102――Bパート収録
いつもブックマークと評価、誤字報告ありがとうございます。
お茶を飲んでお手洗いも済ませて、後半の収録への準備は万端だ。技術ブースの方の湯呑みは収録が全部終わってから回収するとして、録音ブースの方はそのまま中に残しておくとカチャカチャと音が鳴ったらノイズになっちゃうかもしれないので、栞さんと石原さんのふたりが飲み終わるの確認してから回収しよう。ジッと見ていると急かしているように思われるかもしれないので、台本に目を通しながら待つことにした。
「のぞみちゃん、湯呑みをもらっていってもいい?」
ページをまたいでセリフが書かれている部分がBパートは結構あるので、前のページの余白に続きのセリフをキリのいいところまで書き写しておく。こうすることによって、演技をしながらでも余裕を持ってページをめくれるので、慌てずに済むからいいんだよね。これは前世の養成所で講師の先生に教わったやり方なんだけど、こうして実際にやってみると実践的なテクニックだったんだなぁと実感する。
書き写すのに夢中になっていたのか、いつの間にかお茶を飲み終わった栞さんが私にそう尋ねてきた。あ、しまった。本当なら一番年下の私が率先して動かないといけないのに、と反省しつつ『私が持っていきますよ』と言って立ち上がろうとした。そんな私を湯呑みを持った両手で『動かなくていいよ』みたいなジェスチャーをしてから、栞さんは小さく微笑んだ。
「同じ新人なんだから、のぞみちゃんばかりに雑用させるのはダメだよ。私のためだと思って、ここは任せて」
栞さんの言葉に『自分が気負いすぎて彼女の仕事を奪ってしまっていたのかな』とちょっとだけショックだった。石原さんは一緒に行動して色々と教えてくれたからわかってくれるだろうけれど、他の先輩たちの目には栞さんの姿はどう映るだろう。新人なのに年下の子供に仕事を押し付けているとか、穿った見方をされては目も当てられない。
「栞さん、ごめんなさい。私、そこまで考えてなくて……」
「ううん。むしろのぞみちゃんより私が先に動かないといけないのに、気が回らない私が悪かったの」
『ごめんなさい』『こちらこそごめんなさい』とお互いに頭を下げて謝罪合戦をしていると、何度目かに頭を上げたら栞さんとバッチリ目が合った。なんだか自分たちがすごく滑稽に思えてクスクスと笑うと、栞さんも同じように笑っていた。ここは栞さんにお任せして、収録が終わって湯呑みを洗って片付けるのは一緒にやらせてもらえるようにお願いする。栞さんは快く受け入れてくれて、私の分も合わせて3つの湯呑みを持って録音ブースを出ていった。
そして全員が揃って一度通しでテストを行った後で、Bパートの収録が開始される。前半のAパートでは主人公の裕貴と私が演じるヒロインの愛美の関係性とか、お互いを想っているのにうまくそれを伝えられずに幼なじみの関係で立ち止まっている焦れったさなどが中心に描かれていた。そこに栞さんが演じる愛美の親友である美咲が、いつまでも関係を進めないふたりにこれまで抑え込んでいた裕貴に対する自分の想いを愛美に吐露したところでAパートが終わっていた。
Bパートでは男子側の事情というか、裕貴とその親友である拓也がメインで話が進んでいく。Aパートでは私と栞さんはほとんどマイクの前に立ちっぱなしだったので、Bパートではゆっくり座って先輩の演技を聞いて学ぶことができた。拓也も親友の裕貴の幼なじみで想い人の愛美が好きで、素直になれない裕貴が愛美についてぶっきらぼうに悪く言っているのを聞いて我慢できなくなり宣戦布告する流れだ。そりゃあ好きな人を本心じゃないとわかっていても、悪く言われるのはイヤだよね。恋愛経験がない私でもそれくらいはわかるよ、恋人ではなく友達の関係でも悪口を言われていると想像したら腹が立つし。
拓也役の平岡仁さんは低音ボイスがすごく耳に残る声優さんで、スタジオで生の演技を聞くと耳の奥が震えてちょっとくすぐったい。でも演技は上手だし、生だから奥に秘めた怒りとか愛美への恋慕の情みたいなものがリアルに感じられて、子供っぽい感想だけどただただすごいなと思った。原田さんとの掛け合いで張り詰めたような緊張感がブース内に満たされて、なんだか肌がピリピリするような感覚だった。目を閉じて声だけ聞いていると、ここがアフレコスタジオであることを忘れてしまいそうだ。
拓也の宣戦布告にイライラを隠しきれない裕貴という名シーンが終わって、下校シーンに切り替わる。『そろそろ出番だ』とソファーから立ち上がって、目の前の一番高さが低いマイクの前に移動した。ブラウン管のモニターには愛美と拓也の姿が映っていて、他のふたりの姿は見当たらない。
態度がおかしいことを拓也に見破られて、とっさに誤魔化す愛美。だっていくらライバルだからって、美咲の好きな相手を第三者にバラすのはマナー違反だもんね。感情の揺れを表に出さずにいつも通りを心掛けている愛美が『どうしてそんな風に思ったの?』と尋ねると、拓也が『……何年お前のことを見ていると思っているんだよ』と自分の想いの片鱗を見せる。声が良すぎて私自身に向けられているわけじゃないのに、ちょっとドキッとしてしまった。座っていたなら思わず『カッコいい!』と椅子から立ち上がって、スタンディングオベーションしちゃいそうだ。もちろん収録中にそんなこと、実際にはできないけどね。
「愛美のことが好きだ」
はっきりとそう告げられたとき、脳内で導火線に火がつくようなイメージ映像とイントロが流れたような気がした。もちろん音楽とかは入っていないから、私の錯覚なのは間違いない。キャラクターと現実の自分がシンクロする感覚って、もしかしたらこういうことなのかもしれない。思わず漏れた戸惑いの吐息混じりの声が、台本のト書きと一致していたから余計にそう思えたのかな。
音響監督からOKの声が掛かるまで集中を切らさず再生が止まったモニターを見続けていると、『これでいきましょう、OKです』と天井のスピーカーから声が聞こえた。自分では自然体でマイクの前に立てていると思っていたけれど、やっぱり緊張のために体中に余計な力が入っていたのだろう。それがガクンと抜けて、思わず膝が崩れそうになるのをなんとか踏ん張って録音ブースにいる先輩方と技術ブースのスタッフさんたちみんなに『ありがとうございました』と言いながら頭を下げた。
原田さんに背中をポンと叩かれて『今の演技はよかったよ』と褒めてもらい、平岡さんはその低音ボイスのイメージとは違って『今日がデビューだとは思えない』と気さくな感じに話してくれた。
原作のないOVAということもあって、キャラクターのイメージについては『基本設定から著しく外れない限りは役者の演技に対して口うるさく指導しないという方針だった』と後に監督や音響監督が言っていた。そのおかげでBパートはリテイクされずに止まらずに収録できたんだろうね。収録後に石原さんが言っていたのだけど、アニメのアフレコだとキャラクターのイメージとか作品の雰囲気でナレーションやモノローグの細かい部分にもリテイクが出されることがあるらしい。多分途中で止められていたら集中がその度に切れたり色々と考えすぎて、キャラクターとシンクロするあの感覚を味わえなかったかもしれないので今回のことは幸運だったのだろう。もちろん掛け合いの相手役が平岡さんというカッコいい声と高い演技力を持っている人だったから、という部分も大きかったのだろうけれど。
早めに本編の収録が終了したので、10分ほどの休憩を挟んだあとでガヤの収録をした。ガヤというのは登場人物以外の周囲のざわめきとか雑踏の中の会話などを指す用語で、収録の最後に新人やベテラン関係なしに基本的に全員で収録するものだ。もちろん次の仕事があって時間的な余裕がないとか、そういう場合は参加を免除されたりもする。栞さんも本来なら今日はバイトの日らしいのだが、初めてのアフレコが入ったために前もってお休みをもらったらしい。ちゃんと予定を組んで周囲の人に迷惑を掛けないようにできる人って、ちゃんとした大人っていう感じがして尊敬しちゃうよね。
「一人だと緊張するから、のぞみちゃんと会話してる感じにしてもいいかな?」
「私も栞さんと一緒だと心強いです、ありがとうございます」
そんな尊敬できる栞さんが私を頼ってくれたと思うと、なんだか嬉しくてニコニコしながら栞さんのお願いを受け入れた。今回のガヤは『学校の中で聞こえる声や会話』という指定をあらかじめされたので、私と栞さんは同級生という設定にして会話することにした。特にセリフとかは決まってないからね、役者としてアドリブ力を鍛えられる貴重な機会だと思って張り切って挑戦しようっと。
音響監督の合図でそれぞれが好き勝手に喋るので、栞さんの声を聞き逃さないように集中しながら受け答えする。『次の授業って音楽だったよね』『早く行かないと先生に怒られるよ』みたいな耳に残りやすそうなイメージで、セリフを言ってみた。石原さんと平岡さんは教師役を選んだようで、『早く教室に入りなさい』とか『廊下は走らないように』など先生が言いそうなセリフを言っていた。ちょっと私たちの設定とリンクしてるみたいで楽しいよね。
3パターンぐらい録って、今日の収録は終了した。出入り口のドアのところに栞さんと並んで立って、スタジオを出ようとする先輩方ひとりずつに『お疲れ様でした、次回の収録もよろしくお願いします』と挨拶してお見送りする。ここまですると慇懃に受け取られるかもしれないけれど、色々学ばせてもらったし私たちのこの仕事に対するやる気を目に見える形で示せたので自己満足かもしれないけどやってよかったと思う。
技術ブースの中にいる監督さんやスタッフさんたちにも挨拶して、湯呑みを回収した後で給湯室へ。流しに置いておいた使用済みの湯呑みを手早く洗って、休憩の時に使ってもいいと教えてもらった洗濯済の布巾で拭いていく。数が少ないのであっという間に終わってよかったんだけど、さっきまで一緒にいた栞さんがいつの間にかいなくなっている。使用済の布巾を入れるカゴにさっき使った布巾を入れて給湯室の外に出ると、栞さんが監督と何やら話していた。監督の言葉にペコペコと頭を下げる栞さんに対して、ため息をついて立ち去ろうとする監督さんと目がバッチリ合ってしまった。
「いやぁのぞみさん、今日の収録よかったですよ! 初めてのアフレコだなんて思えないぐらいでした!!」
「あ、ありがとうございます……?」
なんか異様にテンションが高くて、思わずお礼が疑問形のときみたいに尻上がりになってしまった。収録前のお詫びの件もあるし、監督の言葉にはお世辞というかおべっかが多分に含まれている可能性を考えると素直にそのまま受け取るのは抵抗がある。でもこうして直接言葉で褒められると、悪い気はしないというのが正直なところだ。特にはじめてのアフレコということでちゃんと出来たのかという不安があったので、褒められたということは及第点はもらえたということだと思うようにしよう。
『次もよろしく頼みますね』と笑顔で技術ブースに戻る監督を見送っていると、ちょっと元気のない栞さんが私の横に立った。
「すごいね、のぞみちゃん。監督さんに褒められるなんて……私も今日がデビューなのは同じなのに、監督さんには『緊張するのはわかるけど、もう少しぎこちなさを無くしてほしい』って言われちゃった」
「そうなんですね……私は一緒に演技していて、ぎこちなさみたいなのは感じなかったですけど」
私は本音でそう言ったのだけど、栞さんにはお世辞に聞こえたみたいで『ありがとう、そう言ってもらえると救われるよ』と陰のある表情で少し微笑みながら言った。デビューしたばかりの声優さんって棒読みだったりひとりだけ声が浮いていることが前世で観たアニメでも多々あったけれど、栞さんの演技にそんな印象は全然受けなかった。多分監督の中のイメージと比べて、もうちょっとこういう感じにして欲しいぐらいのアドバイスだったのだと思う。それを伝えると、栞さんは『次回はそんな風に思われないように、頑張って練習してくるね』と言った。
そして録音スタジオに入って自分の荷物を持つと、私に『お疲れさまでした』と挨拶してから少し早足で出入り口から外に出て行ってしまった。
「……私も他の現場で何度もこういう光景を見てきたけど、結局は自分自身で乗り越えないとどうにもならないのよ。だからすみれが気にする必要はないわ」
「洋子さん、名前名前」
「あっ、ごめんなさい。でもやっぱり、呼び慣れた本名の方が呼びやすいのよね」
栞さんの後ろ姿を見送っていた私に、帰り支度をした洋子さんがそう話しかけてきた。しっかりした洋子さんの珍しいミスに思わずツッコミを入れると、自分の失敗を誤魔化すように洋子さんがペロッと小さく舌を出す。照れたような洋子さんがかわいかったけれど、それはまぁ今は置いておいて。
「同じように今日デビューした新人同士、スタートラインは一緒だと思っちゃうのよね。けれどものぞみは子役としての下積み経験と、そのために努力してきた時間がある。彼女が声優としてデビューするまでどんな風に演技経験を積んできたのかはわからないけど、今日の演技を見るとのぞみの方が一歩先んじていたのは純然たる事実だわ。それを認めて自分も頑張ろうと思えるか、それともヒイキとかズルいと自分の実力以外のせいにして腐るのか。彼女の人生にとっては大きな分水嶺になるわね」
なるほど、洋子さんの言葉を信じるならさっきの栞さんの態度によそよそしさを感じたのは、監督に褒められた私への嫉妬だったのかもしれない。確かに転生してから必死に努力したし、環境にも恵まれたと思う。でも前世の経験というある意味ズルい秘密を持っている私としては、『すごいのも褒められるのも彼女のはずなのに』とちょっとだけ罪悪感を覚えた。
それでも私も生まれ変わってこうして人生をやり直している以上、自分勝手な感傷で今さら歩みを止めるわけにはいかない。今生で縁を繋いでくれたみんなのためにも、いつでも私にできる全力で前に進んでいくべきだと思う。ううん、私自身がそうしたいと願っているんだから頑張らなくちゃ。
洋子さんと一緒にスタジオを出るともう周囲にはすっかり夜の帳が下りていて、冬が近づいていることを感じさせるぐらいには空気が冷たい。無意識にふるると体を震えるのを感じながら、駐車場まで早足で歩いて車に乗り込み帰路についたのだった。




