陸 小さな守護者
街頭に蛾が群がっていて、飛びついては弾かれてを繰り返している。
「申し訳ありません穂乃佳さん。このような時間まで付き合わせてしまって」
「いえ、大丈夫です」
時計は午後七時を回ったところだ。夏の日は長いから、まだ多少明るさはある。子供達がすっかり帰った小さな公園のベンチに私達は座っていた。二つ並んだベンチの片方に私と紫苑様が腰かけていて、もう片方には朝日君が横になっている。水飲み場で濡らしてきた手拭いを朝日君の額に載せて、神楽さんは私の横に座る。
あの後、しばらく路地でタイミングを見計らっていた。お面を着けて顕現している紫苑様が朝日君を抱え、人通りが少なくなったところでこの公園へ運び込んだ。誰の目にも触れないように夢社へ連れ込むのが最善だそうだけれど、ベースとなる社から離れていては使えないのだという。
紫苑様は今もお面のままだ。表情は分からない。
「晃一さんは翡翠の覡と呼ばれる存在です。神力を持つ人の子。操るのは神を導く神通力。詳しいことは言えないのですが、今回貴女を探したように、神々から依頼を受けて動いています。私は高天原の大神様方からお目付け役を仰せ付かっているので、こうして彼と共にいるのです。力の所為で妖に狙われることがあるので、護衛も兼ねています」
貴女の質問に答えること、答えはこれでよろしいですか。と訊かれたので私は頷く。おそらく朝日君が背負っているのは責任とかではなく、もはや運命のようなものなのかもしれない。ただ妖怪が見えるだけの私とは違うんだ。
「晃一さんが目を覚ましたら、依頼主に会いに行きましょう」
「分かりました」
依頼主は連れ去られたのではなく、間違えて保護されたのだと紫苑様は言う。怪我もなく無事であるとのことで、神楽さんが胸をなでおろした。
「神楽さん、朝日君と一緒に私を置いて行った時何してたんですか」
「あれは小物がちょろちょろ後を付けて来ていたから撒いたのよ。一緒にいたらあなたも追い駆けられてしまうでしょう。でも、それが裏目に出て、大首に追い駆けられるなんて思わなかったけどね」
「すみません、勝手に動いて」
「いいのよ。おかげで格好いいシオン様を拝むことができたわ。やっぱりいい男ね、ねえ、イケメン」
「その呼び方はやめてくださいよ」
三人はいつから一緒にいるんだろう。分からないけれど、とても仲がいいんだなというのがよく分かる。人間と、神様と、妖怪、それぞれ違うけれど、こんなに楽しそう。
「穂乃佳さん」
「何ですか」
「あの大首はもう晃一さんにも貴女にも近付かないでしょう。しかし、あれが他の妖に言いふらして回るかもしれません。貴女のことも、翡翠の覡と一緒にいた人間だと言って妖達の間に広がる可能性があります」
「追い駆けられることにはそれなりに慣れてるので平気ですよ。それに、朝日君の方を優先的に狙うんじゃないですか、私よりも」
「俺は避雷針か……」
呻くような声が聞こえた。頭を押さえながら朝日君が起き上がる。
「晃一さん、ご気分は」
「よくはない。けど、だいぶ落ち着いた」
手拭いを神楽さんに返し、朝日君は立ち上がる。傾いた日の中、夜の闇に翡翠が煌めく。
「いいよ、出水さん。俺があんたの避雷針になってあげる」
「いいの?」
「何もしなくてもそうなるだろうし、そもそも今までもそうだったんだろうからな」
紫苑様の案内で、私達は依頼主がいるという場所へ向かった。朝日君はまだ少し頭が痛いようで、足元はおぼつかないし、見るからに具合が悪そうだ。紫苑様に肩を借りながら、なんとか歩いているようだった。力を持っていると、やはりそれを使った時、体に負担があるということなのだろう。遠野にふらりと祓い屋さんがやって来て悪い妖怪を退治しているのを見たことがあるけれど、その人も最初は元気そうだったのに妖怪を一体、二体、と倒していくたびに元気がなくなっていた。
辿り着いたのは小さな祠だった。九本の尻尾を揺らすキツネが座っている。このキツネが依頼主?
「お待ちしておりました、晴鴉希様。主は中にいます」
祠の戸を開け、狐が中へ入っていく。この一メートルもなさそうな高さの祠の中に入るだなんて、動物だからできることなんだろう。と思ったら、躊躇いもなく朝日君と紫苑様も身をかがめて入って行った。
「ほのか、こういう祠の中は夢社になっているのよ。大丈夫、中は広いわ」
神楽さんに言われ、私も一歩踏み込んだ。確かに中は広かった。十畳よりも少し広いだろうかという室内。和風で趣のある家具が並べられていて、いるだけで心が落ち着くような部屋だ。奥にちょこんと人が座っていた。中学生くらいの女の子だ。長い髪は驚くように白く、青空に浮かぶ雲のようだ。透き通るような肌にぷかりと浮かぶオレンジ色の瞳がきらきら輝いている。
私達は用意された座布団に腰を下ろした。キツネが女の子のすぐ傍で守るように控える。
「晴鴉希命、今回はすまなかった。わたしの勘違いで振り回してしまったようだ」
女の子の口からはお婆さんのような声で言葉が紡がれている。外見は子供なのに、中身だけ長い長い時を見て来たようだ。
「構いませんよ。それは貴方の優しさです」
「捨てられているのかと思ったんだ。こいつのように」
そう言って女の子はキツネを撫でる。このキツネ、神使じゃなくて妖怪だ。おそらくこの女の子が神様なのだろうけれど、神使ではなく妖怪を傍に置いているのには何か理由があるのだろう。
「おい、迎えが来たぞ。出ておいで」
女の子が声を掛けると、奥の引き戸が開いて更に小さな女の子が出てきた。金魚の模様の赤い浴衣姿で、頭には大きな黄色のリボンが揺れている。私は自分の目を疑った。見間違えるはずのないその姿。ずっと見て来たあの子の姿。
「あ! ほのか! ほのかだ! よかった。やっと会えた」
小さな足で小さな足音を立てて、小さな女の子が私に飛び付く。
「え、ええ、え、何で?」
「わーい、わーい」
大きな赤い瞳がくるりと光を揺らす。
「小袖?」
「そうだよ、小袖だよー」
「どういうこと」
それは紛れもなく座敷童子で、私が小さい頃から遊んで来た相手である。
軽く紫苑様に凭れたまま、朝日君が口を開く。
「あんたを追い駆けて北海道まで来たそうだ。何でも、術者に貰った一時的に変化の能力を手に入れる札を使い、鳥に化けて飛んで来たらしい。しかし、あんたを探しても見つからず、疲れ果てていたところでとうきびを貰った。この街にあんたがいるって分かったから地道に探していたそうだが、噂で俺のことを聞いて依頼に来たと言うことだ」
「鈴彦姫が離れている時に、捨て子なのだとわたしが勘違いしてしまってな、ここまで連れてきてしまったんだ」
キツネを撫でながら女の子が言う。
「童女、友に会えてよかったな」
「うん、ありがとう」
小袖は私にしがみ付いた。頭を撫でてやると嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。
祠を後にして、私と小袖はアパートまで送ってもらった。マンションへ帰る朝日君達と別れ、部屋に入る。
「びっくりした。夏休みには帰省するって言ってあったのに」
「ほのかがいないと寂しい。一緒にいたい。だから、札幌にいさせて。帰った時に遠野に置いて行かないで」
「ええー、どうしようかなあ」
そんなに私といたいのか。小袖は部屋の中を楽しそうに走り回っている。一階なので下の階の人に怒られると言うことはないけれど、お隣に五月蠅いと言われないようにしないと。
「ほのか、やっぱりあなたは遠野の加護を、仲良しの妖達の力による守りを受けている。けれど、ここではそれは働かない。離れてしまっているから。だからあたしはここに来たの。あなたが遠野へ元気いっぱいで帰れるように。ここにあたしがいれば、それは小さいもので比べ物になんてならないけれど、あたしの、あなたを守りたいという思いはあるから」
あの時、私は妖怪達に助けられたのか。悪い妖怪に襲われにくかったのも、友達の妖怪が多かったからなのかもしれない。
「ほのか。あたしをここにいさせて。この部屋を守る。それがあたしの、座敷童子としての役目だから」
小さな手をぎゅっと握り、大きな目でじっとこちらを見る。本人としてはできうる限りの勇ましい格好のつもりなのだろうけれど、かわいすぎる。
「ありがとう、小袖。一人の部屋も、一緒なら楽しいね」
「ほのか!」
飛びつかれたので、頭を撫でてあげる。
妖怪はすぐ傍にいる。けれど、そのことに気が付く人間は少ない。昔は多くの人間が妖怪を見ていたというけれど、今となっては文字通り昔話に過ぎない。視界から、記憶から消されていく妖怪達のことを、私のように見ることのできる人間が存在を認めていってあげないと彼らに未来はないのかもしれない。悪い妖怪、いい妖怪、それは様々だ。けれど、私達が見てあげないと彼らは何もできない。すぐ傍にいる子だけでも、せめて、私が生きている間だけでも、ずっと見てあげることができればいいな。
「小袖、遠野のみんなは元気にしてる?」
「うん」
「そっか。お盆がますます楽しみになるね」
もっともっと、とせがまれたので、小袖が満足するまでなでなでは続いた。