たせしました」
母親が玄関の扉を開けると、そこには二人組の警察官が立っていた。
「こんばんは。どうもすみません。一応、念の為ということで……えっと、たしかお子さんも居られますよね?」
やはり、警察官は、虐待を疑っているのかもしれない。だが、ここで顔色を変えたり嘘をつけば、絶対に怪しまれてしまう。
「ええ。居ります……おいで!」
顔色も変えずに、少年を呼ぶ母親。恐る恐る、扉を開けてやって来た少年に、満面の笑みで言う。
「あらあら。この子ったら、おまわりさんの前で緊張してるの? ふふ」
あまりの変わりように恐怖するも、上手く立ち回らないと酷い目に合わされるのが分かっているので、精一杯の笑顔を作り、挨拶をする少年。
「こんばんは」
顔を見合わせる二人の警察官。
「……ぼく? さっきね、泣き声とか、悲鳴とかが聞こえたみたいなんだ。キミには何か聞こえなかった?」
来た! アレを言わなきゃ! 〝僕、何もしらないよ〟って言わなきゃ! 殺されちゃう!
「ぼく……」
……なにも知らない?
「ぼく、なにも……」
ううん。知ってる。僕はずっと、痛くて悲しくて苦しかったんだ!
その時、少年の脳裏に、けさ出会った〝あの男性〟の声が浮かんだ。
『大丈夫。全部、キミの頭の中にありますよ。それを素直に出せばいいだけです』
少年の頭の中に、虐待の日々がフラッシュバックする。悲しみが、悔しさが、怒りがあふれてくる!
「ぼく……たたかれたんだ! 何回も何回も! 痛くて悲しくて、苦しいんだ! 助けて! 助けておまわりさん!」
>>>
「少年は、その後、実の父親の元で、幸せに暮らしています」
ケンは、カップに半分ほど残ったコーヒーを飲み干して、にっこり微笑んだ。
「離婚後、母親と一緒に暮らしていた彼が、虐待を受けるようになってから、まる2年。彼への暴力は、日を追うごとにエスカレートしていたようです」
母親が後日語った、少年への虐待の理由は〝別れた夫に似ていたから〟。
……最終的に、彼女は、実の息子に対して、殺意に似たものまで持ちつつあったようだ。
「……とにかく、間に合ってよかった。私のオベンチャラは、さすがに、生きているモノにしか通用しませんので」
いや、まだ試していないだけでしたね。
……そう言って、彼はウエイトレスを呼び、コーヒーのおかわりを注文した。
軽いオベンチャラ込みで。




