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目が覚めた。ここはどこだろう。体がひんやりとする。体が横になっている。仰臥位で寝ているようだ。しかし、まだ意識が朦朧とする。瞼が重くて、上がらない。何だか眩しい。声がする。
「しかし、適合率三十二%とは素晴らしい数字ですね~。初回にしては大変優秀です」
「そうだな。まあ十一期被験者では第二位だがね」
「例の子は初体験ながら五十四%ですからね~。過去類を見ない成績ですよ」
「だが被験体十九号も悪くない。通常ならトップ数値だろう」
「ええ、エフェラメルをここまで制御できるとは……、さすがと言いますか……、やはり血筋は争えないものですね」
「そうだな。今期は優秀な子が多くて素晴らしいな。何人壊れたんだったかな?」
「九十二です。残ったのは十八ですね」
「今回こそ七十%越えを達成して欲しいものだが……」
何の話をしているのか、わからない。だが、わからないことが理解できる。ここに来てから謎を、謎として解釈できたのは初めてだ。今聞いた言葉を忘れないようにしなければ、と葉は心に深く刻み込む為に唇をぐっと噛んだ。
「ん?」
「おやおや、目を覚ましてしまいましたか。麻酔が足らなかったようですね」
「エフェメラルの力だろうな。この姿……、まさに人知を越えた完全生命体だ」
「ええ、いつもながら驚かされるばかりですね、彼には」
「彼?」
「ああ、私はそう呼んでいるのです。だって神様はいつだって男性として描かれてきましたからね」
「そうだろうか。女性神も多数いると思うがな。天照大御神だとか」
「ええ、ですが彼女の中身は男性なんですよ」
「そうだったかな」
「どちらにしろ、そんな神話すらも無意味になっていくわけですがねー」
「そうだな」
声がはっきりと理解できる。男性。若い声と枯れた声。文脈からして恐らくは上司と部下、あるいは先輩と後輩のようなそんな関係だ。頭が朦朧とする。しかし、それくらいは認識できる。どうにかして顔を見たい。力を振りしぼって重たい瞼を上げた。
「おや、起きてしまいましたか」
「想像以上だな」
眼下に入ってきたのは目映い光だ。しかし、荒唐無稽なものではない。天井からつり下げられたライト。電気。その形状は手術台にあるそれだった。男たち。眩しくてハッキリ顔は確認できない。それでもわかる。水色の洋服に帽子にマスク。メガネをかけているような感じもする。手には手袋と何か銀色の物を持っている。わかる。ここは手術室みたいなところで、この人たちは医者に準ずる存在であり、自分は手術台に寝かされている。一瞬にして、それだけの情報が与えられる。
「ここで覚醒されても面倒なので、寝てもらいますね」
「この少女が次の聖女になるのか、楽しみだな」
聖女って何? エフェメラルって? 適合率って? 壊れたって? 九十二? 残ったのは十八? 何が? もしかして人? あそこに居た人たち? ねえ、教えて。助けて。
いや、言いたいことはそんな言葉じゃない。
私をここから出せ! 殺してやる!
しかし声にならない。それは感情を表に出せない性格のせいではなく、体の自由がきかないからだ。手も足も動かないし、声も出ない。
ちくしょう。くそくそくそくそ。とイラだつが、あの時みたいな光の力も沸いてこない。そして気がつくとまた、眠りに堕ちてしまった。
目が覚めた。どういうわけか立っている。例によってどうしてそうなったのか、記憶は無い。辺りを見回すと、小さなキッチン、廊下、そしてそのドアの前の向こうには空間が広がっている様子。天井や壁にはアイボリーの壁紙が貼っており、ドアは木目調。キッチンはステンレスで、水道もある。
「部屋?」
どこかの部屋。それも安っぽいワンルームみたいだった。深く考えるまでもなく、すぐに理解できた。これまでと違い、日常的な風景だったからだ。
「あ、腕が……」
葉は右腕があることに気が付いた。あの戦いでバケモノに勝利するために捨てた右腕が、当たり前のようにそこにあった。生まれてからずっと肩についていたその腕は、傷ひとつなく、何の変哲も無い右腕として、復活していた。
「治って、る?」
あの時、確かに腕は千切れた。再生などするはずがない。だけれど、ここではあらゆる物事が不可思議に進む。だから今さら、そんなことで驚きもしない。だから戦いで汚れた衣服やマスクを、以前と変わらない綺麗さで自分が纏っている事実すらも、淡々と受けいれる。よく見れば、体全体に傷もなく疲労感もない。あの、戦い。赤い砂漠、礼愛、バケモノ。光の剣。その全てが夢だったみたいに、跡形もない。
「まあ、いいか。それより……」
と葉は心臓に手をあてる。心に深く刻み込んだ言葉。あの手術室のようなところで聞いた情報。それは、恐らくはこの状況を打破する切り札になると思った。
「どういうことだろう」
と考えてみる。思えばこんなに頭を使って、体も使って、必死になったのはいつ以来だろう。わからない。とにかくずっとずっと昔のことのような気がする。
テレビや夢ではないのは確かだった。天国でも地獄でもない。それは自分が生きているという実感があるからだ。この痛み、苦しみ、辛さ、というのはこれまでの人生で自分が感じてきたものと、なにひとつ変わらない。
だとしたらこれは何だろうか。思いだせる最後は、部屋でネットゲームをしていた記憶。MMOというジャンルで、RPG風の世界観で、不特定多数の仲間と一緒に冒険をしつつ、オンライン回線で知りあった友達とチャットをしてコミュニケーションをする。ゲームのレベルMAXにはほど遠いかったし、クリアが目的ではなかった。ただ、誰かと一緒に居たかった。あ、これはどうだろう。私は何らかのアニメやラノベ的な作用によって、ゲームの世界に吸い込まれてしまった……、的な。
「ない、ね」
と自分で思って、自分で否定する。さすがにそんな神秘やファンタジーを信じるほどにおかしくはない。そもそも、そこまでオタクってわけでもないし、死んで異世界に転生するよりも、死なずにこの世界でそこそこに幸せになりたい。それで充分だ。
「全然、わかんない」
情報を整理して、考える。それでも、あまり頭を使ってこなかった葉には、この困難は高い壁となり、すぐに音を上げた。
「わかんない、わかんない」
と頭をかきむしっていると、また気配がした。葉はここに来てから感覚が鋭敏になった。防衛本能や生存本能が研ぎ澄まされているからだ。
「なに?」
と気配の方へ視線を送る。ドアの方。廊下の向こうのドア。恐らくは向こうには部屋が合って、生活空間があるはずだった。そこから、気配がする。バケモノとは違う、よく知っている気配。
「だれか、くる」
葉は身構えた。そして、ドアが静かに開かれた。あの真っ白い部屋で見たドアとは違い、ただ普通に開いた。
「あ! 何突っ立ってるの? ほら、早くこっちに来なさい」
現れたのは女性だった。メガネをかけ、黒髪を後ろで束ねた若い女性だ。高校か中学かわからないが、学生服を着ている。スカートが少し短くて、お尻が何だか生々しく、ブラウスが弾けそうな程の胸の大きさを誇っており、葉はちょっぴり嫉妬した。しかし、すぐにそんな雑念は飛ばされる。
「ほらほら、もうご飯できたわよ。今日は葉ちゃんが好きなミネストローネもついてるんだから」
彼女の言っている言葉が、理解できない。妙に馴れ馴れしい態度。平穏すぎる内容。全てが解読不能。貯まりに貯まった疑念というストレスが、ここに来て一気に爆発する。
「何? 何なの! あんた!」
と葉は素早い動きで彼女に近づき、胸ぐらをつかんだ。こんなことをしたのは生まれて初めてだ。
「答えなさいよ! ここは何? あんたは誰? 私に何をしたの? 洗いざらい答えて! さもないと……」
鬼神のような形相で恫喝する。その姿は部屋にひきこもっていたあの頃とは、もはや別人。人間は環境によってその姿形を変化させていくものである。どんな生物よりも適応力があり、変わる力を持っている。
「ぶっ殺すよ。あんたを殺してでも私はここから出る」
葉は心に決意をしている。強くなった。礼愛に別れを告げ、新しい未来を探すことを決めたのだ。そのために友達を殺害し、その返り血で血まみれになりながらも、ここへ進んできた。あれは礼愛だったのだろうか。それとも全く違う何かだったのだろうか。けれどそれは重要ではなかった。少なくとも葉の中では、ハッキリとした答えが出たのだから。
「私は生きる。生きて生きて生きて、生き抜いてやるんだから」
芯の通った力強い言葉だった。これから何があったとしても、自分は死なない。どんなことをしてでも生き抜いて、日常へ戻る。それが自分を愛してくれた友達への最大の手向けだから。そうでなければ、彼女に、礼愛に顔向けができない。
「ちょ、ちょっと! 何? 何よ、苦しいからやめなさい」
「じゃあ、答えろ。お前は誰だ!」
「誰って……、あぐ……、ゴホゴホ……、あなたのお母さんでしょう!」
「はぁ?」
と葉は面食らう。あまりの予想外の返答に呆気にとられて、胸ぐらか
ら手を離す。
「ごほごほ……、何? んもう、葉ちゃん、反抗期もほどほどにしなさい」
「ふ、ふざけるな」
葉には母が居る。母はメガネをかけているし、胸も大きい。どことなく声も似ている感じがする。しかし、こんなに若くはない。 この少女は、見た目、自分と大差ない年齢だ。
「まあ、驚いちゃうのも無理はないかなぁ。だって葉ちゃんは、お母さんの若い頃なんて知らないものね」
「ど、どういうことだ」
「まあまあ、それを説明するにしても、とにかくまずは、こっちに座りなさいな」
と少女は言った。葉は、とてもその言葉を信じられなかった。母、なわけがない。そう言われたら、何となく、似てるような感がはする。けれども、顔は全然違う。それに自分が知っている母は、もっとおばさんだ。
突然に、こんな少女が母だと言われても信じようがない。
「やだよ。わけわかんない」
これまで、怒濤のように酷い目に遭ってきた。あのバケモノの正体は分からないが、白衣や手術室にいた人間たちは、同じ集団だろうと何となく推測していた。まだ答えは何もわからない。しかし、少ない情報から導ける推論は、それしかなかった。
「お前も仲間だろ。あいつらの!」
「んー、仲間? うふふ、確かに-、そうかもしれないわねー」
「やっぱり殺す」
「ちょ、ちょっと待ってー、葉ちゃん」
「気安く呼ぶな」
「んもうー、どうしたら信じてくれるのー?」
「じゃあ答えろ。ここは何だ」
葉は刺すような瞳で言った。小動物なら睨み殺せる様な気迫だ。
「ここは……、日本よ」
「そのどこだ」
「それは……、今は答えられないの。口止めされてるから」
「誰にだ」
「お父さんよ」
「は? お父さん? なんでその名前が出てくるんだよ」
「だからぁ、それも全部、こっちでゆっくり説明したげるから。お母さんが」
「お母さんじゃないだろ」
「もう、葉ちゃんったら酷いんだから」
母には、いい思い出がない。小さい頃から、葉はいつも一人だった。姉弟はおらず、母も父も朝から仕事にでかけて、夜遅くに帰ってきた。いや、帰ってくる日はまだよかった。何日間も家を空けることがよくあったからだ。特別に、何か酷いことをされた記憶は無い。殴られたり、蹴られたり、いわゆる暴力みたいなことはなかった。けれど、褒められたり怒られたり、抱きしめられたりすることもなかった。母も父も、何もしなかった。何もしない、ことをした。掃除も洗濯も食事も、葉は小さい頃から一人でやった。家は二世帯住宅のようになっていて、母と父が住む家、と、葉が住む家、の二つに分かれていた。母たちの家は、葉が入ること禁止されていたので入れなかった。家に帰ってきたら、葉が暮らす家に、訪問、してくれることはあったけれど、寝る時はまた、自分たちの家に戻った。家族、とは誰にでも平等に存在する物。学校でそんなことを先生が言った記憶がある。どんな人にも親が居て、家族がいる。葉もその時は何も疑問を感じなかった。葉が思う家族とは、ただ同じ性を持ち、同じ家で暮らしている人間たちのことでしかなかったから。お金は自由に使えた。自分名義の口座があり、母と父から生活費が毎月振り込まれた。電気やガス、税金などは両親が全てやってくれていたから、生活していく上で必要なもの以外に、お金はかからなかった。食事。そして洗剤やトイレットペーパーなどの雑費だ。ずっと一人で暮らしていたから、家事が嫌いになることもなかったし、当たり前のように何でもできた。一人で起きて、ご飯をつくって学校に行って、家に帰ってきたら、昼下がりに洗濯物を干して、夕食の買い物に行って、ご飯をつくって、風呂に入って、眠る。その日常に両親が介入することは、まったくなかった。世間ではそんな状態に対し、ネグレクト、という呼称を使う。育児放棄。責任放棄。愛することを放棄することは簡単だが、その間に失われた心の空白を埋める作業は、子供にとって大変難しいものとなる。葉はネグレクトされていた事実を、最近になるまで知らなかった。知ったのは、六年生になったころだった。たまたま好きなアニメ作品で、そういった人物がおり、自分と同じだと思った。そこからだった。母と父が、なんの仕事をしていたのかは知らない。本当に関わりが無かったから。けれども、大きくなるにつれて、世の中という物をほんのちょっとでも知り、みんなと同じような家族を自分も欲しいと思った。両親にすり寄ってみたり、こびを売ったりして、少しでも同じ時間や気持ちを共有し、家族になろうとした。けれど、そんな行動が効果を発揮することもなく、特殊な育ちかたをした葉の心は既にボロボロで、さらには唯一の拠り所だった礼愛の死も重なり、ひきこもりとなった。ひきこもってからの毎日は既に周知の通りであり、母も父も葉に関心を示すことはなかった。誰かに愛されたい。その願いを強く想うのは、両親に愛を貰えなかったから。逆に言えば、未だに葉は母や父に対し、愛して欲しい、褒めて欲しい、怒って欲しい、抱きしめて欲しい、と言った幼児的な願望を強く持っている。だからこそ、あの白衣に、捨てられた、売られた、と言われた時、強いショックを受けた。何もしてくれなかった両親であるのに、それでも子供というものは無条件で信奉してしまうのである。
「葉ちゃん。葉ちゃんは凄い子なのよ。だって適合率三十二%なのよ! そんな子、他に滅多に居ないの。お母さん、とってもとっても誇らしいわ。さすが! お母さんの子ね」
と少女は満面の笑みで言った。曇りひとつない澄んだ瞳で、心底思
っているという声色で、葉をふんだんに褒めた。とてもお母さんとは思えないが、褒められると悪い気はしなかった。実をいえば、凄く嬉しくなったのだが、そんな自分が恥ずかしかったので表情に出ないように我慢した。葉の悪い癖である。気持ちに素直になれない。状況が、怒りを表出することは上手くしたのだが、喜びは関係がない様子だった。
「う、うるさい」
「葉ちゃんはつぎの聖女かもね」
また、その言葉だ。聖女とか適合率とか……、あの手術室で聞いたフレーズ。
「適合率って? 聖女って? 何なの」
「だからぁ、それはまだ詳しくは言えないんだって」
「ふざけるなよ」
「お母さんに、そんな言葉使わない」
「うるさいな。お前はお母さんじゃない。百歩譲ってお母さんだとしても
、その姿は何だよ。何でそんな姿になってるんだよ」
「若返ったの。ううん。ここに居る時はこの姿になれるの。奇跡の力でね」
「奇跡の力? 何の話しだよ」
見当がつかない、というように言った。けれど、内心ではそんなこともなかった。
「嘘ね。葉ちゃん」
と少女は甘い語り口ながら鋭さを持った口調で言った。
「お母さんは騙せないわ。葉ちゃんはもう、気づいてる。自分の変化に。奇跡の力に」
「し、知るかよ」
葉は動揺を隠しきれなかった。言葉に力も迫力も無い。先ほどまでの威勢は消えてしまった。少し褒められただけで、その心はあっという間に去勢をはれなくなる。まだ、小さい小さい芽吹きかけの芽なのだ。
「まあ、いいわ。とにかくほら、向こうでご飯食べましょ。お腹空いたでしょ? もうすぐお父さんも帰ってくるし」
「わかったよ」
「うん。いいこいいこ」
「何だよ」
この人は、本当にお母さんなのだろうか。若返った? 奇跡の力で? そんな突拍子もないことを言われて、信じられるわけがない。ここはどこ。ここに居る連中は何? あのバケモノは? どうして傷が治ったの? それも全部、奇跡、で済ますの? そんな荒唐無稽なラノベやアニメじゃあるいまいし、そんなことでは私は納得できない。と思う。
「今日は葉ちゃんが大好きな唐揚げも作ったのよ」
「うん」
少女はドアの向こうへ行く。葉も後からついていく。逆らえない。従ってしまうのだ。実のところ、母でも他人でもどっちでもよかった。そこは重要ではなかった。そんなことより、「すごいすごい」と褒めて貰えたことが、嬉しかった。人に褒められたのは、礼愛が死んでから初めてだった。人間として発芽した芽は、愛という養分を持ってやがて嫋やかな青葉を実らせていく。葉はまだまだ、発芽したばかりのちっぽけな芽、そのもの。偽りであれ真実であれ、わかりやすい愛の言葉を貰えたら、それを受けいれざるにはいられない。要するにまだ子供なのだった。
「ほら、そこに座ってね」
ドアの向こうには予想通り部屋があった。八畳ほどの空間。壁紙は白。窓にはカーテンがかかっていて、外の様子はうかがいしれない。フローリングの床には絨毯とラグマットが敷かれ、その上にはローテーブルが置いてある。テーブル上にはさっきから疑惑の母が言っている
ミネストローネや唐揚げ。葉の好物だ。本当の母が、それを知っているとは思えない。言ったことがないから。葉は愛されたかったにも関わらず、それを母や父に言ったことは無い。言えないのだ。例によって感情を発露することが苦手で、素直に自分の気持ちを言えない。恐いからだ。愛して、と言ったところで、それを否定されたら、とても耐えられる自信がなかった。
「おいしい?」
「うん」
「よかったぁ。ねえ、葉ちゃんとお母さんのご飯、どっちがおいしい?」
「お母さん」
腰を落ち着かせ、食事を食べた。ミネストローネも唐揚げもおいしかった。自分でも自分がおかしいってわかった。さっきまであのバケモノと戦っていて、目が覚めたらこんな場所に居て、お母さんと名乗る変な女が現れて、そいつが作ったご飯を食べている。こんなことをしてる間に、もっとすることがあるはずだ。こいつを問い詰めたり、強迫したり、逃げる算段を考えたり、それこそキリがないくらいにある。普通だったらきっと、そういうことをする。なのに自分は、結局、威勢がよかったのは最初だけで、気がついたらこの人に何も言えず、言われるがままになっている。顔も姿形も全然違うのに、この女を、をお母さんと呼んでしまう。信じられる要素なんて何もないし、説明も不十分でまったく納得できるはずがないのに、でも、お母さんだって呼んでしまう。こんな自分はまともじゃない。やっぱり変だ。あたまがおかしい。と思った。
「わぁあ! 嬉しい! うんうん。葉ちゃんありがと」
この空間そのものが、葉の望みだった。願いだ。優しいお母さんと一緒にご飯をたべて、そしていっぱい褒められる。葉の家に居た母は、こんなことを言う人ではなかった。ひたすらに無関心で棒読みで、冷たかった。だから、こんな母と過ごすこの時間は、夢だった。
「別に、いいよ」
「葉ちゃんはツンデレですな」
恍惚する。もっとしなければいけないことがたくさんあるのに、何も出来ず、ただその空気に飲み込まれてしまう。ヒントはいくつかあった。それを掘り下げて、もっともっと今の事態を把握しないといけない。何しろまだ、なにひとつとして、わからないことは解決していない。なのに、飲み込まれてしまう。人はとても愚かだ。
「違うよ」
カーテンの向こうに何があるのか、確かめたい。閉めきられたカーテン。開けてみようと思いつつ、けれど体を動かすことはしない。
「それで、奇跡の力って何?」
葉はようやく本題を切りだした。しかし問い詰めるというよりは、実の母親に軽く質問をした、という感じだ。
「聖女が起こす奇跡のことよ」
「聖女って?」
「これから葉ちゃんが目指すものよ」
「目指さないし。そもそもここは何?」
「教会、ってみんなは呼んでるわね」
「ナニソレ」
「さあ? お母さんは知らないわ」
「知らないって何? おかしいよ、そんなの」
「なぁんにもおかしくないわ。普通よ、普通」
要領を得ない母の言葉に、葉はだんだんとイライラしてくる。しかし強い口調で攻めることができない自分が腹立たしかった。
「んまあ、そろそろお父さんが帰ってくるからそしたらぁ、訊けばいいじゃない」
「お父さんもここに居るの?」
「ええ、だってお父さんの仕事場――」
――ガチャ、とドアの方から音がした。廊下とこの部屋を分離するドア。今は閉じている。葉は咄嗟に立ちあがり身構えた。
「お父……さん?」
と葉は呟く。ドアが開いて、人影がみえる。身長百七十センチくらい。黒い髪。やつれた手。白い服。お父さん? いや……、
「お、お前は!」
「ふふふ、さあ、再びの戦いの時だ」
そこに居たのは、あの白衣を纏った謎の存在だった。ドアが完全に開くと、やはり顔は見えず、黒い靄がかかっていた。
「お前―!」
と葉は啖呵を切って襲いかかるが、その突進はひらりとかわされてしまう。そして再びの黒い靄に捉えられ、気を失ってしまうのであった。