99――オーディション本番
いつもブックマークと評価、誤字報告ありがとうございます。
学校に通いながら仕事をこなしつつ、その合間に自主練を挟みながらもバタバタと日々を過ごしていたら、あっという間にオーディションの日を迎えた。
始まる時間によっては学校を公休させてもらわないといけないかなとか考えていたのだけれど、開始時刻が夕方だったので放課後でも間に合うみたいでちょうどよかった。下校したその足で電車に乗って会場である収録スタジオに行けばいいのかなと思っていたら、どうやらいつも通りに洋子さんが車で送迎してくれるそうだ。
その言葉に甘えて洋子さんが運転する車に乗せてもらい、現場近くにある時間貸し駐車場に停めて一緒にスタジオへと向かう。この時代は前世の平成末期と比べると、一時的に駐車できる場所ってかなり少ないんだよね。東京だからまだ見つけやすいけれど、地元は月極駐車場ばっかりだもの。路上に駐車している人も結構いるけれど、結局のところ駐車違反で反則金を払うよりは素直に駐車料金を払った方が安くつくからね。
スタジオのドアを押して中に入ると、すぐ近くに休憩所みたいな感じでソファーとテーブルが置いている場所があった。どうやらそこが受付とオーディションを受ける人たちの待機場になっているみたいで、ここに入る前に洋子さんから渡された紙を受付スタッフさんに渡す。渡すときに名前や経歴、どの役を受けるかなどが書かれてあるのがチラリと見えた。
「えーと、松田のぞみさん?」
「はい、よろしくお願いします」
名前を呼ばれたので、挨拶しながら軽く会釈する。実は声優に挑戦すると決めた際に、洋子さんやあずささんに相談したことがある。それは自分の芸名のことで、女優の仕事と声優の仕事で名義を分けることを提案してみたのだ。もちろん洋子さんとあずささんにもその必要性を最初はわかってもらえなくて、『何故わざわざそんなことを?』ときょとんとされたんだよね。
声優の活動をやってみようかどうするか悩んでいたときも考えていたけれど前世でアニメ好きだった人間として思ったのは、ドラマや映画などで活躍している俳優がアニメにゲスト出演することに否定的な風潮が根強くあるんだよね。もちろん上手だと褒められていた芸能人も少数ながらいた記憶があるので、全部がそういうわけではなかったけど大半は批判的に捉えられていた。それが名義を女優と声優のお仕事で分けようと思った、ひとつ目の理由。批判されたくないというわけじゃなくて、否定的な思いを抱えながらアニメが好きな人たちに私の演技をフラットな視点で見てもらうのってすごく難しいんじゃないかなと考えたのだ。
私の演技が下手で『お前は演技が下手なんだからもっと練習しろよ』って言われるのは全然前向きに捉えられるんだけど、『女優が腰掛けで声優の仕事なんかしてるからだよ、辞めちまえ下手くそが』と罵倒されるのは話が全然違うよね。前世ではネット上にそういう書き込みが実際にされているのを目の当たりにしたこともあるから、批判的な感情を持つ人の中には相手をとことんまでにこき下ろしてスッキリしたいと思うファンも一定数いるんだろうね。
そしてこれは私の想像なのだけれど、制作側の人たちも『まぁ、この人は他所から来たのだから』と作品の雰囲気を壊すような演技をせずに話の進行を邪魔しないのであれば、最低限のクオリティでもなぁなぁな感じでOKを出してしまうこともあったりするのではないだろうか……重ねて言うけど、これはあくまで私の想像だからね。
私としては自分の演技力を向上させたいのと、自分にできる仕事を増やしたくて声優へのチャレンジを決めたのだ。もちろん前世からの憧れの仕事というのもあるけれど、自分への糧にしたいというのが一番の理由だ。それなのに子役経験があることが邪魔になって採点を甘くされてしまっては本末転倒で、この挑戦自体に意味がなくなってしまう。『色々なことを考えすぎて妄想の領域に入りかけているのではないだろうか』と自分でも呆れるのだけれど、アイドルや子役をしていた人が声優業に転身するにあたって芸名を変えるなんて話は前世でもよく聞いた話だから、私が同じことをやったとしてもおかしく思われないんじゃないかな。
理由をしっかりと説明したら、洋子さんもあずささんも最初は『うーん』と否定的な感じだったのだけれど、最終的には私の意見を尊重して許可をしてくれた。ただ外で偶然会って呼びかける時に私が誰かと一緒にいた場合、その誰かが顔出しの仕事の知り合いなのか、それとも声優の仕事で関わりがある人なのかの区別がつかないから名字か名前のどちらかは同じにして欲しいと頼まれた。ふたりとも私のことは『すみれ』と名前で呼び慣れているので、できればそちらを残して欲しいと言われたけれど、個人的には名字よりも名前の方が印象に残りやすい気がする。もしも私の顔とすみれという名前をセットで覚えている人がいたとしたら、すぐに身バレしそうじゃない? だからふたりには申し訳ないけれど、名前の方を変更することにして『松田のぞみ』と名乗ることにしたのだった。
夏休みに昼の連続ドラマに出てから、本当に極まれにだけど『もしかしてお昼のドラマに出てました?』と休日に街に出かけたりした時に声を掛けられるようになったのも理由としては大きい。私と同年代の子たちがドラマのターゲット視聴者層だったのに主婦のおばさまたちの知名度の方が上がっているのがままならないけれど、もしかしたらお母さんといっしょにドラマを観ていた子たちもいるかもしれないからね。
「そちらのソファーに座ってお待ちください、順番にお呼びします。付き添いの方は申し訳ないのですが席が足りませんので……」
受付の人は言葉を濁したが、多分『その辺の壁際にでも立っていて欲しい』って感じに続くのかな? 私以外に5人がソファーに座って資料を読んでるけれど、多分オーディション参加者の人はもっといて、開始時間を少しずつズラして集合させて狭いロビーが混まないようにしているのだと思う。パッと見た感じ、マネージャーさんに同行してもらっているのは私だけみたいだ。まぁ他の人たちは大人だし、私は中身はともかく見た目も立場も正真正銘の中学生だからね。付き添いしてもらってもおかしくない年頃だ。
洋子さんは受付の人の言葉に文句を言うわけでもなく、私に『落ち着いて頑張ってね』と声援を送ってから少し離れた壁際に立って自分の手帳を捲りはじめた。これまでの経験から同じような現場がままあって慣れているのかも。あとは変に文句を言って揉めたら、担当タレントである私の評判が悪くなるかもしれないと悪評を避ける予防的な意味合いもあるのかも。
指示通りにソファーに座って、受付の人から受け取ったホッチキス止めされた数枚の紙に目を通す。1枚目は形式的な挨拶とこの後の段取り、2枚目と3枚目はヒロインと親友のセリフと簡単なキャラ設定が書かれていた。ざっと見た感じ、セリフにも誤字はなさそう。訂正指示もないし、普通に演技すればいいみたいだ。
スタジオから出てきたスタッフさんに呼ばれて、ひとりずつ中で演技しては出ていく感じなのかな。大体10分ぐらいで入っては出るを繰り返すので、私が呼ばれたのはスタジオに到着してから1時間ほど経った頃だった。
「松田のぞみさん、中にどうぞ」
「……はいっ」
おっ、いよいよ私の番だ。ソファーから立ち上がって呼びに来てくれたスタッフさんの後に付いていきながら洋子さんに『行ってくるね』と合図しようと思ったんだけど、知らない男の人と何やら話をしている最中だったので邪魔をしないようにそのまま通り過ぎてスタジオへの出入口のドアの前に立つ。案内してくれたスタッフさんがドアを開けた時に、ブラウン管のモニターや何本か立てられたマイクが見えた。スタジオって演技をするブースと音響監督さんたちがいる色んな機材が設置されたブースに分かれてるんだよね。両方のブースの間にはものすごく大きなガラス窓と、ブースを行き来するためのドアがあった。
「失礼します!」
頭を下げてからスタジオ内に足を踏み入れると、ガラス窓の向こうの人たちが何やらこちらを見てニヤニヤと笑っているのが目に入った。なんだろう、制服姿だし突然中学生が中に入ってきたのが彼らには面白く感じたのだろうか。
「大島プロダクション所属、松田のぞみです。よろしくお願いします」
『はい、よろしく。それじゃあ段取りは紙に書いてある通りに。こっちのカウントに合わせてもう一回自己紹介してもらってから、役名言って演技する流れで』
カチッと小さな音がしてから、天井のスピーカーからそっけない男性の声でそんな指示が聞こえてきた。まぁ同じ説明を何回もしないといけないんだから、言い方も適当になるよね。でもなんだか圧迫面接みたいなピリピリとした雰囲気が窓ガラスの向こうから漂ってきて、もしかしたら時間が押しているとかトラブルがあったのかもしれないなとなんとなくそんな印象を受けた。これまでの芸能活動でも現場に入ってスケジュールが後ろにズレちゃったことでスタッフさんに雑な感じで扱われるとかそういう対応には慣れてるし、初対面の人に笑われるのはちょっと感じが悪いなとは思ったけどそれほど気にすることではない。現場で上の立場の人がタレントによくやる態度だ。
私は自分がやるべきことをちゃんとやり切って、さっさと洋子さんのところに戻ればいい。そう思ってマイクの前に立ったんだけど、明らかに高さが合っていない。これは意地悪とかじゃなくて私の身長が他の参加者の人たちより低いからなんだけど、勝手に触って調整したらダメなのかな? このままだとマイクにちゃんと音が乗らないし、オーディション資料として役に立たなくなるよね。
「あの、ごめんなさい。マイクの高さなんですけど、下げてもいいですか?」
『君は声優としての経験がないみたいだから言っておくけど、アフレコではひとつのマイクを複数人で使うんだよ。自分の身長に合わせて高さを変えるなんて、デビューしたての新人に許されると思う? 自分の方をマイクの位置に合わせるんだよ』
苛立ちのような感情を滲ませた声で、天井から返事が返ってきた。うーん、これは『新人のお前なんか使うつもりはないんだから、さっさと演技して出ていけよ』みたいなことなのかな? 正直なところ、なんでこの人がこんなにイライラしているのかは全然わからないけれど、まぁこの時代的にはそこまで酷いことは言っていない気はする。新人のマイクの使い方で先輩が機嫌を損ねた話とか、時間が経って笑い話にできるようになった頃に声優さんの打ち明け話などで聞いたりもしたからね。制作側も突然機嫌を損ねた先輩声優から出演拒否されたり、新人のやらかしによる被害を受けるなんてこともあるのかもしれないし。たかがマイクの高さと侮らずに慎重になるべきだよね。こういう私の妄想があり得るかもしれないと思うぐらいには、パワハラじみたやり口が普通にまかり通っていた時代なのだから。
「わかりました、生意気なことを言って申し訳ありませんでした」
振り向いて窓ガラスの向こう側にいる人たちに、ペコリと頭を下げる。そして頭をあげてから、スタジオ内に素早く視線を巡らせた。あ、パイプ椅子がある。マイクの高さを変えるのがダメだとスタジオに来る前にわかっていたら、前に撮影で身長を高くするためにスタッフさんが用意してくれた高いヒールで身長を底上げした方法が使えたのにね。まぁないものねだりしても仕方がないので、この場にあるものでなんとかするしかない。
本当なら使っていいのか聞くべきなんだろうけれど、何回も質問してガラスの向こうにいる人たちをこれ以上イライラさせるのも申し訳ない。私の方をマイクの高さに合わせるべきだと言われたのだから、その通りにしているのだし文句を言われる筋合いはないだろう。
パイプ椅子をマイクの前に持ってきて、靴を脱いでその上に立つ。今度は私の顔の位置がマイクよりも高くなってしまったので、少し腰を屈めてマイクの正面に口元が来るように位置を調整した。ちょっとだけおしりをガラスの方に突き出すような形になってしまったので恥ずかしいけれど、どちらかというとそんな羞恥心よりもやっと演技に進める安堵の方が強かった。
「カウントをお願いします!」
『いや、ちょっと……』
天井のスピーカーから戸惑ったような声が聞こえてきたけれど、私は返事をせずにカウントが聞こえてくるのを待った。今の私はペーペーでデビュー前の新人声優だし、この時代の制作現場では制作側の人の方が強い立場だというのも紛れもない事実だ。でもだからって理由も説明されずにこういう八つ当たりじみたことをされると、理性では納得できても感情的には腹が立つのは仕方がない。
なんだろう、前の私なら怒りを我慢してでも頭を下げてマイクの高さを下げてもらっていたような気がする。私の中で何かが変わったのかな? 唯々諾々と従うより理不尽に正面からぶつかる方が周りに敵を作るのかもしれないけれど、どういう結果になったとしても自分の行動の結果だから納得もできるしストレスも少なくなりそうだ。ただその後始末をするのが洋子さんをはじめとした大人であることを考えると、ほどほどにしておこうとも思う。
でも今回はちょっと相手の理不尽がすぎるので、このまま突き進むことにした。
引かない私に制作陣は根負けしたのかカウントをはじめて、私はそれに合わせて先ほどと同じように『大島プロダクション所属、松田のぞみです』と自己紹介してから演技を始めた。素直になれない幼なじみの女の子、普段は大人しめだけど好きな男の子の気を惹くためなら大胆になれる女の子。前者がヒロインで後者がその親友の女の子だけど、どちらも演じていてすごく楽しい。前世の平成末期には手本にできる同じ系統のキャラがたくさんいたから、その演技を参考にしつつ自分なりに感情の色をつけながら演じたのだけれど自分ではかなり上手にできたと思う。
『お、OKです……』
スピーカーから戸惑ったような声が聞こえてきたので、私は静かに椅子から降りてガラスの方に振り返って『ありがとうございました』と深々と頭を下げた。顔を上げると奇異の視線が飛んできたりちょっと不機嫌そうな表情でこちらを睨む人もいるけど、私としては全力を尽くせたので出来としては満足だ。
椅子を元の場所に戻してから収録ブースを出ると、さっき話していた男の人はおらずに洋子さんが壁際にひとりで立っていたのでササッと駆け寄る。
「お疲れさま、す……じゃなかった、のぞみ。はじめてのオーディションはどうだったの?」
「すごく楽しく演じられました。でも、多分結果はダメだと思います」
洋子さんにさっきの件が知れたらおそらくクレームをガンガン入れるだろうから、なるべく穏便に済ませられるように濁すように答えた。私の思惑どおりに洋子さんは『あんまり手応えがよくなかったんだろうな』という感じに受け取ってくれて、『また次にオーディションの話があれば持ってくるわ』と励ますように私の頭をポンポンと撫でてくれた。
今回は本番の収録ではなかったけれど、やってみたらやっぱり声だけで表現する演技も面白かった。是非またやりたい、機会があれば絶対にやりたい。今度は動画に合わせて、自分の声を当てられる現場に行けたらいいなぁ……そんなことを考えながら、洋子さんの車に乗り込んで寮へと送り届けてもらった。
―――2週間後、洋子さんから聞かされたのはあのアニメのオーディションに受かったという連絡だった。まさか合格するとは思っていなくて、もしかしたら私が生意気だったからイジめてやろうなんて魂胆なのでは、とか思わず疑ってしまったのはここだけの話。
◎この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
あくまで私の妄想、架空のお話ですので『実際のオーディションってこんな感じなのか』とか思わずにフィクションとして楽しんでいただきますよう、よろしくお願いいたします。
多分この時代だとオーディションも一次審査はテープ審査が多かったんじゃないかなぁと思ったりもするのですが、今回はスタジオでのオーディション方法を採用しました。




