100――悪感情の理由
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「本当に申し訳ありませんでした……!」
40代後半ぐらいの男性が私の前で、深々と頭を下げていた。私としてはそもそもあのオーディションに合格するとも思っていなかったので、今日この場に呼ばれたことが本当に不思議だった。ついさっきまで『もしかしたら制作陣のイライラ解消用のサンドバッグにするために私を起用したのかな』なんて、そんな妄想までしていたのに。まさか180度真逆の対応をされるなんて全然考えていなくて、何も言えずに薄くなってきている男性の頭頂部をジッと見つめることしかできなかった。
今日も一緒に付いてきてくれた洋子さんが、トントンと私の背中を優しく2回叩く。大人の人に頭を下げた体勢のままにしておくのは、常識的に印象がよくないよね。確かにオーディションの時のあの対応にはイラッとはしたけれど、もう終わったことだし今は別に怒ってはいない。とりあえず頭を上げてもらって謝罪を受け入れる旨を伝えると、おじさんはホッとした様子で肺にある空気を全部吐き出すように長いため息をついた。
どうやらこのおじさんはこのアニメの監督さんらしく、私に嫌な対応をしたのはまた別の人だったそうだ。本人でなくともその場にいて止めるべきだったのに、ニヤニヤと笑いながら見ていたので同罪なのだそうだ。まぁ、それはそうだと思うけれど。
とりあえず落ち着いてもらってから『何故ああいう対応をされたのか』という根本的な理由を聞かせてもらったのだけれど、『それなら仕方がないのかなぁ』と少しだけ同情を覚えるようなお話だった。
前にもチラッと思い返していたけれど、社会的に大きな影響があったあの事件が起こって、この時代のアニメ文化は本当に日陰者扱いで差別される側だったんだよね。単純にアニメが好きという理由だけではないにしても、その想いは彼らがアニメを作る大きな動機のひとつではある。好きなものを理不尽に貶められている現状は、アニメが好きで作り出している人たちからすれば面白くないを通り過ぎて不快さを感じて当然だろう。
ただ制作側も手をこまねいて虐げられ続けるつもりはなく、今回のアニメにはオーディション前にとある新人アイドルをヒロイン役に当てることが内定されていた。注目を集めるとか、販促イベントなどに見目麗しい女性を出演させてファンの目を引くというやり方は割とあるあるだろう。その意図が表沙汰になれば逆にファンからの怒りを買う可能性が高くなるけれど、外に漏らさないことが徹底できるならば比較的効率のよい方法なのだろう。内情がバレないようにスポンサーとアイドル事務所、監督やその他数人の上層部にしか伝えられていなかったので問題はないはずだった。
下準備をしっかりしていたからなのかそういう色々な裏事情がバレることはなかったのだけれど、なんとアイドル事務所の方から一方的に今回の話をなかったことにするという通達が来て泡を食ったのがアニメ制作サイドの人たちだった。当然もう契約も済んでいたのだから辞めるなら違約金をもらうという話になったのだけれど、なんとアイドル事務所の方は『そんなことを言うなら、週刊誌などに裏事情をすべて暴露する』と言い出したんだって。
自分たちのキャリアにもキズがつくだろうことを恐れて、結局アニメ制作陣が泣き寝入りすることになった。バラされたら困るのはアイドル側も同じのはずなのだけれど、『オタクの言うことなど世の中では信用されない』と強気だったらしい。まぁそれくらい現在はアニメ好きには冬の時代なんだよね、メディアが面白がって負のイメージを膨らませて広く報道した結果が一般人の認識に悪い影響を与えている気がする。
それだけならあんな風にイヤな態度を取る必要はないよね、今の話には私は全然関係していないのだし。不幸にもいくつかの要素がさっき言った出来事を思い起こさせてしまったのだと、監督は苦しげに吐露した。
入口で提出した私の名前や経歴などが書かれた用紙。あそこには事務所名も書かれていたのだけれど、そこには声優事務所ではなくアニメ業界ではまったく耳にしたことがない事務所名が書かれていたこと。次に私の服装が学校の制服のままだったことも、その理由に含まれているらしい。学生が声優として収録に参加することもたまにあるのだが、20代前半でデビューする人が多いのだから基本的に成人が多い。子供の頃から子役などで芸能界にいて、そこから路線変更して声優をはじめるルート以外の場合は声優養成所に入って演技を学ぶ人が多いからだ。
若くてそこそこ見た目が整っている女、彼らの脳裏にかの忌まわしきアイドルの姿が思い浮かぶにはそれで十分だったのだろう。憎しみのまま率直に罵る言葉がぶつけられなかったのは、大人の男としてのプライドだったのかもしれない。ニヤニヤ嫌な視線を向けて、チクチクと嫌味を言って傷つけてやろう。代償行為ではあったが、私を泣かせたり凹ませたりすれば気が晴れると考えたのだろうと彼は言った。
ちなみに直接私に言葉をぶつけた人は音響監督らしい、一緒に謝罪しようと誘った監督の言葉を拒否したためにこの仕事からは降ろされたのだとか。さらに恨まれていそうだなぁと、ちょっとだけうんざりとする。
残念ながらこの間のドラマの現場も違う意味でひどかったし、子役の仕事をはじめてから色々な出来事でメンタルが強くなっている私には彼らの悪意は全然効かなかったけどね。真正面から向かってくる私に、じゃあ下手くそな演技を馬鹿にして笑ってやろうと思っていたら想像以上にサマになっていてイメージ的にも合致したものだから彼らがいたブース内が一瞬ざわついたらしい。
そこで自分たちの行為を客観的に見直して頭が冷えたが、私はさっさとスタジオから退出してしまっていたから謝罪もできず今日まで時間が過ぎてしまったんだとか。有名な声優事務所なら伝手ですぐにアポを入れられたのだろうけど、業界では名前が通っておらずよく知らない事務所に謝罪のために連絡してアポを取るというのもハードルが高いのはわかる。私みたいな子どもに謝るのはプライドが邪魔をして、というのもあったのかもしれないしね。
「言い訳に聞こえるかもしれません。しかし松田のぞみさんの起用には特に他意はなく、私はもちろんあの場にいたスタッフと演技を聞いたスポンサーの人たちの全会一致で決まったんです」
言葉を濁すようにそう前置きしてから、おじさんは決して私の起用は罪滅ぼしではないのだと強く言った。すでに何度も謝罪の言葉を口にしてもらったし、私としては演技力を認めてもらってのオーディション合格なのだと太鼓判を押してもらったのだからこれ以上わだかまりを持つつもりはない。でも洋子さんは違ったらしく、疑わしげな表情でおじさんをじっとりと睨めつけていた。
「まさか、のぞみを前述されたアイドル事務所の人たちへの意趣返しに使うつもりではないですよね? もしそんなつもりが欠片でもあるのなら、私たちは即座に帰らせてもらいますが」
「いやいやいや、滅相もない。確かに彼女なら将来的に業界でも指折りの人気者になれる可能性は高いとは思いますが……」
洋子さんの厳しい脅しにも似た言葉に、おじさんは少し顔を青くした。でも途中で言葉を切って『そういうやり返し方もアリか?』みたいな表情をおじさんが浮かべたのを見て、洋子さんは私の手を引いてスタジオを出ようとした。その即断即決ぶり、さすがだなぁ。
まぁ本気ではなかったので、おじさんに引き止められてすぐに足を止めていたけどね。ちなみに監督さんは各務さんという名前で、アフレコのみならずこのアニメの総責任者なんだって。一番偉い人に頭を下げさせてしまったので、ちょっとだけ居心地が悪い。
その他新しい音響監督さんや機材を操作するエンジニアさん、アニメの制作進行さん、プロデューサーさんやスポンサーの担当者さんなどが挨拶してくれた。私だけ通常の集合時間より1時間ぐらい早く呼ばれたらしいので待ち時間が長そうだなと思っていたのだけど、集合時間の20分前ぐらいに私と同じく新人である女性声優さんがやってきたので挨拶した。大西栞さんと名乗った彼女は、アニメ好きなら誰もが知っている『中三プロダクション』の研修生なんだって。
声優プロダクションの養成所から本当に狭き門を通って、ようやく仮所属になる。そこから準所属になるのはさらに狭く険しい道で、正式に所属できる人など本当にひと握りの人間だけだ。大西さんは高校を卒業してすぐに上京して、バイトをしながら養成所に通ってようやく3年目の今年に内部のオーディションに合格したのだとか。
小声で栞さんの身の上話を聞いていて、子役という別ルートを通ってきたけど私って本当に運がよかったんだなぁと本当に思った。見出してくれた神崎監督には感謝だね、最近お会いしていないけれど元気なのだろうか。
私たちは入口のすぐ側にある椅子に座っていたので、先輩声優さんがスタジオに入ってくるたびに立ち上がって挨拶する。それほど広くないスタジオなのだから他の先輩声優さんたちにも聞こえているはずなのだけれど、それぞれに同じ文言で挨拶するのが声優業界のしきたりのようなものらしい。所属事務所と名前と『本日はよろしくお願いします』ぐらいしか言わないので、10秒ぐらいで終わるんだけどね。
先輩たちも慣れたもので『よろしくー』ぐらいの軽く感じで流してくれるので、本当にただの通過儀礼という雰囲気だ。どの先輩に挨拶したのかわからなくなって挨拶2回目とかになってしまうと失礼極まりないので、メモ帳に挨拶した先輩の特徴を箇条書きでメモっておいた。
今回はパイプ椅子じゃなくてソファーみたいな長椅子がスタジオの壁際に備え付けられていて、先輩たちは思い思いの場所でくつろいでいた。50代ぐらいの声優さんが歩み寄ってきて、栞さんの隣にゆっくりと腰かけた。
「あなたたち、新人さん?」
「はい、私は中三プロダクションの大西栞です」
「大島プロダクション所属、松田のぞみです」
それぞれが自己紹介してから『よろしくお願いします』と頭を下げると、『それはさっき聞いたわよ』たおやかに笑って『石原優実です、よろしくね』と名乗り返してくれた。
「ふたりとも、飴食べる? いくつか種類があるけど」
石原さんが鞄の中から飴専用のポーチを出して、中身を手のひらに載せて見せてくれた。喉を大事にしなければいけない職業だからか、飴の種類とこだわりがすごい。高そうなのど飴とかはちみつ入りの飴とか、スーパーでは見かけないものが多い気がする。せっかくなのでのど飴をひとつもらって口に入れると、少しピリリとした刺激があって喉にはよさそうな感じがした。
栞さんはミルク味の飴を選んだみたいで、口の中でコロコロと転がしながら美味しそうに頬をゆるめている。そんな私たちを見ながら、石原さんは『そう言えば……』と話し出す。
「中三は大手だけど、のぞみちゃんの事務所はあまり聞いたことがないわね。もしかして、子役とかしていたのかしら?」
「はい、声優については演技力の向上のためにやってみてはどうかとマネージャーさんから話をもらって、挑戦してみることにしました。もちろん勉強だけのつもりではなく、真剣に取り組みます!」
正直に答えてから『これだとやる気がないみたいに思われるかもしれない』と少し不安になったので、勢い込んでやる気アピールを追加してみた。両手をぎゅっと握りしめながら言う私に、石原さんは最初はきょとんとした表情を浮かべた後でクスクスと笑う。
「これまでよっぽど面倒な現場を経験してきたのね。確かにそういう風に意地悪を言う人もいるわよね、現場は勉強しにくる場所じゃないとか。大丈夫よ、のぞみちゃんのやる気はしっかりと伝わったわ」
なかなか肯定しにくいことを言う石原さんに、私はとりあえず苦笑を浮かべて誤魔化した。ほら、栞さんが『そんな現場には行きたくない』って顔をしてるじゃないですか。私もできれば面倒な現場よりは、楽しい現場で和気あいあいとお仕事をしたい。
その後はマイク前での動き方とか、台本をめくる時のコツとか。本番の時の立ち居振る舞いを教えてもらった。マイクの高さは少しだけソールの厚いパンプスに履き替えたので、背伸びすれば届きそう。石原さんは私より背が高いけれど、多分身長差は5センチもないはず。後は私がちゃんとタイミングを逃さずに、自分が届くマイクのところに入れれば大丈夫だと思う。
そうこうしていると収録開始時間になったようで、それぞれに台本が配られた。平成末期だと数日前に台本とディスクメディアが自宅に届いて事前に練習するというのがオーソドックスになっているという話を聞いたことがあるけれど、この時代だと台本は当日渡しの現場が多かったらしい。実際今日もその方式で収録を進めるらしく、受け取った台本をペラペラとめくる。
表紙とタイトルが書かれたページをめくると役名とキャストの名前が書かれていて、その中の『松田のぞみ』という文字に自然と笑みが浮かんだ。前世の私に性別とか姿形に名前すらも変わっちゃったけど、夢を叶えることができたよって教えてあげたいな。諦めなければ夢は叶うなんて言葉は呪いじみた綺麗事だと今も思っているけれど、あの努力は無駄じゃなかったんだとほんのちょっとだけ認めてあげられた気がした。
前回も書きましたが何もかもフィクションです、よろしくお願いします。
6/22 先輩への挨拶シーンあたりを少しだけ加筆しました。




