98――自主練
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色々と考えた結果、せっかくなのでオーディションを受けることにした。洋子さんにそれを伝えると、『それじゃあこちらの方で申し込んでおくわね』と気軽に請け負ってくれた。
オーディションの日程は2週間後。挑戦するなら全力でやりたいので、日課に滑舌のトレーニングを増やすことにした。あずささんのところでお世話になるきっかけとなった外郎売や早口言葉の読み上げなど、前世で養成所に通っていた頃のメニューをこなしていく。早口言葉もただ早く読むだけじゃなくて、最初はゆっくり言葉のアクセントなどを確認しながら読む。2回目は普通の速度で読み上げて、言葉がもつれたり詰まったりしないかを確認。仕上げの3回目では速度を上げても普通に読んだ時と同じように聞いている人に伝わっているか、そういう部分を重点的にチェックしていく。
「おおー、すごい。よく詰まらずにそんなに早く読めるね」
パチパチ、と拍手しながら褒めてくれるはるかに、私はちょっと照れながら『ありがとう』とお礼を言った。何故オーディションを受けないはるかがここにいるのかと言うと、私が夕ごはんの後の自由時間に稽古場でトレーニングしているところに乱入してきたからだ。『自分もやりたい』と申し出てきたので追い返す必要もないし、せっかくだからとここ何日かは一緒に練習をしながら過ごしている。
「はるかもわたしと同じように『ゆっくり、ふつう、はやい』みたいな感じで練習したら、普通にできるようになるよ」
「ええー、そうかなぁ? 私いっつも途中で舌を噛みそうになるんだけど」
はるかの不満げなセリフに、私は小さく苦笑を浮かべる。早口言葉で言葉に詰まったり舌がもつれたりするのは舌の動きが鈍いとかもあるけれど、一番の理由は焦りだと思う。早口言葉だからスピードを上げて言わないといけない、大多数の人はそんな風に思ってしまうんじゃないかな。普段の会話で早口言葉を言う人なんてあんまりいないだろうから、突然言わされるというのも失敗する要因のひとつだろう。
私は別に罰ゲームで読み上げているわけではなく練習なのだから、文章の意味や文節の区切りを意識しながら読めばそうそう詰まることはない。私がそのことに気づいたのは、前世で外郎売の中にある薬の効果を早口でアピールするパートの練習をしていた時だった。焦りは禁物、ゆっくり読んで詰まらなければスピードを上げても大丈夫。何度も繰り返し練習した努力が、こうしてすみれとして生まれ変わっても役立ってくれているというのは素直に嬉しい。
今度ははるかが原稿を読み上げる声を聞きながら、目で文字を追いかける。ちょっと気になったのは、鼻濁音ができているところとまったくできていない部分があるところだった。多分はるかはこの寮に住むまで、鼻濁音の存在すら知らなかったのだろう。初期のレッスン風景を思い出すと全く鼻濁音ができていなくて、あずささんに注意されていた光景が思い浮かぶ。
かくいう私も、前世で声優を目指して養成所に入るまで『鼻濁音? なにそれおいしいの?』レベルで無知だったから別にはるかをバカにするつもりはない。ちょっと言い訳をさせてもらうと、私の地元である関西には鼻濁音という文化がほとんど存在していなかったからだ。完全にと言わないのは、もしかしたら方言の中には鼻に掛かったような話し方をする地方があるかもしれないもんね。ちゃんと調べたことはないので、絶対にないとは言い切れない。
養成所でお世話になった講師の先生に、クラスのメンバー全員に対して『が行が強いよ』としかめ面で指摘された時は『何を言ってるんだろう、この人』とみんなで首を傾げたものだ。その後鼻濁音の説明をしてくれて納得はしたものの、うまくできるようになるまで結構な時間が必要だった。が行を発音する前に『ん』を入れることによって鼻濁音になるからその方法で練習すればいいと講師の先生に教えてもらって、日常的にやっていたら意識しなくてもできるようになった。
「地道な練習はきっと困った時の力になるから、はるかも頑張って身につけようね」
「そうなんだけど……この練習をひとりぼっちの部屋でやっていると『なんか間抜けだよね』って思っちゃって、恥ずかしくなるんだよね」
ちょっとはにかむように笑いながら言うはるかに、私も前世の自分を思い出してしまって『気持ちはわかるよ』と同意して大きく頷いてしまった。でも冷静に考えたら演技の基礎練習なんて基本的にひとりでやるものだし、ひとりなら他にギャラリーもいないんだから割り切ってやるしかないんだよね。特に私は養成所で同じクラスのみんなに見られながらたくさんの失敗をしてきたから、もはやそういう恥ずかしい気持ちにはすごく鈍感になってしまったような気がする。
はるかは無声化はキレイにできているから、私よりも苦労は少ないと思うんだよね。正直なところ、鼻濁音よりも無声化の方が矯正するのに苦労した。無声化も関西生まれの人間には結構難しいんだよね、関西弁って『です』『ます』っていう語尾をはっきり言う方言だから。『おはようございます』とか『よろしくおねがいします』とかも、講師の先生からは『なんで無声化できないの?』って呆れられたのが懐かしい。
こんな感じではるかとふたりで自主練をする日々を送っていると、洋子さんが学校に迎えに来た時に送られてきたオーディション資料を持ってきてくれた。今日は完全オフの日だったので、はるかと一緒に学校から寮まで直接送ってもらう。事務所に戻る洋子さんを見送って、自分の部屋で制服からレッスン着に着替えてから稽古場へと向かった。
はるかも資料を見たいというので、書かれている情報については誰にも言わないように言い含めてから封筒を開けて資料を取り出す。何せインターネットがまだまだ一般的には存在しないに等しい時代なのだから、この作品の情報が漏れるとしたら人伝てしか考えられない。オーディションの参加者が何人いるのかは知らないけれど、その中で学生の参加者はそんなにいないのではないだろうか。制作側がそこまでするのかはわからないけれど、誰からその情報を聞いたのかと噂をしていた人に尋ねたりしたら。その人たちが『学校で話題になってる』なんて答えた場合は、中学生の私が情報漏洩の容疑者として疑われる未来もあるかもしれない。
可能性としてはものすごく少ない話だけど、信用が大事な業界だから念には念を入れておく方がいいだろう。もちろんはるかは何も言わなくても誰かに話したりしないって信頼はしているけれど、ワザとじゃなくて思わずポロッと口から漏れてしまうなんて場合もあるかもしれないからね。
「なるほど、OVA作品のオーディションだったんだね」
「……おーぶいえー?」
資料のタイトルに書かれた文字を見て呟くと、はるかが小首を傾げながら気になったのかオウム返しした。その言い方がひらがなオンリーに聞こえて、ちょっとかわいい。
「オリジナル・ビデオ・アニメーションの略だよ。テレビで放送しているアニメじゃなくて、最初からビデオテープに収録してお店で売られているアニメ……でいいのかな?」
「そういうのもあるんだね、初めて聞いた。すみれはなんでそんなこと知ってるの?」
まさかそんな質問をされるなんて思ってもいなくて、私はギクリとしつつ誤魔化し笑いを浮かべながら、どう答えるべきか必死に頭を悩ませる。この時代のアニメ好きからすれば当たり前のように知っていることなのだけれど、あんまりアニメを見ないはるかからすれば不思議に思うよね。私も生まれ変わってからはこの時代のアニメで自分の趣味に合うものは前世で視聴済みだから、アニメじゃなくてドラマばっかり見ているし。一緒にアニメ鑑賞とかしてないのだから、はるかが知らなくても当然だ。
「お、オーディションを受けるって決めてからちょっと調べたの。ほら、うちの学校の図書室ってアニメの絵が表紙の雑誌とかもあるから」
「そう言えばオリエンテーションで案内してもらったけど、その後は図書室に一回も行ってないかも」
「学校の図書室にしては本の種類も多いし新しい本も入荷が早いから、はるかも行ってみたら意外と楽しめると思うよ」
こういうところは『さすが私立』って感心するよね。ちなみに図書室に定期的に足を運んでいるのは本当で、読書が趣味な美宇ちゃんとお昼休みに訪れている。お互いにオススメの小説を教え合ったりしてすごく楽しいのだけれど、そのチョイスを見るに美宇ちゃんもこちら側の人っぽい雰囲気を感じる時がある。でもそれをわざわざ指摘するような無粋な真似はしない。だってこの時代、とある事件のせいでアニメ好きだと言うだけで犯罪者みたいに見られる風潮が日本全体で起こっていたからだ。すごく胸が悪くなるような事件だったから、ここでは語らないけれど。
もちろん私だってアニメやマンガなんかのサブカルジャンルは好きだから、もしも美宇ちゃんが話を振ってきたとしても絶対に馬鹿になんかしない。でもまだ美宇ちゃんと出会って1年も経っていないし、仲良しの友達だけど彼女から相応の信頼を寄せられているかと言われると首を横に振るしかない。私にできるのは変にプレッシャーを掛けずに、美宇ちゃんから話を振ってくるのを待つことだけかなと思っている。でも美宇ちゃんが話したそうなのに言葉を飲み込むような仕草をした場合は、私から話を振るのもアリかな。そのあたりは臨機応変に対応したい。
それはさておき、資料の話に戻ろう。男の子と女の子、ふたりの幼なじみの恋の物語。素直になれない彼らにはそれぞれ親友がいて、隠してはいるけどお互いの想い人に片思いしている四角関係の中、危ういバランスで保っていた友人関係を主人公の親友の告白が崩してしまうところから話は始まる。友情を取るか、それとも恋慕を優先するか。一生に一度しかない、中学2年生の夏休みが始まった――というストーリーだ。
「挟まっているメモを見る感じ、わたしは主人公の幼なじみとその親友の役を受けるみたいだね」
「男の子って、友達が好きな人だって知っているのに告白できるんだね。私はちょっと無理かな、親友って言うぐらい大事な子なら余計に」
私が読んでいる資料を横から覗き込んでいたはるかが、なんだかムッとした表情でそんなことを呟いた。言ってることはまったくもってその通りだとは思うけれど、架空のお話にそこまで感情移入しなくても。元男としてはそういう人もいるのかもしれないけれど、世の中の大半の男性はちゃんとした人だよと心の中で反論しておく。
「素直になれない女の子かぁ。そんなに他の子と意中の男の子が仲良くすることにやきもきするなら、告白しちゃえばいいのに」
「すみれが告白するなら、大抵の男の子はOKするだろうから余裕なんだろうけど。普通の女の子は振られたらどうしようって思って、足踏みしちゃうんだよ」
私が思わず本音を呟くと、それを聞いたはるかがため息をつきながらそんなことを言ってきた。私が告白したとしてもタイプじゃなかったり仲良くなかったりしたら、普通に断る人はいるでしょうに。前世も含めて告白をしたことがないから実体験はないけれど、それくらいは私にだって想像できる。
「ちゃんと演技したいから、参考になる本とか映画とか探さないと。はるかは何か思い当たるものってある?」
「あ、マンガだけどオススメがたくさんあるよ。部屋にあるから貸してあげる!」
参考になるアニメやマンガのキャラクターは前世の記憶にたくさんいるけれど、この時代にはまだ合っていないかもしれない。そんな不安から尋ねてみたら、はるかはウキウキとしながらそう言ってくれた。大体中学生時代に読んでいたはずという記憶があったとしても、思い違いがあるかもしれないし。実際に今存在するマンガを確認できるのは素直にありがたいので、はるかにお礼を言った。
『そうと話が決まったら早速部屋に行こう』とはるかが急かすので、今日の練習はこれで切り上げることにした。ただ汗もかいているので、先にお風呂に入りたい。稽古場に入る前に糸子さんに準備をお願いしておいたから、多分もう沸いて入れる状態になっているだろう。先にお風呂に入りたいことを話すと、はるかが『一緒に入る』と勢いよく手を上げた。
以前上京したばかりの時に由美さんと一緒に入ったけど、あの頃は私も小さかったのでふたり一緒に浴槽に入っても全然余裕だった。でも私も成長したし、はるかなんて身長が結構伸びているからギリギリふたりで入れるけどすごく窮屈なんだよね。せっかくだからひとりでのんびりと手足を伸ばして入りたいのだけど、なんだか縋るような目で私を見るはるかに負けて一緒にお風呂場に向かうのだった。




