101――Aパート収録とお茶出し
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「それでは第一話のアフレコです、よろしくお願いします」
音響監督が慣れた感じでそう言ったのに続いて、出演者たちが『よろしくお願いします』と返事をする。出口に一番近いソファーに座っているのが私なので、スタジオ側のドアをガチャンと閉めた。
なるべく足音や衣擦れをさせないようにしつつ、自分の席へと再び腰を下ろす。コソッと栞さんが『ごめん、のぞみちゃん。ドアありがとうね』と耳打ちしてきたので、『大丈夫です』の意味をこめてにっこり笑ってから軽く右手を挙げた。まだ収録がはじまっていないのだから声を出したり衣擦れがしても大丈夫なのだろうけれど、本番に向けての予行練習みたいなものとして心掛けて動く。
台本の直しの指示を聞きつつ、本番で見直してもわかるようにボールペンで書き込んでいく。この4色ボールペン、学校の購買で買ったんだけど結構使いやすいんだよね。自分の中で色の使い方にルールを決めてそれに沿ってマークや記入をしておけば、パッと見て『どういう風に演じればいいのか』とか『アクセントに注意しなきゃ』とかすぐにわかるからね。
収録の進め方としてはAパートのテストと本番をした後で休憩を挟んで、次はBパートのテストと本番という流れになるそうだ。一応制作側も私と栞さんが今回デビューということで、普段ならわざわざ言わない細かい部分まで説明してくれたのでやりやすい。実写のドラマや映画とは現場でのルールがやっぱり全然違うし、私が経験したCMの撮影やモデルなんかとも違うからね。ちゃんと説明してもらえるのはありがたい。
実際に声を聞くと栞さんの方がヒロインに向いているんじゃないかなぁと思いつつ、選んでもらったからには頑張らねばと私は自分なりにヒロイン役の少女をイメージしつつ演技する。
第一話だしヒロイン役だからセリフ量も多く、マイクの前にいる時間が結構長い。先輩方も気を遣ってくれて他のマイクよりも低めになっているマイクを優先的に使わせてもらえているからまだ楽だ。
ただ私が座っていた席とは真逆でスタジオの奥の方にあるマイクだから、戻る時にノイズを立ててしまいそうでちょっと怖いかな。そんなことを考えながら先輩たちにぶつからないように移動しようとすると、主人公役の男性声優さんが『こっちにおいで』という感じに手招きをしてくれた。確か名前は原田幸嗣さん、なんだかうっすらと聞き覚えのある名前だ。
足音を立てないように、それでいて急いで彼の隣に腰掛ける。ペコリと小さく頭を下げると、原田さんは『いいよ』とばかりに軽く手を振ってマイクの前に移動していった。なるほど、ちょうど入れ替わりで自分が席にいなくなるから呼んでくれたのかな。男性がふたり並んで座ると肩が当たるであろうぐらいのスペースしかないんだけど、私なら大人に比べるとサイズがコンパクトだからふたりでも余裕を持って座れるし。後で周りの先輩方に相談して、ここを私の席として使わせてもらっても大丈夫かな? 新人はドアのそばに座るのがこの時代の当たり前だからマナー違反ではあるけれど、そんなマナーよりもいい作品を作る方が優先されるべきだろう。
そしていよいよ本番へ。最初は雰囲気に呑まれてドキドキと緊張していたけれど、先輩たちの真剣な演技を聞いていると自分もこの中に加わって演技をしたくなってウズウズしてしまう。
「裕貴くんは愛美ちゃんにとって、ただの幼なじみっていうことでいいんだよね?」
「そ、そうだよ。腐れ縁っていうか、ご近所で親同士の仲がよかったから……」
「じゃあ、応援してほしい。私、裕貴くんのことが好きだから」
「……美咲ちゃん」
私と栞さんのふたりだけがマイクの前に立って、Aパート最後のシーンを演じているとトークバックで音響監督さんから演技指示が入った。後ろに座っている監督さんも同意見らしいんだけど、もうちょっとムッとしたり親友に対する引っ掛かりみたいなものが足りていないらしい。
「聞いてる印象だとヒロインがいい子ちゃん過ぎて、あっという間に好きな男子を奪われそう」
「もうちょっと強力なライバルが登場したことに。怒り驚くみたいな感じが欲しい。今の演技だと悲しさの方が強い気がする」
トークバックから監督と音響監督の会話が聞こえてきて、その指摘に『なるほど』と納得した。確かに好きな人を取られるかもしれない焦燥感とか、親友と同じ人を好きになった驚愕とかそういう気持ちが足りなかった気がする。私が黙って考え込んでいるのを見て、背後からトントンと肩を軽く叩かれた。
「のぞみちゃん、キャラに対して恋愛感情を抱くのは難しいかもしれない。でも俺のことなら愛せるでしょ、現実に存在してるんだから」
原田さんはそう言ってから、小さく笑った。それから『俺をもっと好きになってよ、可愛い子に好かれるのは大歓迎だからね』と冗談めかして言ってくれたので、私もなんとか笑顔で『頑張ります』と返事をすることができた。平成末期の倫理観で考えると、彼の言葉はちょっとナルシストっぽく聞こえるよね。いきなりの言葉に少し引いてしまったのだけれど、その気持ちが表情に出てなかったかどうか少し心配だ。
あくまで演技の話だろうし、原田さんがセクハラ的な感情で言っているのではないということは落ち着いて考えれば私にもわかる。きっと先輩として演技がうまくできていない新人にアドバイスしてくれただけだろうし、いちいち平成末期の感覚でそういう風に身構えてしまうと私自身も疲れちゃうもんね。危機感をまったく覚えなくなるのはよくないだろうけれど、過剰反応しない程度の鈍感さが時には必要かもしれない。
アドバイスを踏まえて再度チャレンジすると、なんとか合格点をもらえたようで今度は止められなかった。新人さんは何度も収録を止めてリテイク指示を受けるみたいで、後から聞いた話だと私と栞さんは優秀だと先輩方の間でもよい印象を持ってもらえたようだ。『休憩に入ります』とトークバックで聞こえてきたので、肺の中の空気を『ハァ』と吐き出していつの間にか力んでいた身体をゆっくりと弛緩させた。録音ブース内はすごく緊張感に満ちていて息苦しさすら感じるけど、真剣勝負の場という雰囲気に演技を一生の生業にしようとしている人間としてはすごくワクワクする。
そう言えば、収録の時ってお茶出ししなきゃいけない現場もあるんだっけ? 前世でも有名な声優さんがラジオでお茶出しのことを話していた記憶があるし、一応質問しておいた方がいいかもしれない。必要がないなら台本の読み直しとか、後半のアフレコの準備に時間を使えばいいんだしね。
私は『ススス』と石原さんの近くに歩み寄って声を掛け、彼女の耳元に口を寄せた。
「石原さん、お茶出しってした方がいいんでしょうか?」
「そうねぇ……少しずつお茶出しをする現場も減ってはきているけど、新人さんの仕事だものね。栞ちゃんも呼んで、一回経験してもらおうかしら」
石原さんはそう言うと、ソファーで台本に目を通していた栞さんに声を掛けて手招きする。早足でこちらに近づいてきた栞さんにお茶出しについて話すと、栞さんは『普通の会社みたいなこともするんですね』と目を丸くして驚いていた。多分マネージャーさんから、そういう事前注意みたいなものはなかったのだろう。私も別に洋子さんから言われていたわけではないし。
「はい、皆さん注目! お茶飲む人ー?」
突然よく通る声でスタジオ内にいる先輩たちに問いかけた石原さんにびっくりしていると、先輩たちは『大丈夫です、ありがとうございます』と言いながら自分のカバンから水筒を取り出した。人一倍ノドのコンディションには注意しなければいけない職業だから、おそらく皆さんはそれぞれお気に入りの飲み物を持ってきているのだろう。監督たちがいるブースにも声を掛けると、音響監督やエンジニアさんなど複数人が手を挙げた。洋子さんは奥まったところにあるソファーに腰掛けていたのだけれど、私の姿を見てそばに近づいてくる。
「す……じゃなかった、のぞみ。お茶なら私が代わりに淹れるわよ。のぞみは台本読んだり休憩明けに向けて準備しなさい」
「違うの、洋子さん。雑用係をやらされているわけじゃなくて、これも新人声優の仕事なんだって。仕事で認めてもらえても、こういう役割をしないことで誰かに嫌われることもあるでしょ? だから、石原さんがやり方を教えてくれてるんだよ」
私がそう言うと、洋子さんは少し困った表情で石原さんの方に視線を移した。その視線をどういう意味合いに受け取ったのかはわからないけれど、石原さんはにこりと笑って小さく頷いた。
「失礼しました。それではお手数ではありますが、うちののぞみへのご教示をよろしくお願いします」
「そんな硬くならなくても大丈夫よ、ただ一緒にお茶を淹れるだけですからね」
そう言えば、洋子さんにお茶を淹れてあげたりしたことってあんまりなかった気がする。せっかくの機会だし、洋子さんにもお茶を淹れてあげようかな。喜んでくれたらいいけど。
洋子さんを除くと3人が手を挙げてくれたので、私と栞さんは石原さんの後に続いてスタジオを出て給湯室へと向かった。スタジオによって設備が違うので、そもそも流しはあってもガスコンロがないとか電気コンロがひと口だけ置いてあるなど状況は様々なんだって。このスタジオはよく単身者向けのアパートなんかに外付されているひと口用の電気コンロが、ポツンと流しの横に置かれていた。
「ここのスタジオは収納にヤカンとか湯呑みが入ってて、管理人さんの好意でお茶っ葉も用意してくれているのよ」
「えっと、他のスタジオではあまり用意されてないのでしょうか?」
「そうね。ほとんどのスタジオでは、用意されていない可能性が高いわね。初回収録の時にお茶を用意した方がいいのか、監督とか年嵩の先輩に聞いた方がいいかもしれないわ」
湯呑みやマグカップがないのなら使い捨ての紙コップを買ってこないといけないだろうし、茶葉やインスタントコーヒーの代金をどうするのかなど私たち新人だけでは判断できないことがいくつも出てくるだろうしね。そういうことは現場の責任者や発言権がある人に聞くのが一番簡単だもの、自分で勝手に判断して動いて無駄になっちゃったら、おサイフにも周囲の人の印象にも一番よくない気はするし。
シュンシュンとヤカンが音を立てるのを聞きながら、私たちは急須に茶葉を入れて準備を整えてからとりとめもない話をしていた。今日アフレコに参加している先輩たちの話も織り交ぜながら、面白おかしく石原さんが話してくれてものすごく参考になった。石原さんは元々ナレーションとか洋画の吹き替えの仕事が多いそうで、でもアニメの仕事も好きだから事務所にお願いしてアニメのオーディションも月に1度か2度ぐらい参加できるようにしてもらっているらしい。
洋画とアニメではやっぱり演技のやり方やテクニックも異なるし、あくまで石原さんの印象だけれど演技のリテイクは洋画の方が多いという。テレビアニメの場合は絵のスケジュールもあるし、そもそも放映スケジュールという一番遵守しないといけないものが存在しているからこだわれる時間的な余裕が少ないのかもしれない。話を聞いた私の想像だから、間違いだらけかもしれないけれど。
「栞ちゃん、中三ってアフレコ前にスタジオで練習させてもらったりするの?」
「いえ、スタジオ入りしたらやるべきことみたいなのはいくつか教えてもらいましたけど、実際のスタジオでの練習はなかったですね」
人気アニメのキャラクター何人かでグループを組んで歌うようになって、まだそれほど時間は経っていないし。大手の専門学校でアフレコスタジオを模した設備が作られたかどうかぐらいの時期だからね。
いくら大手の中三プロダクションといえども、自社用のアフレコスタジオへの設備投資が必要かどうかについての判断も含めて、二の足を踏んだのではないだろうか。これからも声優が若者が目指す人気職業になるかどうかなんて、未来を知らない今を生きる人たちにはわからないだろうし。
「のぞみちゃんは声の仕事、はじめてなのよね? 口パクによく合わせられてたし、すごく上手だった」
「あ、ありがとうございます」
仕事としてアフレコに参加するのは初めてだったけれど、前世の専門学校の授業の中にアフレコ練習があったんだよね。回数は数回で少なかったけれど、実際に放映されたアニメを題材に声を当てた経験が役に立った。ちょっと後ろめたいけれど、それをここで言うわけにはいかないもんね。表情に出さないようにしながら、小さく頭を下げつつお礼を言った。
どういう風に演じるかは役者側で色々と考えて挑戦できるけれど、スタジオ内での立ち居振る舞いをベテランの方から直接聞けるのは本当にありがたい。ちなみに石原さんは原田さんの発言についても『他意はないのよ、あの子はちょっと言い回しがね』と苦笑を浮かべていた。聞いていた栞さんも『中学生の女の子に自分を好きになってとお願いするのはどうなのかなと思った』と言っていたので、変な意味に受け取ったのが私だけじゃなくてちょっとだけホッとする。
「あれは彼なりのアドバイスのつもりなのよ。のぞみちゃんは、腰掛けじゃなくてこれからも声優業を続けるんでしょう? そういう想いが彼にも伝わって、アドバイスをしたくなったんじゃないかしら」
どうやら原田さんがアドバイスをしてくれた理由は、私が想像していた感じでほぼ正解だったことが石原さんの解説で裏付けられた。やっぱりそういう意味だったんだと、改めて原田さんの言葉がストンと腑に落ちる。どうか彼の言葉に引いてしまったのが私の態度に出ていませんように。だってせっかくアドバイスしてあげた相手に気持ち悪そうにされたら、いくら優しい人でも気分を害してしまうかもしれないもの。わざわざ言葉で謝罪してヤブからヘビを出すよりもアドバイスを活かした演技を見せた方が、先輩への感謝の気持ちがより伝わるよね。
湧いたお湯を急須に注いで少し蒸らし、湯呑みに少しずつ回し入れる。湯呑みの半分ぐらいまで注いでから栞さんに交代すると、今度は栞さんが同じようにそれぞれの湯呑みにお茶を注ぐ。ちなみに何故少しずつ回し入れるかというと、お茶の濃さや温度を均等にするためらしい。
湯呑みをお盆に載せて、零さないように気をつけながらスタジオに戻って希望した人たちに湯呑みを配った。もちろん洋子さんにも湯呑みを渡すと、嬉しそうに笑って『ありがとう』と受け取ってくれた。そんな洋子さんに私も笑みを返しながら、頑張って主人公のことを好きになろうと心の中で決意を固める。大事な人たちへの好きと恋によって感じる好きの違いは未だによくわかっていないけれど、多分なんとかなるよね……映画の役作りでデートの練習とかもしたのに、そういう意識が定着しないのは何故なのだろう。恋心ってむずかしい。




