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伍 翡翠と漆黒

 追い駆けた。はずだった。


 迷った。


 札幌の街中は碁盤の目になっているから歩きやすいだなんて、そんなことを言ったのは誰だ。道に迷ったんだけど、どうしてくれる。


 東西南北の見当がつかない。


「あ」


 ビルとビルの間から大きな目が私を見ていた。


「そこの人の子。わたしが見えるのか」


 あまり関わらないのが身のためだろうか。陰になっていて姿がよく見えないため、種類が分からない。どんな妖怪か分かればいいのだけれど。


「訊きたいことがある。おまえに危害は加えない」

「本当に」

「本当だ」

「何を訊きたいの」


 物陰で妖怪の瞳がきらりと光る。


「翡翠の覡という者を知らないか」

「……知らない」

「そうか。それは残念」


 立ち去ろうとした妖怪を呼び止める。どうして呼び止めたのか、自分でもよく分からなかった。本人の口から聞くのが一番だと、そう思っていたはずなのに。私は陰に隠れている妖怪に近付いた。


「ねえ、翡翠の覡って何なの」

「ん? んーとな、あれはいい人の子だって話だ。あれを食べれば神になれるらしいからな。わたしもあれを食べて神になるのさ」

「そう」

「おまえもうまそうだけど、翡翠の覡と比べれば全然だろうな」


 瞳の光が見えなくなる。去っていたのだろうか。


 今の妖怪は朝日君を探していた。朝日君を食べると神になれる? それは妖怪の中で広がるただの噂か、それとも本当のことなのか。


「見付けたぞ」


 背後に気配を感じた。背中へ伝わってくる威圧感が容赦なく緊張感を高めていく。


「今度は一人か、それなら丁度いい」


 この声は聞いたことがある。ものの数時間前に大学構内で絡んできた大首に違いない。


「喰ってやる」


 遠野での妖怪達との平和な暮らしが懐かしい。あの土地を出てしまったら、一緒に遊んだあの子達とはなかなか会えなくなってしまう。分かっていたことだ。分かっていて、私は北海道までやって来た。分かっていたはずだ。


 そういえば朝日君は「遠野の加護」と言っていたな。何のことなんだろう。しかし、今は考えている場合ではない。大首から逃げなくては。次こそ本当に食べられてしまう。私は右の方へ走り出す。ずりずりという音が後から付いてくる。


 自分がどこを走っていて、どこへ向かって走っているのかは全く分からない。このまま逃げ続けてうまく撒けたとしても、待っていてと言われた公園まで戻ることはできない。戻ってきたときに私がいなくなっていたら、朝日君と神楽さんはどうするのだろう。探してくれるのかな。何だか迷惑をかけてしまう気がする。おとなしく待っていればよかった。


 普通の人に怪しまれないようにしなくては。人の少ないところを目指してビルとビルの間に駆けこんだ私は、落ちていたビニール袋に引っ掛かってすっ転んだ。大首はもうすぐそこだ。





 これは走馬燈だろうか。遠野の妖怪達の顔が頭に浮かんでは消えていく。


 河童、雪女、座敷童子……。


 そういえば、小さい頃に小物妖怪達とおにごっこをして大変なことになったっけ。必死に逃げていた幼い私は、森の奥の崖で足を滑らせた。おに役だった妖怪も、近くにいた妖怪も、参加していなかった妖怪も、みんなが悲鳴を上げていたのを覚えている。幼いながら、その時は「ああ、死んだな」と悟った。けれど、私は生きていた。崖の下で穏やかに眠っているところを座敷童子が見付けてくれたんだよね。あの時、彼女はなんて言っていたんだっけ……。



「よかった、ほのか。やっぱりあなたは――」



 ……思い出せないや。





 目の前にアスファルトが広がっていた。一面の黒、所々に白線が走る。


 大首に食べられる。そう思ったけれど、大きな口は私に噛みつく直前で止められていた。なぜ躊躇っているのだろう。あれほど私を食べようと頑張っていたのに、いざとなったら人を食べるが怖くなったのだろうか。


 大首の目は私を見ていない。大きな目が見開かれ、「それ」を見つめている。


「待ってるように言ったよね」


 大首の視線の先、「それ」は朝日君だった。駆け寄ってきた神楽さんに無事かどうか聞かれたので、とりあえず無事であることを伝える。


「お。おお、お。これは、この力、その瞳の色。おまえ、最近噂の翡翠の覡か」

「そうだったらどうする」

「喰う。喰ってわたしが神になってみせる」


 大首は朝日君目掛けて動き出す。けれど、朝日君は逃げるような素振りを見せない。


「怖気づいたか。翡翠の覡というのも大したことないな」


 先程まで晴れていた夏の空が暗くなっていた。暗雲が垂れ込め、今にも空が涙をこぼして泣きだしそうだ。朝日君も神楽さんも、広がる雨雲を見て満足そうな様子だ。二人につられて空を見上げると、額に雨粒が一つ落ちてきた。しかし、勢いよく降り出すということはない。ぽつ、ぽつ、と、雨粒が一つずつ落とされているような感じだ。


 大首が大きく動いた、その時。


「かあ」


 一羽のカラスが旋回しながら降りてきた。大首と朝日君の間に降り立ち、翼の生えた男の姿へと変わる。


「さっきのカラスか、邪魔をするな」


 遠雷が鳴る。


「晃一さん、依頼主を見つけました」

「分かった。すぐに行こう。でも、その前にこの大首をどうにかしないとな」


 朝日君の翡翠色の瞳がぎらりと光った。穏やかな木漏れ日のようだと思っていたけれど、今の目は人々を迷い込ませる樹海のようだ。呼応するように紫苑様の漆黒も吸引力を増し、見ただけで吸い込まれてしまいそうなくらい深く暗くなる。


「よし、今回の依頼、導くのはおまえだ。そもそも使おうとして使えるもんじゃないから、あの時みたいにうまくいくか分からないし、二回目があるのかも分からない。俺に賭けてくれないか」

「ふ。失敗したらツナマヨおにぎりを供物として捧げてください」

「分かった。いくよ、紫苑様」

「いつでも準備はできていますよ」


 ようやく雨が降り始めた。濡れた髪が顔に貼り付く。神楽さんが手拭いを貸してくれたけれど、雨が降る中で差し出されても手拭いが濡れてしまって使い物にならない。


「頼む、うまくいってくれ」


 朝日君が祈るように手を組んだ。


「……羽撃けっ、紫苑っ!」


 漆黒の翼が大きく大きく広げられる。羽根の一本一本に青白い光が散らされているようで、一段と美しい。そして、黒ずくめだった紫苑様の姿が白い狩衣姿に変わっていた。その姿から放たれる神々しさは形容しがたいもので、圧倒される。恐怖、いや、畏怖だ。神々しさの圧力に押されるようにして、立ち上がろうとしていた私は再びへたり込んでしまった。神楽さんもぺたんと座っていて、ただただ茫然と目の前の光景を見つめている。


「シオン様、綺麗……」


 よし、やった! と歓喜の声をあげた朝日君がよろめいて膝を着く。軽くそちらを振り向いたものの、紫苑様は大首の方を睨みつけたままだ。しかし、その表情に険しさというものはないように見える。睨んでいるけれど、とても涼やかな顔をしているのだ。大首は訳が分からず足もないのに立ち竦んでいる。私も訳が分からないけれど。


「我が名は雨影夕咫々祠音晴鴉希命。豊穣をもたらす恵みの雨を司る日陰の八咫烏である。翡翠の覡に手を出すことは我が許さぬ。指一本でも、いや、汝に指はないか。だが、軽くでも触れてみろ。この暗雲垂れ込める空より、汝に天誅を下そう」


 遠雷が鳴っている。


「立ち去れ、無闇な殺生はしない。二度と我が前に現れるな。さすれば見逃してやる。覡にも、そこの娘にも手を出すな」


 大首は苦虫を噛み潰したような顔をしながらずりずりと後退った。紫苑様がにこりと微笑んだのを見て、一目散に逃げだす。


 纏っていた狩衣が霧散するようにして消え、黒ずくめの姿に戻る。そして、うずくまっている朝日君に駆け寄った。


「晃一さん」

「ああ、悪い……。ちょっと、くらくらする」

「やはり無理に使ったからでしょうか。立てますか」

「厳しい、かも……」


 朝日君の上体が揺らぎ、そのまま紫苑様に倒れ込んでしまった。


「こーいちっ」

「晃一さん、しっかりしてください。晃一さんっ」


 空を覆っていた黒い雲は消え、少しオレンジ色に染まった空から夏の日差しが差していた。










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